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ヨンゴトナキオク29 2021.5.4

オードリーのお墓参り

30代の頃、私は墓マイラーでした。元々自分の先祖のお墓参りが好きだったということもありますが、初めてパリに行った時、市内に点在する墓地を物見遊山で出かけたことで「死者が眠っているのに、全然怖くない。むしろパワースポット」ぐらいの衝撃を受けたのがきっかけだったと思います。そのきっかけを私に与えた親友が若くして亡くなったことで、私はますます「お墓」というものにのめり込むようになりました。お墓はその人が生きた証。そのお墓を巡ることでその人たちの人生も追ってみたい。そう思ったのでした。

彼女の死から3年後の1998年9月、私は1週間の予定でパリとスイス・ローザンヌのお墓参りを決行しました。娘は当時2歳半。夫もよう送り出してくれたもんです。何しろあの頃は「お墓は私のライフワークだ!」と思っていたものですから。しかし、その後、カジポン・マルコ・残月さんという、私なんかよりもはるかに凄い墓マイラーの存在を知り、彼のブログを見て「どうもすみません(泣)」と土下座したい思いになりました。彼のやっていることこそまさにライフワーク。穴があったら入りたかった。それで私のライフワーク構想は脆くも崩れ、しおしおのパーと消えてしまったのでした。その時書いたエッセーがとあるコンテストで入賞したのがせめてもの成果でした。

https://kajipon.com/

ただ、当時やっていた私のブロクは、超細々といまだにネットの中に存在しております。そして、5月4日はオードリー・ヘップバーンのお誕生日。生きておられたら92歳ですが、1993年1月20日、65歳でお亡くなりになっています。そこでオードリーのお誕生日を記念して、そのブログをまるっとコピペしてみました。まぁ、自分のブログだから何の問題もございません(笑)     ただし、情報は1998年当時のものです。写真の解像度も低く、ボケボケでございます。なお、本文に登場する記念館は遺族の意向で2002年に閉館されたそうです。コロナ禍で海外旅行がもはや夢のまた夢みたいになっている今、行ける時に行っておくものだとつくづく思います。では、どうぞ~。

「名もなき村人のように ~オードリー・ヘップバーン~」

キリンが「午後の紅茶」という缶入り紅茶のCMで、映画『ローマの休日』のオードリー・ヘップバーンを画面と合成して登場させている。『ローマの休日』は1953年に公開され、制作費の3分の1を日本だけで回収したといわれるほど、日本でも大ヒットし、この映画で、彼女はアメリカのアカデミー賞主演女優賞を獲得した。可憐で清楚なオードリーの容姿は、未だに日本人を魅了する。だからこそ、若いオードリーを、こんな形で“起用”するのだろう。けれど、私はブラウン管に映る彼女の天使のような微笑みを見るたびに、痛々しいものを感じる。彼女はまさに人々の幻想と闘い、傷つけられながらも一生懸命「自分」の本当の居場所を探す女性だった。けれども、多くの人々はそういう「人間オードリー」には目もくれず、相いも変わらず彼女の美貌やファッションばかりを“利用”するのだ。美しさとは、残酷なことでもある。

ローザンヌからローカル電車に乗って約40分。モルジュ駅からバスでさらに15分ほど揺られたトロシュナは、ぶどう畑の広がる静かな村だった。ここには、彼女が生涯愛し、最期に息を引き取った家『ラ・ペジーブル』、没後村の学校の建物を利用してつくられた『オードリー・ヘップバーン記念館』、そして彼女が眠る村の墓地がある。シャネルのお墓を訪ねた前日は時雨の一日だったが、この日は見事な晴天。むしろ暑いぐらいの陽気だった。記念館に入ると来場者はなく、受付の女性がいろいろと説明してくれた。白を基調にした館内には、彼女が出演した映画のポスターが展示され、アカデミー賞主演女優賞のオスカー像も透明なケースの中で鎮座している。また子供の頃からのプライベート写真や晩年、ユニセフの特別大使として訪れたアフリカでの写真も飾られていた。受付の女性は「彼女のどんな映画がお好きですか」と質問。私は迷わず「『ティファニーで朝食を』です」と答えた。子供の頃、我が家には父親が買ったらしい映画のサントラ盤を集めたLPレコードがあり、私は作品を観る前に、音楽からいろいろな映画を覚えた。『太陽がいっぱい』『鉄道員』『男と女』『ドクトル・ジバゴ』・・・。その中に『ティファニーで・・』もあって、レコードのジャケットには例の宝石店のショーウィンドウの前でパンをほうばるホリー・ゴーライト(オードリー)のイブニングドレス姿の写真が載っていた。動くホリーを観たのは、大人になってからだが、それだけに私にとってはやはり『ティファニーで・・』が一番印象深い作品なのだ。


オードリーは1929年5月、オランダ貴族の血を引く母親とアングロ・アイリッシュの父との間にブリュッセルで生まれている。再婚同士だった両親の不仲。父親の不在。高圧的な母親の干渉。そして、戦争の痛手。愛を求めても愛に怯えて、なかなか幸せにたどりつけなかった彼女の人生の陰には、そういう生い立ちも関係しているといわれている。女優引退後に、悲惨な難民キャンプを訪問しては、メディアを通してその惨状を訴えるという仕事に没頭したのも、安らぎと愛情に飢えていた自分の幼少時代の悲しみを、難民生活を余儀なくされている人々姿の中に見たからではないだろうか。そして、華やかな世界の虚しさよりも、自分の名声が社会のために役立つという充実感が、彼女を幸せにしたのだと思う。それが、結局、彼女の寿命を縮めることになったとしても・・・。 

記念館をあとにして、私は墓地に向かった。とにかく、静かな村だった。共同墓地入口の門扉は容易に開いたけれど、「ギー」という音がしたらどうしようと思うほどの静寂だった。数にすれば数10程度の墓石が、きれいに整えられた垣根の間に並んでいる。十字架の形もあるのだが意外に少なく、たいていはシンプルな形にカットされた小さな石がとんと置かれている。これがスイス流というのだろうか。遠くに広がる田園風景を静かに眺めているといった雰囲気の墓石たち。死者もさぞかし安らかに眠っているだろうなあ、と私は思った。

ヘップバーンのお墓は一番高い列に「その中のひとつ」という感じで佇んでいた。白く、力強い十字架。そのたもとに供えられた花はやはりひときわ多いけれど、ここに彼女が眠っていると知らなければ思わず見過ごすのではないかと思われるほど、普通のお墓だった。それだけ、生前こよなく愛したこの村への思いがあふれているように思えた。もはや孤独の陰はなく、他のお墓とともに一村人として、あふれる陽射しの中、ただ吹きすぎていく風の中で、永遠の安らぎを享受している。こういうシンプルに美しい場所を選んだオードリー・ヘップバーンの清廉さに、私は胸を打たれていた。




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