高度化する受験

甲子園を見ていると、一昔前とは比べ物にならないほど野球のレベルが上がったことを実感する。もはやピッチャーは継投が当たり前で、エース一人いれば勝てる時代は遠い昔のこととなっている。送りバントをさばく技術が向上し、出塁後はヒットエンドランか送りバントかと、かつては無かった高度な読み合いが生まれている。

こうした競技の高度化と同時に感じるのが、出場校に占める私立高校の割合の高さである。それもそのはずで、そもそも継投させられるだけのピッチャーを揃えることが、公立高校には難しい。あくまで部活動の一環であるため、時間的な制約もある。競技の高度化に公立高校野球部が付いていくのは、現実問題として難しい。

それと同様のことが受験にも言える。受験のレベルは年々向上しており、それに伴い私立中高一貫校からの合格者も年々増加している。高度化した問題に対し、潤沢な時間を使って、これまでの成功のプロセスを踏襲し、対策を行うことができる以上、これは避けられない結果だ。とはいえ、そんなことは50年も前から言われていることで、今更改めて言うつもりは無いし、まして非難するつもりも無い。

私がここで問題としたいのは、そうしたいわゆる教育の再生産問題を快く思わない連中による、昨今の教育改革である。受験の高度化はより優秀な生徒を大学に呼び込むことができる点で、むしろ望ましい事態のはずだ。野球でも、競技の高度化に伴って、日本人がメジャーリーグで多く活躍するようになっている。私立が多くの人材を抱え毎年甲子園に行くのも、選択と集中により限りある資源を有効活用していると見ることもできる。

しかし近年の入試を見ていると、私立中高一貫校の生徒を意図的に減らそうとする問題がみられる。例えば、典型から外れた問題。その場の臨機応変さを見たいというのが言い分だが、解法を思いつくかどうかは、はっきり言ってその場の運で決まる。典型題を正確に解けるのも立派な才能だと思うのだが、大学側はそうは考えないらしい。

そもそも入試とは、大学側からの、どういった人材を必要としているのかというメッセージであるはずだ。それがある意図によって変化するなら、それはその大学の信念に一貫性がないことを意味する。だれがそんな大学に行こうとするだろう。それに勉強の魅力とは、努力で人生を変えられる点にあるはずだ。それが運否天賦で結果が変わるなら、誰が進んで勉強しようと思うだろう。

受験の高度化は不可避であり不可逆的だ。もはや教育の再生産の波は止まらないだろう。しかしそれがなんだというのだ。格差是正より考えなければならないのは、国家として学術的成果を上げることだ。はたして今我々がすべきことは、本当の実力などという存在も不確かなものにすがって、受験を「運ゲー」にすることなのか。受験の高度化の速度に最も当てられているのは、受験生でもその親でもなく、大学自身なのではないか。

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