陶酔論

 最近読んだ坂口安吾の「いずこへ」という短編小説のなかにとある女性が出てくる。この女性には旦那がいるのだが、浮気性でたくさんの男と関係を持っている。それでいろんな男の気を惹くために一生懸命着飾っているのだが、坂口安吾はこの女性の一連の行為を男の好色を引き立てるという自己の陶酔のための努力と書いている。

 他にも人間は実は陶酔を求めて生きているのではないかと思うフシがあって、いつか聞いた立川談志のラジオでも「人間がお酒だのタバコだの性行為だのをやめられないのは、そこに極楽を見るから」という旨の発言があって、これも要は極楽という酔い・陶酔を人間が根底に求めているが故の行為なわけである。

 人間はお酒とかタバコとか手っ取り早く陶酔してみたり、はたまた「いずこへ」の女性のように努力してまで陶酔を求めたりもする。こう見ると様々なところに陶酔を求める行為は潜んでいて、これは決して本のなかに限った話ではないのである。受験勉強をするのは、いい大学といういわばその勲章に酔い浸るための行為であったり、仕事をするのはお金やはたまたその社会的ステータスに酔い浸るための行為であったりして、「学問の発展のため」とか「人に喜んでもらうやりがい」とか、一見真っ当そうに見える建前に隠れた本音は案外こんなものではないかと思う。なかにはこの建前を本気で信じている方もおられるだろうが、しかし学問の発展や人に喜んでもらうやりがいの先には自己の陶酔というゴールがやっぱり待っているのである。つまり「いずこへ」の女性の着飾る努力のようなものが色んなところに見られるわけである。私がここで細々書いていることだっていつかスラスラ美しい文章が書ける自分に酔い浸るための努力なのである。

 とにかく人は自己の陶酔のために果てしない努力までする。さて、それでなぜここまで陶酔を求めるのかであるが、それは人間が何十年か生きてみて、この世の中が案外つまらないことに薄々気づいてしまったからではないかと思う。だからこそ、こんなつまらない世の中を忘れるべく陶酔することを求めるのである。つまり人間の奥底には虚無主義だったり厭世主義的なものが誰しもあるのではないか(ともかくそれから逃れようとする行為が露骨ににじみ出ているわけである)。

 とは言いながらも、私は人は誰しも楽観的だと思っていたりする。なにか失敗して強烈な自己嫌悪に襲われながら、それでもなんだかんだ今日も生きているのは、「とはいってもなんとかなる・大丈夫」といった類いの、それに勝るより大きな自己肯定感に支えられているからである。

 では、誰しも虚無主義と楽観主義とこの相反するものを持ち合わせているのはどういう了見かということである。それは例えるなら、楽観主義は虚無主義の黒々とした海に浮かぶ一隻の小舟のようなもので、なんとかその海に落ちるまいと唯一すがれる藁なのである。人間はこのだだっ広い海の上にいることを忘れるべくお酒を飲んだり、酔い浸れるものを求めているのである。とにかく色んな理由をつけてこの小舟にいることが楽しい楽しいと思おうと努めている。海に落ちるとどうなるか、さて私も落ちる度胸がないのでそれは分からない。

 しかしこう見ると普段見ているものの見方もガラッと変わる。金持ちや社会的ステータスのある人はそのことに抗いに抗ったというだけでしかなく、お金やステータスは虚無主義から逃れよう逃れようとした行為の副産物でしかないのである。さて、彼らはだだっ広い黒い海のようなつまらない世の中についていくつか忘れることができたのだろうか。

 私はその陶酔を求める行為を否定する気はさらさらない。しかし、故意か偶然か世の中にはそれを繕って隠すような建前がゴマンとある。だからこんなものはいっそのこと捨て去ってしまって、正直にただ陶酔を求めて生きていけばいいのである。精神にウソを言い聞かせて心まで着飾ることをやめて、自己の陶酔のために正直に生きればよい。それ以外にこの虚無主義の海と向き合う術がないのである。


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