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「房思琪の初恋の楽園」

今月の研究報告書を書くため、やっと前に書いた読書感想文の一部を翻訳しました。ここにその一部をアップロードします。

私は昔、「美」を崇拝し、ひいては「美」そのものを信仰している人である。過去、美が自分自身を目的とするからこそ、美は自由でありうると思い込んでいる。美を通じて、人間は自分に加えられた、社会・規範・慣習の桎梏を振り切ることができ、心の喜びと浄化を得ることができる。しかしこの迷夢を打ち破ったのは、少し前に読んだ極めて痛ましい小説「房思琪の初恋の楽園」だった。この小説は日本ではあまり有名ではないかもしれないから、少し話は逸れるが、この本の内容を少し紹介させていただき、この本が私にもたらした大きな衝撃と啓示を説明させていただきたい。

あまり適切ではない説明をお許しいただければ、この物語は叙事の立場が取り替えられたウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』である。しかし、残酷なことに、この物語は実話をもとにしている。小説の作者は深刻な精神疾患を患い、ただ二十六歳の若さで自殺した。一言で言えば、「房思琪の初恋の楽園」は、ある十三歳の女の子が国語塾の男性教師に華やかな巧言令色で誑し込まれ、数年にわたって強姦され続けている、という物語である。

しかし、この物語は加害者に対する被害者の訴えだけでは止まらず、フェミニズムの問題に一石を投じるために書いたものでもない。彼女はインタビューで、「私が言いたいのは中国の詩の伝統、叙情詩の伝統です」と言った。著者の林奕含はむしろあるクラシックな難問を問い質したい−―すなわち芸術と道徳の関係、美と善の関係、あるいはmuthosとlogosの関係を問い詰めたいと思う。悲しいことに、そんなに文学が好きな彼女は、文学に裏切られた。小説の主人公である房思琪は、「ノーベル文学賞シリーズの蔵書を持っている男」、浩浩湯湯の五千年の「思無邪」な詩の伝統に立脚している国文教師が、愛情を表現する時、その中には必ず「真」があり、「志」があると彼女は信じ込んでいる。しかし詩は、ただその男が自分の下心を覆う外殻にすぎない。「真の文人が百錬千磨を通じて鋳造する「真心」は、最後に『食色性也』に戻るだけだ」と彼女は言った。著者が詰問したいのは、「芸術には巧言令色の成分が含まれてもよいのか」、さらに言えば、「今までの芸術はただ巧言令色にすぎなかったのか」ということである。

「アウシュビッツの後、詩を書くのは野蛮だ」(Nach Auschwitz ein Gedicht zu schreiben, ist barbarisch)とアドルノは言った。ナチスとホロコーストの歴史を分析し、反省するのは残酷だが、だからこそ、私たちの歴史に対する反省は多すぎるのではなく、逆にまだ少なすぎるのである。そのため、第二次世界大戦が終わってもうすぐ八十年になる今でも、私たちは思い通りにナチズムと暴力から離れていないと思う。林奕含は、「房思琪式の強姦はホロコーストだ」と言った。ある意味で、「私は強制収容所に入った人だ」と彼女は言った。なぜなら、ナチスは芸術を政治化し、ヒトラーの扇動的な演説と国家主義的な芸術作品を利用して人々を悪の仲間入りに引き込むたからである。この本は、善の根底から逸脱した美が、暴力・罪になりうること、後棒を担ぐ可能性があることを人々に改めて気づかせた。美と悪の連携は虐殺になるかもしれない。

しかし、私たちは明らかに詩を書くことを簡単に諦められない。『房思琪の初恋の楽園』を書いた林奕含は、徹底的に文学の基を詰問し、美への疑いを表しているが、彼女自身の作品も美辞麗句に満ちた、極めて優美で繊細な文学作品、ひいては「芸術」そのものである。だから彼女は自分の小説は巨大な「詭弁」だと言った。文学への控訴は文学によって実現しなければならない。文学への盲信によって奪われた主体の権利は、彼女が最終的に文学を通じてそれを取り戻した。美への憧れは人間の本性の中に深く隠されており、それが簡単に解消されることはできない。だから今、我々は「美」について話しているとき、私たちはいったい何について話しているのだろうかを、再検討しなければならない。『論語・八佾』の中で言う「子、韶を謂わく、美を盡せり、又善を盡せり」(すなわち尽善尽美)、あるいはプラトンが言う「詩と哲学の間には古くから抗争があった」、ということは、依然として私たちにとって優先すべき重要な問題であるかもしれない。


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