ヒルベルト『幾何学基礎論』を読む(1)

 2006年に、私が書いた文章を、今、載せてみます。そのときの想定読者は高校生・大学生くらい。「数学に興味を持ってもらいたいよ?!」っていう、いささかエラソーな意図の下に書かれたものです。だったと思います。

 A4で10ページくらいです。何回かに分けて掲載します。

 日ごろ、数学と接点がない人にも、ぜひ読んでもらいたい! という気持ちだけは込めたつもりです。うまくいっているかどうかはともかく……。どんな感想でもけっこうです、コメントをいただけるとうれしいです。

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 まったく大変な世の中になった。まさかヒルベルト(David Hilbert, 1862-1943)の《幾何学基礎論》が、たった1100円で買える文庫本になるとは思わなかった。まことに筑摩書房という出版社は油断がならない。

  ヒルベルトの《幾何学基礎論》といえば、現代数学に指針を与えた歴史的重要著作であり、数学を学ぶ者は誰でも知っているものである(つまり、知らない者は数学を学んだとはいえない)。この『幾何学基礎論』(D.ヒルベルト=著、中村幸四郎=訳、ちくま学芸文庫)には、その本論《幾何学基礎論》のほかに、論文《数の概念について》と講演《公理論的思惟》、そして訳者による解説、さらにその訳者の弟子に当たる佐々木力による解説が含まれる。

  原典(翻訳ではあるが)に当たるということには、やはり意味がある。今まで私は、ヒルベルトの幾何学基礎論の原典を読んだことがなかった(その解説記事やダイジェスト、あるいはヒルベルトの立場にさらに現代的視点を付け加えたものは読んでいたが)。このたび『幾何学基礎論』を読み、一言では言い切れないさまざまな感銘を受けた。どのページにも新しい発見と驚きがある。この書評ではなるべくそれを伝えたいが、正直なところ、伝えるべきものが巨大すぎて、まったく自信がもてない。

  〈ユークリッド幾何〉という言葉は聞いたことがあるだろう。もっとも、これは〈非ユークリッド幾何〉を知って初めて意義を理解できる言葉なので、真の意味を理解している人は少ないだろうが、それはそれでかまわない。

  たとえば、三角形の内角の和がつねに180度であるのはなぜだろうか。「そう決まっているから」とか「いつでもそうなるから」というのは、学問と無縁の答えである。最近の世の中ではそういうのが流行ってはいるが、それではいけない。

  教科書には三角形の図に補助線が一本引かれ、「平行線の錯角は等しいから云々」とある。では、なぜ平行線の錯角はつねに等しいのか。「錯角は同位角の対頂角であり、平行線の同位角は等しいから」と。では、なぜ平行線の同位角はつねに等しいのか。……この《浮世根問》は、いったいいつまで続くのだろうか。いつかは、結局、「そう決まっているからだ!」と叫ばなければならなくなるのではないか。(この話は後でもう一回出てきます。)

  ……その、「そう決まっていること」を、歴史上初めて明文化したのが、古代ギリシャのユークリッド(Eucleides)であった。いや、この言い方は正確ではない。ユークリッドは、皆が「そうに決まっている」と漠然と思っていたことたちを、よくよく反省し吟味し、お互いの論理的関係を明らかにした上で、それらの中から数個の命題を選び出し(これらは公理(axiom)と呼ばれる――実はユークリッドは公理のほかに公準という言葉も用いているが、現代の視点からは区別しなくてよい)、次のように述べたのである。 

 ○  公理は正しいものと認めて、その成り立つ理由は問わないことにしよう。

 ○   公理さえ正しいものと認めれば、それ以外の「正しいと皆が認めている幾何学的性質」は、すべてそこから論理に従って証明できる。

 つまり、なんとなく「決まっている」らしき事柄の論理的源泉を、私たちが「決める」のだ、と高らかに宣言したわけだ。これは相当カッコイイ、と、私は思う。

  カッコイイと思ったのは私だけではなかったようで、ユークリッドの著作『原論』は、その後約2000年、学問の聖典であり続けた(今でもそうだろう。ただし、現代では聖典は一冊ではない)。議論をするにあたってまず自明な(と思える)共通認識を持ち、そこから論理的に推論を繰り広げる、この態度こそが、理性的な学問の態度である。人間はそう思って、営々と学問的探求を行ってきたのである。

  さてしかし、その2000年ほどの年月の間には、ユークリッドの『原論』の推論にも、それなりにほころびがあることが少しずつわかってきたのである。論理的欠陥があったりはやとちりがあったり。もちろん、それらは『原論』の価値をゼロにしてしまうような致命的なものではなかった。多くの数学者が、自らの考えをもとに、『原論』の修正に取り掛かった。(実は現代でも、その試みは世界中でなされている。) 大成功も小成功もあり、失敗もある。そんな『原論』の見直しの中で、決定的な大成果を挙げたのが、ヒルベルトの《幾何学基礎論》であった。やれやれ、ここからやっとヒルベルトの話です。

 『原論』と《幾何学基礎論》を比較すると、用意された公理の数は、《幾何学基礎論》の方が圧倒的に多く、さらにその内容もずっと詳しく、煩雑だとも言えよう(唯一の例外が、いわゆる〈ユークリッドの第5公準〉、つまり平行線公理であるが、これについて語りだすといつまでたっても終わらなくなるので、割愛する)。2000年の間に、数学者の批判精神が強烈に鍛えられたことが感じられよう。それぞれの時代において、ユークリッドとヒルベルトは、一切の批判に耐えうる巨大な理論構造を打ち立てたのである。

 ただし、ヒルベルトの公理系の完成には、その先人達の研究が不可欠だったことは述べるべきだろう。特に《幾何学基礎論》の公理Ⅱ-4に名前を残すパッシュの研究は、「ヒルベルト理論の一つの先駆者とみなしうる」(『幾何学基礎論』p.218, 訳者解説より)ものである……私は不勉強で、そんなこともこのたび初めて知った……。

###############(続く)###############

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