ヒルベルト『幾何学基礎論』を読む(2)

 8年前の私の文章、前回の(1)に続き、(2)です。内容的に切れ目の設定が難しく、今回は文章が多くなってしまいました。たぶん(3)も同じくらいの分量で、そこで完結してしまうと思います。

 (1)に比べると、概念があれこれ出てきてちょっと読みにくくなっていると思うのですが、数学っぽいところは適当に読み飛ばしていただいて、話の筋だけ追っていただいてもいいと思います。ってか、たいがいそうしますよね、こんなもん。

 よろしくお願いいたします!

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 ヒルベルトの《幾何学基礎論》の功績の第一は、もちろん、上述したように 

 ①     ユークリッド『原論』での幾何学の公理系を精密化した

ことである。しかし、ヒルベルトの意図は、これだけにはとどまらない。この『幾何学基礎論』から読み取れるヒルベルトのアイディアはとにかく雄大なのである。以下、ヒルベルトがやろうとしたことを、あと2点にまとめて述べてみたい。

 ②     各公理と各定理の論理的関係を明らかにした

 《幾何学基礎論》では、公理は5つの群に分けられている:結合の公理、順序の公理、合同の公理、平行の公理、連続の公理。これらの公理群はいっぺんに提示されるのではなく、1つずつ提示された後、その公理群から導き出される各定理が述べられ、それが一段落つくと次の公理群が提示され……という構造になっている。

  これは、「どのような公理によって、どのような定理が生起されるのか」という、公理と定理の因果関係を明確にしようという意図のあらわれである。1つの公理(群)を定めることにより、どのような数学的世界が築かれるのか。また、ある1つの定理を正しいと感じることは、どんな前提(公理)を無意識的に認めていることになるのか。ヒルベルトは、われわれの日ごろの意識では見逃されそうなこれらの論点を、前面に押し出すことによって、われわれの〈数学的感覚〉とはどんなものか、を明らかにしようとしたのだ。私はそう思う。

  たとえば、われわれは「三角形の内角の和はつねに180度である」ということを、当然の事実として受け入れて日ごろ暮らしている。学校の生徒たちは、数学の問題を解くときに当たり前のようにこれを用いるはずだ。しかし、その根拠はどこにあるのだろう。それをたどっていくと、最終的に、われわれの〈平行〉に対する感覚に依存していることがわかる。それが、われわれが暗黙のうちに認め合っていること、〈幾何学の共通認識〉なのだ。そしてその感覚は、『原論』でも《幾何学基礎論》でも、公理として成文化されている。 

 ではもし、その〈平行〉に対する感覚を、共通認識としなかったら、どうなるだろうか。「三角形の内角の和はつねに180度である」というなじみぶかい事実は、事実でなくなってしまうのだろうか。あるいは、〈平行〉ではない別の何かの〈幾何学の共通認識〉が、この事実の成立を保証してくれるのだろうか。……実際には、〈平行の公理〉以外に、「三角形の内角の和はつねに180度である」ことを保証してくれるものはないのである。

  つまり、〈平行の公理〉を前提としなければ、そこに現れる数学的世界は、われわれが日ごろ当たり前だと思っていることが当たり前ではない世界となる。さらに、われわれの常識的感覚が愛する〈平行の公理〉の代わりに、それとは互いに矛盾するような〈新・平行の公理〉を前提としてしまえば、今度はわれわれの常識的感覚と反することが成立するような数学的世界が繰りひろげられることになる! 毎日遊ぶようなゲームでも、そのルールをほんの少し改変すると、まるでプレイ感が変わってしまうことがある。そんな感じだ。

  ヒルベルトは、われわれが当然のこととして受け入れる「幾何学的事実」のよってきたるところを明確にしようとした。それぞれの定理の根拠を徹底的に探った。そうすることが、ユークリッド幾何学の本質を見極め、そしてユークリッド幾何学以外の幾何学(つまり、ユークリッド幾何学と異なる公理系を有する幾何学)の研究を推し進めるだろうと考えたのだろう。実際《幾何学基礎論》には、〈平行の公理〉を改変した幾何学(非ユークリッド幾何学)や、〈連続の公理〉の一部を前提としない「非アルキメデス幾何学」、〈合同の公理〉を満足しない「非デザルグ幾何学」などについて、興味深い事柄がたくさん挙げられている。私個人の印象でいえば、非ユークリッド幾何学は数学を学んだものにとってはもはや常識的なものであるからことさらの印象はなかったが、非アルキメデス幾何学や非デザルグ幾何学については、浅学にしてよく知らなかったので、大変おもしろく感じた。もちろん、そこに秘められた深い意義には私はまだ達していないのだろうが……。

 ③     数学体系の無矛盾性・完全性を追及した

  数学史上、《幾何学基礎論》が有するもっとも大きな意義はこれであろう。

  先に、(若干正確さに欠けるが)これから述べる内容をまとめておこう。ヒルベルトは、数学の世界が美しく完璧であることを望み、それを厳密に論理的に示すためのプログラムを作った。そのための旗印となったのが《幾何学基礎論》である。ヒルベルトは仲間や弟子たちとともに、プログラムに従い前進した。ところが、前進の末に得られた結果は、ヒルベルトのプログラムの失敗を決定づけるものであった……。

  さて、公理論的数学体系、つまり「まず公理系を設定し、そこから論理的に演繹を繰り返す」という数学のシステムにおいては、公理系にミスがあればすべてが砂上の楼閣と化す。その公理系にミスがないか、ということより重要なチェックポイントはない。

  ヒルベルトは、数学を(そして物理などの自然科学をも)、公理論的に語りたかった。その理由はあとに述べることになるが、とにかく、ミスのない公理系を作り上げることは、ヒルベルトにとって最重要課題だった。ところで、公理系にミスがないというのはいかなる状態をいうのか。これはなかなか難しい問題なのだが、ヒルベルトはその要件として、〈無矛盾性〉と〈完全性〉を《幾何学基礎論》において挙げた。

  公理系の無矛盾性とは、字のごとく「公理系から矛盾した命題が決して導き出されないこと」である。矛盾をはらむ公理系の例を一つ挙げればわかりやすいだろう:われわれがよく知る自然数の世界には「加法」つまり「足し算」という演算がある。さてこの世界に、いま勝手に「自然数の世界には最大数が1つ存在する」という命題を、公理として付け加えてみよう。すると、この“新公理”は、「加法」という演算に関する公理と併せて考えると、矛盾を引き起こしてしまう。……どんな矛盾かは皆さんに考えてもらおう。

  公理系の完全性という概念は、人によって微妙に意味が異なり、ヒルベルトが言った意味と現在通用している意味も異なっている。どちらにせよ、正確に述べるのは大変難しい(専門用語を使ってよければ簡単だが)ので、ここではザツに述べてごまかしておこう。ヒルベルトが言った公理系の完全性とは、「公理系が支配するその世界に、もはや何物も付け加えることができない」という意味である。うーむ良心がとがめるが、先に進もう。 

 《幾何学基礎論》でヒルベルトが提示した公理系は、完全であるし、また、無矛盾であるように思える。……妙な言い回しだが、事情は次の通りだ。

  まず、完全性についてであるが、実は〈連続の公理〉の第2項、Ⅴ-2は、「一次元の完全性公理」と題されるものであり、〈直線〉という数学的世界が完全であるということを公理として認めるものなのである。公理なんだからそりゃ正しいわな。なあんだと思うかもしれないが、ヒルベルトはもちろん安直な気持ちでこうしたのではない。《幾何学基礎論》では、この公理が必要不可欠であること、つまり、こうして公理としなければ直線の完全性を保証できないことを、反例を挙げてきちんと示している。そして、「一次元の」完全性から、「二次元」つまり平面の完全性も、「三次元」つまり空間の完全性も論理的に導かれることをはっきり示している。私はこの部分を読んで、特に感銘を受けた。どうしてかということは曰く言いがたいが、……「迫力を感じた」ということかなあ。 

 そして、次に“問題の”無矛盾性である。《幾何学基礎論》で述べられたことをまとめると、「もし《幾何学基礎論》の公理系に矛盾が含まれているならば、それは、数とその演算の体系の矛盾として見られるはずである」となる。わかりにくいだろうから簡単に言うと、要するに「数とその演算の体系が無矛盾であるならば、《幾何学基礎論》の公理系も無矛盾ですよ」と言っているのだ。「すなわち幾何学公理の無矛盾性の問題は実数の公理系の無矛盾性の問題に転嫁されたのである(『幾何学基礎論』p.220,訳者解説より)」とは、意地の悪い言い方のようだが、正確である。

  では、数(正確には実数)とその演算の体系は、矛盾をはらまないのだろうか。

  この問いを、普通、「ヒルベルトの第2問題」と称する。これはヒルベルトが1900年の講演で、重要な未解決問題として23個の問題を述べたうちの、2番目のものなのである。

  で、問題の答えは?――なんと答えは、「未解決」である。

  さらに――混乱するかもしれないが――この問題は、「ヒルベルトの理想とした立場(「有限の立場」という)によっては、YESであると証明することは決してできない」ことが、証明されている。それが有名な「ゲーデルの不完全性定理(1931)」の一つの帰結である。 

 ……こういう複雑な話を理解するには、結局、正確に厳密にきちんと書かれた本を一行ずつ丹念に読んでいくしかない。読むべき本としては、『不完全性定理』(野崎昭弘著、日本評論社(2014年注:現在はちくま学芸文庫から出ている))を熱烈にお勧めする。多くの図書館に置いてあるはずだ。

  そんなわけで正確で詳しい説明はここでは断念して、結果だけいうと、《幾何学基礎論》の公理の無矛盾性は、ヒルベルトの望むようには、証明されなかったのである。これはヒルベルトにとっては相当ショックだったようだと伝えられている。そりゃあそうだろう。自分が最も美しいと思って描いた夢が、完全崩壊してしまったのだから。……もっとも、その絶望感でさえ、ヒルベルトの天才の証明と言えなくもないけど。不謹慎を承知でいうと、ちょっとうらやましい感じもするなあ。

  話を戻して、しかし「証明できない」といってもそれはあくまで「有限の立場では」というだけであって、そこを譲歩すれば証明できる(ゲンツェン、1936)。ただ、そこで使われた論法が、果たして認められるべきものなのか否か、それは数学者・数学基礎論学者・論理学者・哲学者などなどの人々それぞれによって意見が分かれるところであるらしい(このへん詳しいことは私には全然わからない)。で、まあ、「未解決」なんである。  

################(続く)###############

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