書写をすると、隠れた自分が浮き出てくる

聖典の書写のすすめ

 中学生の頃から、文章を書き写すのが大好きだった。大学生になり、文献が難しすぎて理解不可能になりパニック。そんな時は、文章を書き写した。理解はできない。だが、身になる感覚があった。

 できるだけ丁寧に書く。時間がかかる。黙読するときよりは、じっくりと味わいながら読む、書く。時間がかかるというのが、いいところ。

 「読む」と「書く」。これだけでもいいのだが、その中間にある「声に出して音読する」も大事。松岡正剛さんに教えてもらったのだが、印刷術が発明される前までは、人々は声に出さないと読めなかったらしいのだ。「音読」時代が長く、グーテンベルクが印刷術を発明した後に「黙読」の文化が広がったと言われている。

 若松英輔さんの「聖書」勉強会に参加した。聖典と呼ばれるものに対して、「頭」だけでは、その深い内容は受けとめきれないと若松さんはおっしゃった。では、どうするのか。「音読」し、「書き写す」ことで、全身で受けとめるのだと提案されておられた。長年、言葉にしてこなかったことが、一気に言葉にされて、私の意識に輝きながら上がってきた。

「聖書」「仏典」「コーラン」「パガヴァットギータ」「チベット死者の書」、「論語」「孟子」、プラトンやアリストテレス、法然・親鸞・一遍、トマス・アクィナスやエックハルト、ゲーテやパスカル、シュタイナーやニーチェ、柳宗悦や鈴木大拙。古代から中世にかけての聖典、近代の思想家たちの古典を本棚に揃えて、パラッと開き、目に止まったところを書き写す。声に出す。関連するような絵を描いたり、写真をはったり。

 こんなときは、万年筆がいい。奮発して、自分にぴったりくるものが何なのか、検討に検討を重ねて、生涯の一本に出会えたのがよかった。せっかく時間をかけて書くのだから、気持ちよく書きたい。

 意図なしで、ペラペラページをめくって、適当に文章を選んでいるつもりでも、一ヶ月くらい経つと、抜き書きに秩序が現れ始める。自分の心の傾向が出始める。今年の第一四半期はどうやら「欲望」がテーマのようだ。自分の現在の関心がどんどん意識化されていく。しかも先生がいる。先生たちは皆、人類を代表する人たちだらけ。私の内なる学校。世界最高の学校。


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