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第十話 爽籟に響く狂笑

 夏の収穫が終わるとシャトランジには早くも冬の気配が漂い始める。北のアートルムから山脈を越え吹き降ろされる風は冷たく乾き人々の体温を奪っていく。男たちは森へ入り鹿を狩り、女子供は薪を拾い集め長い冬を乗り越えるための支度を始めるのだった——
 
 農耕地で繰り広げられた両陣の戦いは熾烈を極め互いに甚大な被害を受けた。重傷を負ってなお止まる勢いのないリーヴェスの猛攻によりニキータ率いる教団兵たちは壊滅に陥ったものの遂にはそのリーヴェスも息絶え戦場となった場所には狂い笑う声が一ついつまでも響き渡っていた——
 
 先程まで真っ青だった空には暗雲が立ち込め、刺すように冷たい雨が槍のように降りしきっている。何ヶ月か前とそれほど違わぬ景色に思わず笑みが漏れた。雨で泥濘足取りが悪くなる馬、遠くまで広がる緑、冷たい雨。どれも同じだ。違うといえば周りからは足音が聞こえないぐらいだ。あの時は随分と兵士も残っていた。不意打ちではなく真正面からぶつかっていればあの時点で教団兵は壊滅していたのだろう。
「くっ……ふふ、ふふふっ。まさかあれ程までの力が残っていたとは思いませんでしたねぇ。しかし女神様は今回も私に勝利をお与えくださった。」
 ニキータは全身で雨を浴びるかのように体を仰け反らせた。雨音に混じって誰もいない野に狂ったような笑い声が響く。神に背く不届き者、否不幸な者を一人、また一人と自身の手で罰を下していく。そうしてやがては女神を信じるもので溢れるアリアナを中心とした理想郷がこの国に出来上がるのだ。なんと素晴らしいことなのであろうとニキータは喉を引き攣らせて笑う。
「残りは二人、女神様を否定する元凶たるユージーンさんとルゥさん……。彼らが女神様を信じる心を取り戻してくだされば全ては円満に解決するはずなのですがねぇ♪」
 そう口にするとニキータははたと笑うことを辞めた。そして懐を弄り短剣を取り出す。これは敵のルークを仕留めたと言う戦利品だ。先程はこれで十分だと思ったが今となってはどうも足りないような気がする。そう言えばユージーンさん達はアテレスさんやタビタさんの首を取っていましたねぇ……。死んだ者の首を切り落とすなどという蛮行は死者を侮辱する行為にあたる。しかし見せしめと恐怖の刷り込みとしては最適と言わざるを得ない事は確かであり、教えに背く行為でもなかった。別段急がねばならないという訳でもない。暫くは増援も来ないであろう。それならばニキータの細腕でも問題は無いだろう。ニキータは馬の手綱を握ると元来た方向へ回れ右をしのんびりと進んで行った。
 
「モノの道理も分からぬ愚兄が……。」
 怒りを噛み殺したような言葉を吐き捨てるとアリアナは剣を振り降ろす。しかし腕は途中で力が抜け、剣は空を薙ぐ。魔法、か……。
「俺の目の前でユージーンに傷一つ付けられると思うなよ姫さん。」
「ふっ、傲慢も大概にしておけ。」
 アリアナはキッとルゥを睨み付けた。傲慢だと言葉では切り捨てたものの実際この男がユージーンの盾として動けば本当に傷一つ付けることは叶わないかもしれない。それは魔法の精度などという単純な話ではなく自身の命をも顧みずにユージーンの肉壁になる覚悟が痛いほど伝わってくるからだ。変わったな……。かつて城にいた頃、兄の隣を歩いていたこの男からは実妹である自分以上のつながりのようなものを感じた。あれこそ正しく兄にとって必要な兄弟なのだろうと俯いた。しかし今はどうだろう。息こそはあっているものの二人の間には何か大きな確執を感じる。私の願いは叶わぬものだな。そもそもこの状況自体が反するものだ。それでもこの国の王を語るのならば剣を振り続けねばならない。血が滲むほど強く柄を握ると障壁すらも打ち砕く勢いで剣を振り下ろした。しかしそれも防がれてしまう。そしてその障壁によって勢いが殺された合間をぬってユージーンが剣を凪いだ。切っ先が頬をかすめていく。やはり二対一では分が悪い。
「教団兵はまだ来ぬか。」
 叫んだ声に答えはない。あれだけの兵を揃えていながらまさか負けたわけではあるまい。まだルーク攻略に手間取っているのだろうか。
「リーヴェスにかかれば教団兵なんざひよっこみてぇなもんだ。ここには来ねぇよ。」
 ハッタリだ。しかしハッタリといえども信じてしまいそうになるほどのナイトの態度が問題だ。心の底から自陣のルークを信じきっているようなその表情。意図しているのかはわからないがあいつの存在がこちら側の士気を下げるのは明白である。ぐっと唇を噛み締めたアリアナの頬に冷たいものがつたり落ちた。頭上では暗雲が立ち込め何度か空が光る。一つ二つと降り始めた雨粒はすぐに数えられない程になる。雨、降り始める前になんとか決着をつけたかったがそうは行かなくなってしまった。焦りと苛立ち、そして躊躇い。そんなものがアリアナの剣をさらに鈍らせていく。何度も振り下ろした剣はユージーンに一度も届くことはなく止められてしまう。せめて誰か信じれるものがいれば__。兄のように背を預けられる積年の臣が残っていれば。今更になってゼラやライラ、タビタの死を惜しむとは。
「やはりお前には無理だ。周りを見てみろ、誰もお前の後ろにはいない。」
「何をっ!!」
 そう言われて振り返った視線の先には何もなかった。否、確かに後ろで戦う兵士たちはまだ居る。しかしアリアナの背は伽藍堂だった。信じられる者は誰も居らず今や残っているのは心を掻き乱す神官ただ一人。それもこの場には居ず生死もわからない。私は__独りだ。土砂降りになり始めた雨が急激に体温を奪っていく。
「殺れ!ユージーン、その手で決着をつけろ!!」
 その怒声にハッとする。剣が空を切る音がはっきりと聞こえた。もう、やり直せないのか__。
「誰が貴様なんぞに討たれるものか!!」
「終わりだアリアナ。」
 そんな表情で、声で名を呼ばれたくはない。アリアナは渾身の力で眼前に迫る剣先を弾いた。わずかに体制が崩れたユージーンに向かって威嚇するように剣を振ると後ずさって距離を取る。ここでやたらと剣を振り回してもいずれ相手に討たれるだろう。兄を討たねばならないのは王としての使命だ。しかしわかってはいても未だ躊躇いを捨てきれずにいる自分がいる。こんな状態では勝ち目はない。
「退却だ、この雨では馬が鈍る。皆引け!」
 雨は言い訳だ。己の心を隠すためにはちょうど都合が良かった。アリアナの号で後尾にいた兵士たちから少しずつ引いていく。アリアナも自身の馬の手綱を引くとその後を追った。ユージーンたちが追撃してくる気配はない。あのナイトがいるというのに追ってこないことに違和感を覚えながらもアリアナは再び馬に鞭を入れぬかるんだ道を走っていった。

 退却をし始めたセフィドの兵士たちは土砂降りの雨に掻き消されるようにあっという間に去って行った。泥に塗れた兵士たちの死体だけが後に残されている。白と黒、倒れている数はそれほど大差はない。随分と減ってしまったな。ぐるりと周りを見渡してユージーンは思う。
「追わなくて良かったのか。」
「……ああ。こっちの兵も疲弊してる。このまま追って行ったとしても無駄に死なせるだけだからな。」
 そうかと一つ頷くとこちらも陣へ戻るように命を出す。先に出ていったリーヴェス達は戻っているだろうか。陣に戻るや否やあのいつもの抜けた声音で戻りが遅かったことをからかってくるのだろう。
「ルゥ、お前顔色が悪いぞ。」
「……俺も歳かな、顔に疲労が出るなんてさ。まあ気にするこたぁねぇよ。」
「…………。」
 それだけの会話を交わすとルゥはさっさと陣の方へと引き上げていってしまう。もう少しでアリアナに剣は届いていた。それなのに撤退をし始めた相手を追わないのはどうも腑に落ちない。聞いたところで答えは先ほどと変わらないのだろう。俺に自分にだけは隠し事をしてくれるなと再三言うくせに。前を歩く馬の蹄の跡で泥と血で澱んだぬかるみが出来上がるのを眺めながらユージーンは思う。土砂降りの雨は止む気配はなく全身に飛び散った返り血だけでなく体温までも拭い取っていく。秋口の雨は冷たくなかなか止むことはない。嫌な雨だ……。ユージーンはぼんやりと馬に揺られ続ける。暫く揺られていると陣に設営されたテントの頭が見えてきた。辺りは雨の音以外には聞こえない。
「まだ帰ってきていないのか……。」
 空っぽのままの陣を見て、すぐ前を闊歩する馬がくるりと向きを変えた。そしてそのままドウと合図をされた馬は一気に駆け出す。
「——!!ルゥ、どこに……。」
 声は雨に掻き消される。呆気に取られているうちに黒い影はどんどんと小さくなっていった。先に出ていったリーヴェス達が戻っていない事にどこか嫌な気が走る。まだ教団兵が残っていたらどうするんだ、一人で駆け出すなんて……。ユージーンは自身の乗る馬の手綱を引くとルゥが駆けて行った方へ走らせる。全力で走る馬の上では雨が容赦なく叩きつけてくる。ルゥが誇る駿馬なだけあってその姿はもう見えない。馬を走らせ続けるとやがて足元に夥しい数の死体が転がり始めた。やはりかなりの数の教団兵が相手になったようだ。白の鎧の間には黒いものもちらほらと混じっている。雨音の合間に微かな呻き声が届く。血の鉄臭い匂いがツンと鼻の奥を刺激しユージーンは鼻を袖で覆った。これ程まで兵士が死ぬとは……。余程の激戦を強いられたのだろう。リーヴェスは……無事なのか。キョロキョロと辺りを見渡した。視界のはしに見覚えのあるものが映る。あれは……。馬から降りて死体を避けらがらそれが目に映った方へと歩いていく。ぴたりと止まった足元には一際体格のいい黒馬が横倒しになって死んでいた。その馬につけられた馬具に見覚えがあったのだ。金縁に緑の飾りの中央にはアルトドルファー家の家紋が刻まれている。リーヴェスの乗っていた馬だ。
「この傷は……セドリックと同じ…………。」
 ユージーンはそっと倒れた馬の首に手を当てた。太い首の中央に空いた丸い穴。ルゥが使う魔術の跡とよく似たそれは白のビショップが使っていた見慣れぬ武器によるものだ。リーヴェスが同じ手に引っかかるようなへまをするはずもないが胸騒ぎはドンドンと激しくなっていく。この様子ならば敵の残党は残っていないだろう。ユージーンはルゥとリーヴェスの名を呼びながら死体の合間を歩き回る。暫くすると平原にポツリと取り残されたような木が見えてきた。その前には黒い影が立ち尽くしている。ルゥ……、か。
「ルゥ!何も考えずに一人で突っ走って行くやつがどこに——。」
 叱咤する言葉が最後まで言い切られることは無かった。立ち尽くすルゥの眼下にあるそれを見てユージーンは口を噤む。いくら血に汚れていても、損傷がひどくても何度も目にしたそれを見間違えるはずがない。だが……。
「どうしてリーヴェスの首がないんだ!?」
 かろうじて絞り出した声は掠れて震えていた。戸惑いは勿論ある。しかしそれ以上に死んだ者の首を狩るなどという侮辱的な行為に対する怒りの方が大きかった。いくらここが戦場と言えどもこんな行為が許されるわけがない。仮にも神の使いに名を連ねる教団兵ともあろうものがこのような蛮行をするとは……。ユージーンはギリギリと奥歯を強く噛み締めた。
「…………俺の、せいだ。」
 雨にかき消されてしまいそうな声でルゥが言う。滅多に動揺することのないこの男がここまで狼狽えているのは初めてだ。チラと見た表情にいつもの余裕を醸し出すような笑みはなく、顔色は先ほどよりも一層青ざめている。頬を伝う雨の滴がまるで泣いているみたいだ。
「俺がタビタとクイーンの__」
「まさか首を狩ったと言うのか!?」
 ユージーンはルゥの言葉に被せ食い気味に言う。半分怒鳴るようなその声には怒りがありありと感じられる。
「ああ、そうだよ。」
「なぜそんな事をした!敵とは言え犯してはならない尊厳はあるだろう!!」
「分かってるさ、俺だって。だけどよ、そんな綺麗事じゃあ勝てねぇんだよ。相手の中枢は箱庭育ちの令息と令嬢ばっかりだ。人間が、それも信頼のおける味方が首になって帰って来れば精神的に追い詰められる。使える手はどんなに汚かろうが使ってやる。それが俺のやり方だ。…………その結果がこれじゃあ笑えもしねぇけどな。」
 そう言ってルゥは自嘲じみた笑みを浮かべた。言い分を間違っていると否定することはできない。綺麗事で戦に勝敗がつかないことはわかるからだ。栄光ある勝利の裏側では必ずどこかで勝利のために手を汚したものがいる。それをこの男は誰かにやらせるのではなく己でやってのけた。他でもないユージーンを王にするために。だが……分かり合えない__。脳内に何度目かわからない言葉が過ぎる。
「俺が首を狩らなかったら相手もこんな真似はしなかっただろうさ。お前に責任はねぇよ。リーヴェスの首は俺が取り返してくる。お前は体を運んでやってくれ。」
 そう言うとルゥは鎧に足をかける。
「待て!まさか一人で行くつもりか。」
「俺の責任だからな。」
「バカを言うな、敵陣の真っ只中に一人で行ってどうにかなるわけが無いだろう。」
「なら城門にあいつの首が晒されるのを黙って見てろってのかよ。」
 冷静さを欠いたルゥは噛み付くように言う。他の仲間が死んでもそれほど表情を変えなかった男がこうまで取り乱すとは……。それだけリーヴェスの存在は大きかったのだろう。その反面ユージーンは冷静であった。先日までとはまるで逆の状況だ。
「今お前が一人で行けば晒される首が増えるだけだ。それにリーヴェスはアルトドルファー家の息子だ。息子の首が城門に晒されれば黙っているわけもない。辺境の貴族家と言えども迂闊に権力を持った相手を刺激するような真似はできないだろう。」
「向こうだってそれなりに追い詰められてんだ、有力貴族の血縁ならまだしも辺境のそれほど影響力のない貴族家なら構いやしねぇだろ。」
「追い込まれているからこそ内輪揉めが起こることは極力避けたいものだろう。兎に角、一人で行くことは許さない。」
「それならどうしろってんだ。」
「俺がソレブリア皇城を陥落させる、そしてリーヴェスも返してもらう。」
 ユージーンの言葉にルゥは面食らった表情をする。しかしそれも束の間、すぐにその表情は険しくなる。皇城を陥落させる、それは正真正銘最後を表すからだ。勝てばユージーンが王となる。負ければ全滅。その後に待っているのは晒し首などという生ぬるいものでは済まないだろう。それでも最早それ以外に残された道はない。遅かれ早かれいずれは城を落とさねばならないのだ。ルゥは瞬時に覚悟を決めた。
「城を陥落させるならまずは大聖堂からだ。女王世襲制の根源を断ち、リーヴェスの仇を取ってやる。」
「ああ。そのためにはまずお前は少し休め、ルゥ。お前がいないと城は落とせない。」
 そう言うとユージーンは地面に投げ捨てられた体を抱え、半ば引きずるような形で運んでいく。その横にルゥが並び反対側を抱え込んだ。一気に腕にかかる重みが軽くなる。そのまま二人は言葉を交わすこともせずに歩いていく。その沈黙を破るように雨が地面を叩きつける音が辺りに鳴り響いていた。

「おやおや、随分と早いお戻りですねぇ♪勝敗は……つかず終いですか。」
 城へ戻りずぶ濡れのまま応対室の扉を開けた正面にいつもと同じ貼り付けた笑みの神官が腰を据えていた。アリアナは濡れて張り付く前髪の間から睨め付ける。
「貴様教団兵はどうした。」
「それがですねぇ……リーヴェスさんの猛攻に遭い私以外は全滅してしまいました。私一人では向かったところで大差はありませんからこうして先にこちらへ戻り女神様にご報告してきたところなのですよ♪」
 さも大したことのないように語る態度がアリアナの機嫌を逆撫する。あれほどいた教団兵を壊滅させておきながらなぜこのように平然とした態度でいられるのだろうか。
「つまり貴様は一人のうのうと生き残ってここへ帰ってきたと言うのだな。それでよく私の前に顔を出せたものだ。」
「全ては女神様の思し召しなのですからねぇ。兵たちが死んだのも私が一人生き残ったことも。」
「それで相手のルークはどうしたのだ。」
 まさかただ一方的にやられて帰ってきたなどということはないだろうか。そのように懸念するアリアナに対してニキータは満面の笑みを浮かべた。そして懐から短刀を取り出し机の上にそっと置いた。
「もちろんキング・アリアナのご指示通りにリーヴェスさんは討ち取ってきましたよ!!これがその証拠です!!!!」
 血に濡れた短刀は至ってシンプルなものでありそれほど特徴はない。一見してそれがルークのものであるとは言い難かった。そんな様子を見たニキータはそれすらも見越したように笑う。
「おや、疑っておられるようですねぇ。やはりこんなこともあろうかと苦労した甲斐がありましたねぇ♪」
 そう言うとニキータはゆっくりと立ち上がりついてくるようにと言う。どう言うことだ。アリアナはグッと眉根に皺を寄せる。これ以外にルークを打ち取ったという証拠があるのか。ライラのように髪を切り取ってきたと言うのだろうか。それならば今ここで出せばいいものをなぜ別の場所へ連れ出すと言うのであろう。そんなふうに思案するアリアナを置いてニキータはさっさと部屋を出て行ってしまう。仕方がないかとアリアナは黙ってその後を追った。浮足だった様子のニキータはそのままどんどんと進んでいきついには大聖堂の一角にまで来ていた。そして奥の部屋の扉の前でぴたりと足を止める。
「証拠はここに置いてありますのでしっかり確認してくださいね!!!」
 こんなところに何を置いているのだろうか。髪から伝う雨粒とは違うものが頬を流れていく。扉を開けるのが嫌に緊張する。しかしアリアナはグッと扉を押し中に入った。中には石造りのテーブルが置いてあるだけだ。その上に何かが置かれている。暗がりの中ではよく見えないそれにそっと近づいた。
「__!!ッウ!!」
 思わず後ずさる。その様子を見てニキータはどうされたのですかと首を傾げて見せる。
「ニキータ、貴様このようなものを持ち帰ってきてタダで済むと思っているのか!?」
 テーブルの上に置かれていたものは首であった。小窓から差し込む光が濡れたシルバーブロンドの髪に反射している。泥と血で汚れた顔は以外にも安らかなものであったがその下は到底直視できるものではなかった。以前寄越されたタビタやアテレスの首はまるで彫刻や剥製のように綺麗に切り取られていた。それは剣の扱いに手練れており、なおかつ腕力のあるものが行ったことだからだ。あるいは女子供の細首であったからかもしれない。だからこそまだ耐えることはできた。しかしこれはどうだ。一度でその太い骨と筋肉とを断ち切ることができずに何度も剣を入れたのであろう。あまりにも悲惨で生々しい。
「なぜそれほど動揺しておられるのか私にはわかりませんが……ユージーンさんたちは同じことを先にしておられたではありませんか!!!それを女神様が私にお許しになったから行ったまでのことです。」
 動揺するアリアナとは正反対にニキータは全く何も思っていないようだ。
「あの愚兄が首を切って寄越すなどとたいそれたことができるわけもない。やったのはナイトかルークだ。いや、そんなことはどうでもいい。問題はこれだ!首を切ったことを咎めるつもりはない、どんな手でも使えるのならば使えばいい。だが敵の首を切る行為は精神的に相手を追い込むと同時に敵への憎悪感を植え付けることを忘れるな。奴らが簡単に傷を負うわけもない。むしろ首を狩ったことで反撃が強まるだろうな。貴様がやったことは裏目に出たんだ!!」
「女神様が間違えるわけがありません!!私が行ったことが裏目に出るなどと__」
「黙れ!!何が女神だ!!いいか、この首を城門に晒すなどという馬鹿な行為は絶対にしてくれるなよ。首には保護魔法をかけておけ。貴様はしばらく私の前に現れるな。」
 それだけを吐き捨てるとアリアナは乱暴に扉をしめて出ていった。

 大聖堂からまっすぐに自室へと戻ってきたアリアナは濡れた服を着替え寝台に横になった。最悪の気分だ。全く愚かなことをしてくれたものだと無意識にため息が出る。最初にタビタの首を送ってきたのは歴戦の軍人ですら自分達には敵わないのだという力の見せつけ。そして死体すら見たことがない我々上位階級の者たちにショックを与えるものだった。次のアテレスは教会への牽制。同じように晒されていた兵士たちも力の見せつけとライラへの揺さぶりだろう。殺したものの首を狩る行為の良し悪しを知った上で行動を選んでいる。戦に関してはとことん頭のキレる者たちだと敵ながら舌を巻いたほどだ。それに対してこちらは女神とやらの指示に従ったという。
「最早あの者に任せることは出来んな。何を仕出かすかもわからぬ。こうなった以上愚兄共はここを落としにくるか……。」
 たかだか仲間の首一つでと笑うかもしれないが奴らは必ずそれを取り返しにくるだろう。仲間の首を狩られた代償として私の首で落とし前をつけろと言うことか。そうなれば城下の街は戦火に巻き込まれる。それは避けたいところだ。兄とて同じであろうがそこまで構っている余力は残されていないだろう。
「民家への被害は仕方ないものとして民は避難させねばなるまい。街の民を受け入れることができるほどの蓄えと土地を持った者となると……ベイカー家に頼むしかないか。」
 家長であるライラが戦死したとはいえその権力は未だ健在だ。それに信頼できるものとなればそこ以外に当てもない。ことは急を要する。アリアナは寝台から身を起こすとすぐさま城下への避難勧告と要請を発令するため応対室へと向かっていった。

「調子はどうだ、ルゥ。」
 テントの入り口からひょっこりと顔を覗かせたユージーンは問う。
「ご覧の通り一日中休んだら元通りだ。まあ、腕はもどんねぇけど。」
 そう言うものの顔色は未だに悪い。無理に元気なふりをしている。そう判断したものの今は完全に回復するのを悠長に待っている時間はなかった。ユージーンはテントの中へ入りルゥが横たわっていた寝台の横に腰掛ける。以前ならば卓を囲んで作戦会議をしていたと言うのに今はこれで事足りてしまう。本当に二人きりになってしまったのだとこんなところで実感する。
「なんだか初めの頃に戻ったみたいだよな。俺とお前、二人っきりでさ。」
 徐に話し始めたルゥに対してユージーンはそうだなと相槌をうつ。
「……お前にとっちゃあ城に居た頃ってのは窮屈で辛かったかもしれねぇけど俺はあれはあれで楽しかったんだよ。純粋にお前の横を歩けるのが嬉しかった。こっそり抜け出して城下に連れていった時のお前の表情とかさぁ……今思えば俺はお前のそう言う笑顔をずっと見ていたかっただけなんだよ。…………それなのに俺たちどうしてこうなっちまったんだろうな。」
「それは__」
 お前のせいだよ。そんなふうに口から出かかった言葉を飲み込む。言葉にしてしまえば薄氷のように辛うじて保たれているこの関係は簡単に崩れてしまう。確かに今も昔も変わらずお互いがお互いを思い合っていることに変わりはない。それでも十二年という長い歳月の間に見ている世界は随分と変わってしまったのだ。もうあの頃には到底戻り得ない、純粋に何も考えることなく笑っていられたあの頃には。それはユージーンだけでなくどこまでも鈍感なこの男もうっすらと気づいているのだろう。お前が俺を置いてずっと遠くに行ってしまったんだよ。俺はずっとここにいるのに。
「悪りぃ、リーヴェスが死んで俺も相当参ってるのかもな。つい辛気臭ぇ話をしちまったな。」
 言葉を詰まらせたままのユージーンを見てルゥは話を終わらせる方へと持っていく。ユージーンはそれに合わせることにした。触れないようにするために。以前の自分達ならはぐらかすようなことはせずに真正面からぶつかりあって言い争ったのだろうか。そういえば些細なことで何度も喧嘩をしたな。王族に対してなんて不敬なやつだと喧嘩のたびに思ったものだ。それでも嫌な気はしなかった。
「城を落とす策を立てないとな。相手もおそらくそれには気づいているから籠城戦に持ち込まれるだろう。そうなれば守りはより堅牢になる。どうする。」
「そうだな……隊を二つに割って正面からと裏側からに回して攻めるか。騎兵は正面から城を攻める。こいつはいわば相手の注目を集めるための囮だ。その間に俺とユージーン、それから数人で大聖堂の地下から攻める。大聖堂へは魔法でちょっとばかし崩せば入れる通路があるんだろ。」
「ああ、ルネッタの言っていた地下水道の跡のすぐ近くに大聖堂の地下礼廟がある。当初の予定通りそこを使って白亜城を攻略するか。」
「そうだな。全くルネッタには頭が上がらねぇよ。」
 そう言ってルゥは遠くを見つめる。数ヶ月前ならそんなことないさと笑って返すルネッタが居た。それに対していやいや姐さんは凄いってと言うリーヴェスが居た。アルバートが静かに頷き、セドリックがにこやかに笑う。二度と見ることは出来ない光景だ。やるせなさと気まずさにユージーンは席を立とうとした。それをルゥが手を引いて止めた。
「なあユージーン、お前のその髪一房俺にくれねぇか。」
「髪を?」
「ああ、髪には魔力と力が篭るって言うだろ。最後だからさ……それにお前の燃えるような赤髪が好きなんだよ。」
 ユージーンを見つめる瞳が静かに瞬く。普段ならばそんな験担ぎは要らないだろうと一喝していたかもしれない。しかし今は違った。ゆっくりと髪に剣を添えると一束切り離しルゥの手に握らせる。
「渡したからには死ぬなよ。」
「もちろん。」
 ユージーンはくるりと踵を返すとテントの外へ出る。秋の冷たく乾いた風が毛先を揺らす。先日から降り続いている雨はまだシトシトと降り続けていた。雨粒が木の葉を打ち森をざわめかせる。だがそれ以外の音はほとんど聞こえない。物悲しげな静寂の中をユージーンは一人歩いていった。全ての終わりはもう手を伸ばせばすぐそこまできている____。

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