アイアンリーガーとは何だったのか

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疾風!アイアンリーガーの全話(OVA含む)のネタバレを含みます。

 説明できないアニメ


 深夜一時半、真っ暗な部屋でソファに蹲り、このアニメは何だったのかと考える。
 YouTubeで配信が始まってからこの数ヶ月、異常なほど僕を揺さぶり続けた、この『アイアンリーガー』というアニメは、一体何だったのか。

 奇妙なアニメである。
 ストーリーはとてもシンプルだ。主人公が仲間を集めて巨大な敵に立ち向かい、勝利する。はじめ敵だった者たちも、主人公たちの絆や魂に胸打たれて味方になる。まさに王道と言うべき筋書きだ。
 それなのに、いざ「『アイアンリーガー』とはどういう物語なのか?」と訊ねられると、何故か言葉に詰まってしまう。
 僕は『ONE PIECE』のオタクでもあるので引き合いに出すが、『ONE PIECE』とはどういう物語なのかと問われれば、「主人公である海賊ルフィが『ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)』を求めて仲間と冒険する話」と、すぐに答えることができる。表現の巧拙は置くとしても、「詰まるところ」はそんなものだろう。多数のキャラクターの生涯が複雑に入り乱れ、幾重にも伏線が張り巡らされた壮大な世界観を持つあの物語でも、その主題は極めてシンプルだ。
 昨今のコンテンツを語る上で欠かせない存在となった『鬼滅の刃』はどうだろうか。やはりあの漫画も「主人公炭治郎が鬼を倒す話」にまとめられる。これではあまりにも端的にすぎるということであれば、人によって「鬼に家族を殺された」や「心優しい」などの要素を付け加えていくのかもしれない。だがそれでも、基本はそう大きくは変わらないと思う。
『ONE PIECE』も『鬼滅の刃』も、語るべき多くの魅力を持つ作品だ。だがその主題はとてもシンプルで明快である。世に名作と呼ばれる作品は大抵そうであると、多くの脚本やシナリオの指南書は指摘している。
 しかし『アイアンリーガー』を同じように説明しようとすると、上手くいかない。
 試しに書いてみる。

スポーツをするロボット「アイアンリーガー」である主人公マグナムエースが、ラフプレイが横行するアイアンリーグで、仲間と共にフェアプレイを貫き勝利を掴む物語。

 間違ってはいないと思う。が、長ったらしい割に要領を得ない。
 もちろん、それは偏に僕の表現力の乏しさに起因するのであるが、しかし、これ以上どうすればいいのか、皆目見当がつかないのだ。
 こんな説明を耳にしたところで、「スポーツをするロボット」とは一体何なのか、なぜロボットがスポーツをしているのか、ラフプレイが横行しているとはどういうことなのか、ロボットの「仲間」とは何なのか、「貫く」と言うが、そもそもそうした「意志」がロボットに存在するのか、と混乱を招くばかりである。主題を語るにしては多すぎる言葉数を費やしているにもかかわらず、それぞれの要素について脚注を付けて追加説明をしないと理解ができない。そしていくら個別の要素の説明を丁寧にしたところで、「『アイアンリーガー』とはどういう物語なのか」という問いに対する答えには全くならない。そうこうしているうちに聞き手は「よく分からない」と興味を失い、僕の布教活動は失敗に終わるのである。
 ならば視点を変えて、「どんな物語か」ではなく、「どんなアニメか」を説明するとしたらどうか。

心を持ったロボットが仲間や敵と友情を深めながら戦う熱血スポ根アニメ。

『アイアンリーガー』の頭の痛いところは、こんな拙い文章でも「間違ってはいない」と言わざるを得ないことだ。『アイアンリーガー』ではそれこそ「友情」だの「絆」だのという単語が頻出するし、俺のオイルは沸騰するし、その心、即ち「根性」で、備わった性能すら超える力を発揮する。ロボットが、である。少なくとも、並べられた単語一つ一つに否定すべきものはないはずなのだ。
 それなのに、先ほどの文章全体から立ち昇る「コレジャナイ感」は何なのだろうか。こんな説明を拵えるくらいなら、言葉を表現手段として選ぶ人間の矜持などかなぐり捨てて、「とにかく熱いアニメ」とだけ言い置いた方がよほど良い。
 厄介なアニメである。これほど人の情緒を揺さぶる名作であるのに、その核心を掴むことができない。一体何故そんなことになってしまうのか。決して難解なストーリーではないはずなのに。
 しかしその厄介さこそが、『アイアンリーガー』が『アイアンリーガー』たる所以であると、僕は思っている。
「熱血スポ根アニメ」
『アイアンリーガー』は、今から三十年年近く前に放映されたアニメだ。絵柄、音楽、口調、表現、展開……そこかしこから九〇年代(あるいはもう少し前)の匂いがする。僕はその匂いに、時には懐かしさを覚え、時には気恥ずかしさに襲われたりする。
 そのストーリーも、言ってしまえば王道、つまりこれまでに様々なコンテンツで描かれ、幼い頃に慣れ親しんだ展開のかき集めだ。正義の心を持った主人公が、序盤に仲間を集め、戦いを通して敵が味方になり、友情でパワーアップし、終盤に主人公と縁の深いキャラクターが強敵として立ちはだかり、最終的にはラスボスも改心して味方になる。これでもかというほどの、目くるめく王道展開の連続だ。
 この王道展開が『アイアンリーガー』というアニメの大きな魅力であることは間違いない。シルバーキャッスルがピンチの時に「立ち上がれ!」と全音濁点付きで叱咤したゴールドフットに「やっぱりオタクはこういうのが大好きなんだよ」と言いながら何度机に頭を打ちつけていたか知れない(主語が大きいのはコンテンツに狂った人間にありがちな症状なので見逃してほしい)。
 しかし―各要素に間違いなくレトロを感じ、王道展開に感情を爆発させながらも―ではそれ故に僕はこのアニメに熱狂したのかというと、それは違う。
 この数ヶ月、僕はノスタルジーに狂っていたのではない。僕は―今、令和三年(現在は四年)を生きている僕は、令和三年の新しいコンテンツとして、『アイアンリーガー』に熱狂したのである。
『アイアンリーガー』から匂い立つレトロ感は、一種のオマージュのような要素であると僕は思っている。通常、オマージュとはある特定の作品を想起させるものであるが、『アイアンリーガー』の場合は「八〇年代~九〇年代の子ども向けアニメ」という概念を、オマージュとして取り入れたようなもの、とでも言うだろうか。
 オマージュは、その元ネタを知る者の心を躍らせる。だがいくらオマージュが効果的に盛り込まれていても、それだけで作品が名作になることはない。魅力の一つにはなっても、核とはならない。
 出典が何なのかは知らないのだが、物語の作者は「受け手の予想を裏切っても、期待を裏切ってはいけない」という言葉があるそうだ。昨今はアニメという媒体に対して視聴者が期待するものも様々であろうが、少なくとも『アイアンリーガー』を「子ども向けの熱血スポ根アニメ」と視聴者が理解した時、それに対して抱く「期待」には、そこまで大きく差はないと思われる。仲間、友情、絆、……そういったもので正義の主人公たちが困難を乗り越える物語。ある程度経験を積んだオタクなら、敵だった者が仲間になる展開なども(明確に意識するかどうかはともかく)序盤から予感するだろう。そしてこの物語は、最後にはハッピーエンドを迎えるだろう、と。正義は必ず勝つのであるから。
「子ども向け熱血スポ根アニメ」という認識も、それに対して視聴者が抱く期待も、至極真っ当なものだ。そして『アイアンリーガー』は、しっかりとその期待に応える。
 視聴しながら抱く「こういう展開が見たい」というオタクの願望や妄想を、『アイアンリーガー』はかなりの確率で叶えてくれる。あるいは「そうだ、俺はこういうシーンが見たかったのだ」という思いを、かなりの回数抱かせる。裏切らないどころか、頼みもしないのに僕が潜在的に抱いていた期待まで掘り起こしてぶつけてくる。「オタク、こういうの好きでしょう?」と。
 大好きである。
 だが、『アイアンリーガー』はそれだけに留まらない。王道をきっちりと抑え、視聴者の期待に十二分に応えながら、ちゃんと予想を裏切ってくる。
 故に、説明が難しいのだ。
 王道を辿っているはずなのに、その王道を説明したところで『アイアンリーガー』の説明にはならない。なぜならその王道から予想されるものを、『アイアンリーガー』はことごとく裏切るからだ。
 どのような予想を裏切っているのだろうか。それは恐らく、冒頭で書いた「コレジャナイ感」にヒントがあるのだろう。あの文章全体から受ける印象と、『アイアンリーガー』が実際に描いているものは随分と異なる。

根性論の正体


『アイアンリーガー』は基本、根性論である。ロボットたちは人間と変わらない「心」を持ち、その心から生まれるパワーは彼らに備わった性能限界すら超えてしまう。高度な運動機能と超高性能AIを搭載した、まさに科学技術の結晶とも言うべきロボットたちの在り方は、どこまでも非科学的である。
 今の時代、根性論を諸手で称賛する人は少数派だろう。少なくとも僕は嫌いである。かつて盛んに称揚されてきたそれは、「やる気」や「努力」や「絆」といった聞こえの良い言葉を並べ立てて、組織や共同体の抱える問題を構成員個人に押し付け、物事の本質を追求することを放棄する言い逃れだった。こうした認識は程度の差こそあれ、概ね社会に浸透しつつあると思っている(実態がどうであるかはともかく)。
「子ども向け熱血スポ根アニメ」という表現や、先ほど僕が書いた『アイアンリーガー』の説明文は、ノスタルジーや王道展開への期待以上に、こうしたアナクロニズムへの拒否感をまず呼び起こしてしまう。そもそも「ノスタルジー」や王道展開すらもこのアニメの本質ではないのに、だ。
 しかし繰り返しになるが、「子ども向け熱血スポ根アニメ」も、僕が書いた拙い説明文も、間違いではないのだ。『アイアンリーガー』が根性論をベースとして作られたアニメであることは事実である。「精神一到何事か成らざらん」で主人公たちは困難を乗り越えていく。事実、繊細なスポーツ技術や戦術の競い合いは『アイアンリーガー』ではほとんど描かれていない。勝因は常に気持ちの強さだ。客観的なデータに基づいた分析とそれに基づいた改善・改良が作中で行われることはない。
いや、アイアンリーガーたちがロボットである以上、それらは殊更に描くまでもなく日常的に行われているのだろう。しかし彼らはそれをも越えていく。その「心」によって。
「子ども向け熱血スポ根アニメ」という表現を、諸手を上げて肯定できない。しかし否定もできない。それ故に「『アイアンリーガー』とはどういうアニメか」と問われた時に、僕は言葉を失ってしまう。
 だがこれだけは言える。『アイアンリーガー』で描かれているものは、先ほど述べたような思考停止の産物としての根性論では決してない。
 なぜそう思うのか。それは『アイアンリーガー』の根底にある価値観が、徹底的に「個の意志」を第一としているからである。

来るもの拒まず、去る者追わず


 先述した通り、『アイアンリーガー』では「友情」とか「絆」という言葉が頻出する。「友情のために」「仲間を信じる力」「チームワークの大切さ」……この手の台詞は枚挙に暇がない。主人公マグナムエースをはじめとするシルバーキャッスルのメンバーは、身を挺してゴールや味方を守る。はぐれリーガー編の最後の戦いでは、敵を足止めするために、シルバーキャッスルのメンバーが一人、また一人とその場に残り、倒れていく。仲間を先に進めるために。この仲間の絆こそがシルバーキャッスルの強さの源であると、作中では繰り返し語られる。仲間を大切にすること。仲間を信じること。それが「シルバーキャッスル魂」の核とされている。
 これだけ見ると、『アイアンリーガー』は個人よりも仲間―即ち共同体を重要視しているようにも見える。もちろん、シルバーキャッスルのリーガーたちは誰かに強制されて捨て身の行動に出たわけではない。彼ら自身がシルバーキャッスルというチームを愛し、自ら仲間を守ることを望んだ故にしたことだ。自己犠牲の是非―そもそも彼らの行動を自己犠牲と呼ぶかどうかも含めて―については議論があるところだろうが、少なくとも僕はこうした展開を以って『アイアンリーガー』が、共同体がその構成員に貢献(あるいは犠牲)を強いる全体主義的な価値観の物語であると言うつもりはない。
 しかし、いくら彼らが自らの意思で行ったことだとしても、その行動が共同体への貢献であり、その行動の原動力が共同体の「絆」であり、そしてそれが物語をハッピーエンドへ導く以上、その物語は強固な「絆」で結ばれた共同体(仲間)を、善なるもの、尊いものとして描いているということになる。
 そのこと自体に問題があると思っているわけではない。人間が社会的存在である以上、共同体への貢献を正義とする価値観は本能的なものだろう。事実多くのアニメや漫画がその価値観に依っているし、それが子ども向けのものであるなら尚更だ。
 そう、問題はないのだ。『アイアンリーガー』が仲間を、共同体を、その「絆」を尊ぶ物語であっても、何の違和感もない。むしろ、子ども向けアニメとしてはあるべき姿とも言える。そして事実、『アイアンリーガー』にはそういう面もある。
 そして、「そういう面もある」程度でしかない。

 面白い回がある。本編第一部の最終回的位置づけの第二十六話『新たなる使命!』だ。
 シルバーキャッスルはナショナルリーグで総合優勝を果たし、ゴールド三兄弟を強制引退から救い出した。しかしその直後、マグナムエースは突然シルバーキャッスルを退団すると言い出したのである。
 だが理由も告げずに退団を申し出たマグナムエースに対し、監督のエドモンドはあっさりと了承する。そしてその背中を見送りながら「来るもの拒まず、去るもの追わず、か……」と呟く。
 そして、マッハウインディをはじめとするシルバーキャッスルのメンバーがその突然の事態に憤る中、キアイリュウケンだけは、理由を問いただすことも、引き留めることもなく、ただ笑顔でマグナムエースを見送る。
 作中で明確にそう呼ばれることはないが、マグナムエースはシルバーキャッスルのキャプテンとしての役割を担っている。それが突然(しかもワールドツアー目前に)退団すると言い出したにもかかわらず、監督とリュウケンの態度はあまりにも落ち着きすぎていて、ともすれば冷淡にも思えるほどだ。
 シルバーキャッスルのメンバーが強固な「絆」で結ばれていることは、それまでの二十五話で散々強調されてきた。彼らは「絆」を以って彼らとなり、その「絆」で強敵を打ち倒し、敵であるゴールド三兄弟の心を動かして、彼らを非情な運命から救い出しもした。
 その「絆」の中心、あるいは起点としての役割を担ってきたのがマグナムエースである。シルバーキャッスルがスポーツチームである以上、勝利を目指すのは当然のことではあるが、この「ラフプレイの横行するアイアンリーグでフェアプレイを貫くシルバーキャッスルの快進撃」という物語が、マグナムエース(とそれに促されたマッハウインディ)の加入から始まったのは間違いない。半ばマグナムエースの意志に巻き込まれる形で始まったこの物語を、当の本人が突然訳も話さず降りると言い出したのだから、マッハウインディたちが憤るのももっともである。
 ウインディたちはまだ自らの意思でシルバーキャッスルに加入したのだから良いが、元々存在していたシルバーキャッスルというチームは、言ってみればマグナムエースの足場として利用された形である。監督とリュウケンは創立当初からシルバーキャッスル所属している。彼らにとってシルバーキャッスルは家族も同然の存在だ。それを利用するだけしておいて放り出したマグナムエースに対し、彼らはウインディたち以上に怒って然るべきだ。
 しかしこの二人は―人一倍シルバーキャッスルというチームに思い入れがあるに違いないにもかかわらず―憤るどころか、動揺すらもしない。
 しかし遡ってみれば、こうした態度は第一話から既に描写されていた。同じくシルバーキャッスルの初期メンバーである、ジェイクとジムが退団するシーンである(第一話『俺の名はエース!』)。
 この時も、エドモンドは去りゆく二人を気遣う言葉を掛けはしたが、それを引き留めようとはしなかった。そして(単に尺の問題かもしれないが)ここでもチームメイトがそれに動揺したり、引き留めようとしたりするシーンはない。
 この時点では、マッハウインディもマグナムエースも加入していない。この時のシルバーキャッスルは碌にメンバーもいない弱小チームだ。彼らが抜けてしまったらサッカーチームとしての最低限の人数すら揃わなくなる。それでも、エドモンドは「そうか」で了承してしまう。このシーンでその言葉は出てこないが、まさしく「来るもの拒まず、去る者追わず」である。
 第二十六話で、エドモンドはその言葉をどこか伝聞的に呟く。恐らく、この言葉はチーム創設者のリカルドが残した言葉なのだろう。
 本編後半からキーマンとして登場するリカルドは、マグナムエースの生みの親であり、マグナムエースやリュウケンに「心」を力に変える機構を(勝手に)組み込んだ張本人、物語の元凶とも言うべき存在である。だがリカルドは、迷うリーガーたちを教え諭したり、導いたりすることはない。ただひたすらに見守るだけだ。ひたすらに見守り、ただ「お前の思う通りにやりなさい」とだけ繰り返す。
 そしてリカルド亡き後、その弟であるエドモンドも、監督として「フェアプレイを貫く」という一点以外は基本的に放任主義を貫く。エドモンドもまた弟として奔放な兄に振り回される立場だが、リーガーたちへの態度は兄とよく似ている。
 キアイリュウケンは『アイアンリーガー』の主要七人の中で唯一のシルバーキャッスル初期メンバーだ。彼が七人の中にいることは、『アイアンリーガー』が、マグナムエースたちによって全く新しいチームに生まれ変わったシルバーキャッスルではなく、リカルド銀城が創立し、そのまま万年最下位であった、そのシルバーキャッスルが勝利を掴んでいく物語であることを示す意味を持っている。そしてリュウケン自身もまた作中で、人間に与えられた本来の空手リーガーとしての役割ではなく、「シルバーキャッスルでサッカーや野球やりたい」という、「自らの意志」を優先するというエピソードを持っている。「お前の思う通りにやりなさい」や「来る者拒まず」に間接的に呼応するキャラクターなのだ。
 エドモンドも、リュウケンも、それぞれ創設者であるリカルドの遺志―ではなく意志、即ち「シルバーキャッスルとはどのようなチームか」の体現者である。
 その二人はどちらも、去りゆく者を追わない。
 「それがシルバーキャッスル」であり、『アイアンリーガー』である。
「来る者拒まず、去る者追わず」という言葉も、「お前の思う通りにやりなさい」という言葉も、一見無責任で冷淡に思える言葉だ。しかしそれは決して「お前のことなどどうでもいい」ということではない。
「来る者拒まず、去る者追わず」とは、相手を自立した意志を持つ存在として認め、その「個」としての決断を尊重する態度だ。その人がその人自身の意志に基づいて下した決断であるならば、たとえそれが共同体や自らに不利益を与え、その存在そのものを揺るがしかねないようなものであったとしても、肯定し、エールを送る。そういう在り方だ。
 それができるのは、エドモンドやリュウケン自身が、自らを「個」として扱う覚悟があるからだ。「私は私でがんばるから、あなたはあなたでがんばれ」と言うことができる強さを、彼らは持っている。罵声と嘲笑に晒され、勝利の糸口すら掴めないまま、それでもずっとフェアプレイを貫いて孤独な戦いを続けてきた、シルバーキャッスルの強さである。
「来る者拒まず、去る者追わず」とは、あなたが共同体を離れてもやっていけると、あなたが離れても私(たち)はやっていけると信じているということだ。それは自ら確固たる「個」を持つ者同士の強固な信頼関係に他ならない。
 その態度は、組織や共同体が抱えているはずの問題を見ようともせず、個人にのみその責を負わせようとする全体主義的な「根性論」の対極にあるものだ。「個」こそを『アイアンリーガー』は尊ぶ。他者の「個」も、自らの「個」も。共同体よりも、何よりもだ。
 その後、二十六話はどうなっただろうか。リュウケンに見送られたマグナムエースの前には、マッハウインディたち残りの五人が現れた。
 全員シルバーキャッスルを退団して。
 言わば二十六話のオチのようなシーンだが、これまで散々「シルバーキャッスル魂」で危機を乗り越え、遂に宿敵ダークプリンスを打ち倒してナショナルリーグ優勝まで漕ぎつけたのにもかかわらず、マグナムエースをはじめとした主要メンバー(リュウケン、エドモンドも含めて)によるこの「シルバーキャッスル」というチームの扱いは、最早ぞんざいとも言っていい。潔いにもほどがあろう。いくらシルバーキャッスルが強いといっても、これでは余りにもチームが哀れすぎる。
 結局、マグナムエースが観念して真実を話し、彼らの退団は取り消された。主要七人は全員ではぐれリーガーを救う旅に出ることになり、再び「シルバーキャッスル魂」で戦いながら、そのはぐれリーガーたちとも友情や絆を育んでいく。
 だが、二十六話の彼らの行動が『アイアンリーガー』内で浮いた行動であったのかというと、それは否である。彼らの行動には度肝を抜かれつつ、しかし一方で、彼らならやりかねないという奇妙な納得感が存在する。彼らなら、必要があればシルバーキャッスルを一斉退団することだってやりかねない。あるいは、それを黙って見過ごすことだってあり得るだろう。その印象は、本編の完結を見届けた後でも変わることはない。
 そして物語は、OVAへと続いていく。

『アイアンリーガー』の善と悪


『アイアンリーガー』の「個」、あるいは個の意志を第一とする姿勢は、第一話からOVA最終話まで―何でもありの世界観とは裏腹に―驚くほどに一貫している。その徹底ぶりは、『アイアンリーガー』における「善」と「悪」の位置づけにも表れている。
 繰り返すが、『アイアンリーガー』で最も尊重されるのは個の意志―「自らの意志」である。共同体よりも、善悪よりもだ。
『アイアンリーガー』には、「フェアプレイ」と「ラフプレイ」の対立構造が常に存在する。シルバーキャッスルを中心とする主人公サイドの善性の象徴がフェアプレイであり、ダークスポーツ財団を中心とする悪役サイドの悪性の象徴がラフプレイである。シルバーキャッスルは善なる存在として、それに相応しくフェアプレイを貫き、最後には「悪」であるダークスポーツ財団を、あるいは「悪」の象徴であるラフプレイを称賛する世界そのものを(「善」へと改心させるという意味で)打ち倒す。
 だから『アイアンリーガー』というアニメは、その説明だけを聞けば、勧善懲悪の物語であるかのように思える。それを裏付けるように、主題歌は「限りない過ちを打ち砕く」や「押し寄せる悪の手を倒す」「その正義呼び覚ませ」という歌詞であるし、作品内でも「正義の心」という台詞がキーワードとして登場する。
 しかし奇妙なことに、『アイアンリーガー』を視聴し続けていると、これが勧善懲悪の物語ではないことに徐々に気づいていく。そして―これを正直に述べるのは気が引けるのだが―主題歌の歌詞に、少々違和感を抱くようになる。
『アイアンリーガー』の善と悪に対する視座や態度は、実はかなり中立的だ。それは、もともと「悪」としてラフプレイを行っていたゴールド三兄弟やはぐれリーガーたちが次々とフェアプレイに目覚め、「善」である主人公サイドに加わっていく(そして最終的には悪の首魁であったダークスポーツ財団のギロチも「改心」する)話の展開のことを指しているのではない。悪が善に「転じる」ならば、それは明確に両者を区別しているし、それをハッピーエンドとするならば、それは善に重きを置いているということだ。
『アイアンリーガー』に全くそれがないと言うつもりはない。子ども向けのアニメということもあり、基本的には「善」に重きを置いている物語だ。なので「中立的」という言い方は適切ではないかもしれない。しかし、そうした善悪というものの物語の上の位置付けは、よくよく見てみるとそう高くない。
 物語の仕掛け人とも言うべきリカルド銀城というキャラクターがその典型である。リカルドはロボットたちの「心」を非常に重視しているが、一方で善悪という線引きに対してはあまり関心を払わない。初めて生身で登場した時、彼は盗賊であるシスレーに協力していた(第三十二話『熱砂の大盗賊』)。リカルドはシスレーの盗賊行為に対し、(恐らく)その境遇を慮って一定の理解を示すものの、その行為を止めようとする十郎太には「お前の思う通りにやりなさい」とだけ告げる。また同じ回の中で、ダークスポーツ財団にいた一人のロボットに「ダークにだって戻りたければ戻れるんだ」と(リカルド自身はダークを抜け出し、ギロチやセーガルと対立しているにもかかわらず)言うのだ。
 その後も(自分で逃げ出しておきながら)ダーク側にしれっと居座っていたりするなど、敵も味方も煙に巻く言動を繰り返す。そしてアイアンリーガーたちに「お前の思う通りにやりなさい」という態度で接し続ける。
 そもそも、マグナムエースたちに無断でココロキットのような「変な物」を搭載し、挙句黙って放り出すリカルドの行為は、所属するリーガーにショックサーキットを組み込んでいるダークスポーツ財団の所業と大差ない。シルバーキャッスル―ひいては『アイアンリーガー』の物語の創始者とも言えるリカルド銀城は、善悪に対してニュートラルなキャラクターとして描かれているのだ。
『アイアンリーガー』を勧善懲悪の物語と捉えることに僕が違和感を抱く理由はまだある。『アイアンリーガー』における「悪」への処断である。
『アイアンリーガー』のロボットたちは、皆心を持ち、感情を持ち、意思を持っている。彼らは自らの意思でスポーツをし、自らの意思でチームと「契約」し、自らの意思でそれを破棄することもできる。ロボットたちは人間と全く同じように喜び、悲しみ、怒り、迷う。それが『アイアンリーガー』の世界だ。
 しかし、ロボットたちが作中で完全に人間と同等の存在として扱われているのかというと、そうではない。人間と同じ心や感情を持ち、人間と変わらないように生活していても、彼らにはどこまでも「工業製品」や「商品」としての側面が付いて回る。ロボットは人間の発注によって生産され、加工され、そして消費される。彼らは人間によって与えられた使命を果たせるかどうかでその存在価値を測られる。人間と全く同じに誇りを持ち、痛みを感じ、「死」を恐れる存在でありながら、彼らは人間の都合でその在り方を定められ、命すら左右される。
 第二十五話『自由への大脱出』で、アイアンリーガーだったはずのシルバーフロンティアから野球を、心を、意志を奪い、ソルジャーという兵器へと改造して戦場へ送り込んだギロチは、「マグナムエース」となって戦場から帰還した彼に告げる。「お前には過去も未来も、自分で決める権利などはないのだ。」と。
 最先端の科学技術が生み出した、とても人間臭いロボットたちが、人間とボーダーレスに生活し、大真面目にスポーツをしている。一見コミカルで明るい『アイアンリーガー』の世界の影には、そうした人間の欲望がひしめいている。物語が進むにつれて徐々に浮き彫りになるロボットたちを取り巻く闇は、その子どものような自由で夢のある世界観とは裏腹に、悍ましいまでに醜悪だ。ダークスポーツ財団は単にラフプレイを行う存在ではなく、人間と同じように心や感情を持つロボットたちを、自分たちの利益のために騙し、その意思に反して兵器に改造し、戦場に送る。彼らの尊厳を徹底的に踏みにじり、その存在ごと破壊する。そうして二度と帰らなくなったロボットたちは数知れない。ダークスポーツ財団の地下に「廃棄」されていたのは、そうした無数のロボットたちの屍の山だ。ロボットたちは痛みを感じ、悲しみ、苦しみ、死を恐れる。人間と何も変わらない。作中でリカルドが言うように、彼らもまた代わりなどいない存在であるにもかかわらずだ。それが『アイアンリーガー』の闇であり、「悪」である。
 ところが『アイアンリーガー』では、その「悪」に罰が下されることはない。
 財団のチームであるダークプリンス、ダークキングス、そしてダークスワンはそれぞれシルバーキャッスルに敗れるが、それは単にアイアンリーグ内の一チームの試合結果に過ぎない。大切なのはそこに所属していたゴールド三兄弟やファイター兄弟たちとのドラマであって、そのチームがダークスポーツ財団傘下であることに、物語上はそれほど大きな意味はない。チームが敗れたからといって、ダークスポーツ財団そのものが倒されたことにはならない。本編でも、その後のOVAでも、「悪」であるはずのダークスポーツ財団、そしてその首魁であるギロチは何も失わないまま、物語は幕を下ろす。
 これはダークスポーツ財団やギロチに限った話ではない。シルバーキャッスルと出会い、主人公サイドに加わった元「悪」であったリーガーの中には、同じロボットを破壊していた者たちもいる。作中では「スクラップ」という表現が用いられているが、それは人間の殺害となんら変わらない行為だ。そこにどんな過去や経緯があったとしても、僕たちの世界の倫理観では許されない「悪」であり、罪と呼ぶべきものだ。それでも、彼らが弾劾され、罰が与えられることはない。
 前述で、ギロチは「改心」した、と表現した。なるほど、アイアンリーグを金儲けの手段としか考えていなかったギロチが、正々堂々と戦うアイアンリーガーたちの熱さに目覚め、ロボットの「心」を認めたのは、心変わりとは言えるだろう。しかし、それは改善ではない。ギロチは悔い改めたわけではない。それはOVAで相変わらずオーナー会議を私物化している様子からも分かる。彼は「善」になったわけではない。彼は単に、アイアンリーガーに魅せられただけである。
『アイアンリーガー』における「悪」とは、ダークスポーツ財団やギロチ、あるいはかつて同胞を殺したロボットのような特定の誰か(何か)ではなく、ロボットたちの個の意志を阻むものという概念であると捉える考えもあるだろう。罪を憎んで人を憎まず、とも言えるだろうか。だから、特定の人(ロボット)には罰は下されない。下される必要がない。「限りない過ち」「押し寄せる悪の手」とは、ロボットたちの意志を阻む思想や風潮、それを孕む世界であって、それらを「打ち砕」き、「倒す」のが、『アイアンリーガー』の物語である、と。
 それについては、僕も一理あると思う。先に述べた通り、『アイアンリーガー』では個の意志を第一とする価値観の物語だ。物語は、そして主人公たちは、個の意志を最も尊ぶ。故に『アイアンリーガー』における最大の敵は、必然的にそれを阻むものになる。
 脚本やシナリオ指南書ではよく、物語は主人公の「~したい」という「欲求」に基づく行動によって進んでいくと書かれている。だが主人公が何の障害もなくその「欲求」を達成してしまっては物語にならない。そのため、物語にはその「欲求」を阻む「障害」(通常は「葛藤」という言葉が使われることが多い)が必ず現れる。そして主人公がそれを乗り越えていくことで、観客に共感や感動をもたらすのであると。その「障害」が大きく、困難なものであるほど物語は緊迫感を増す。そしてその分、主人公がそれを乗り越えた時、観客が得る感動はより大きなものとなるのだという。
『アイアンリーガー』という物語を先に進める、マグナムエースをはじめとする主人公サイドの「欲求」は、それぞれの個の意志―「自らの意志」を貫き通すことである。第二十五話でマグナムエースに対し「お前には過去も未来も、自分で決める権利などはない」と告げ、なぜ戦場から戻って来たのかと問うギロチに対し、マグナムエースは「ロボットの、アイアンリーガーたちの本当のあるべき姿を示すために」戻ってきたと答える。ロボットたちにも心が、意志があると―それに基づいて思う通りに「生きる」ことができるのだと、「生きて」よいのだということを、自らが「自らの意志」を貫くことで示す。それがマグナムエースたちの「欲求」だ。
 そして、それを阻む「障害」が、ショックサーキットや強制引退であり、それを実行するダークスポーツ財団であり、そして、心を持つロボットたちに非情な運命を強いている人間の果てしない欲望である。人間の欲望がなくならない限り、たとえダークスポーツ財団がリーガーたちをショックサーキットから解放し、彼らを戦場に送らなくなったとしても、また別の誰かが同じことを繰り返す。事実、OVAではUN社がダークスポーツ財団に代わって暗躍している。
 ロボットたちの意志を阻む全ての「障害」の根源が人間の欲望、あるいは欲望に支配される人間の弱さであり、それこそが「悪」である。そしてマグナムエースたちは「正義の心」でそれを乗り越え、打ち砕いていく。ロボットたち(そこにはマグナムエースたち主人公サイドのロボットも含まれる)を残酷な運命から救う。その構図の捉え方は間違いではないと思うし、それこそが『アイアンリーガー』の主題であるという見方もあろう。
 だが一方で、『アイアンリーガー』で描かれる「欲求」と「障害」の対立関係は、善と悪の対立という構図よりも複雑であると僕は思っている。
 なぜなら、『アイアンリーガー』という物語において、「自らの意志」を貫くという「欲求」に対する「障害」は、必ずしも「悪」とは限らないからだ。
 本編最終章であるワールドツアー編が、それを如実に物語っている。ワールドツアー編で登場するファイター兄弟は、ダークスポーツ財団傘下のダークスワンに所属しながら「悪」の象徴としてのラフプレイを行わない。それどころか、彼らは敵の罠に嵌められて窮地に陥ったGZを救出するなど、「善」としての在り方を見せる。
 そのファイター兄弟が、シルバーキャッスルの前に敵として立ちはだかる。
 このファイター兄弟の登場により、これまで迷うことなくシルバーキャッスルの先頭をひた走って来たマグナムエースは激しく動揺する。そして、ファイター兄弟の存在に囚われる余り、遂には「自分を見失」い、試合することすらままならなくなる。
 なぜマグナムエースはファイター兄弟の存在にあれほど動揺したのか。ファイター兄弟がマグナムエースの実の兄であったためだろうか。
 もちろん、それは大きいだろう。だがマグナムエースは、単に彼らが自分の兄だったからという理由だけで動揺したのではない。
 これは僕の推測でしかないが、それまでのマグナムエースにとっての「マグナムエース」とは、ロボットを救い、悪を打ち砕く、正義の戦いをする者―その使命を負う者であったのではないだろうか。第二十五話で「ロボットの、アイアンリーガーたちの本当のあるべき姿を示すために」戻ってきたと、マグナムエースは言う。「ロボットたちを救うため」に、「スポーツを隠れみのにして、ロボット兵士を開発し、戦場へ送り込んでいるお前(=ギロチ)の企みを粉砕するために」、戻ってきたのだと。
 マグナムエースは自らの使命を、戦う理由を、自分を含め「きょうだい」であるロボットたちの意志を阻む「悪」を倒すことであると定めていた。悪を倒し、ロボットたちが「自らの意志」で生きられるようにする。その「正義」を負って戦うのだと。
 だからこそ、敵が「悪」でなくなった時、「マグナムエース」は戦う理由を見失ってしまう。
 マグナムエース(かつてのシルバーフロンティア)にとって、兄たちは「悪」ではない。「正義」である自分の側にいる存在だ。だから、自らの使命を「悪を打ち砕く」と定めた時、彼らを敵として認識することができなくなる。マグナムエースの戦いの理由が「ロボットたちを悪の手から救う」という「正義」に立脚している限り、敵が「悪」でなければ戦うことができなくなる。
 これはマグナムエースに限った話ではない。マッハウインディもまた、ファイター兄弟を前にして迷いを見せる。彼は、試合中足を止めてしまったマグナムエースの気持ちを「なんとなく分かる」と言った。自分たちと同じ「善」でありながらダークに在るファイター兄弟の存在に、「俺たちがやってきたことが分かんなくなっちまった」と(第五十話『地上最大のキックオフ』)。
 マッハウインディもまた、いつしか自らの戦う理由を「正義」に求めていたのだろう。特にウインディは、かつてダークスポーツ財団の支配を直接受け、ショックサーキットの犠牲にもなっている。元々白黒をはっきりさせたがる性格も相まって、ダークスポーツ財団を「悪」と認識し、それを倒すことを、他のチームメイトよりも戦う理由に置きやすかったのではないだろうか。
 彼らの戦う理由は正義だった。しかし、彼らの足を止めたのもまた正義だった。ワールドツアー編で彼らの「欲求」を阻む「障害」は、悪ではない。彼らの正義だ。そして『アイアンリーガー』は、決して悪ではないその正義すら敵として描く。
 マグナムエースは第二十五話で、戦場から戻ってきた理由を「ロボットたちを救うため」とギロチに対して答えた。しかし第二十四話『蘇れ!炎のライバル』では、その理由を「自分自身を取り戻すため」とゴールドアームに語っている。理由が異なるのだ。
 これも憶測にすぎないが、二十五話のマグナムエースは、かつて自分から「全てを奪い」、今もまたゴールド三兄弟の意志を踏みにじろうとするダークスポーツ財団の首魁を前にして、怒りから「本当の自分」を見失ったのではないかと思う。
 だが、マグナムエースが戦う本当の理由は、彼の「本当の『欲求』」は、本来はもっと単純なものだったはずなのだ。
 ワールドツアーの最中、チームメイトの極十郎太は、ファイター兄弟に―否、自らの「使命」に囚われるマグナムエースに対し「心を白く」とメッセージを残した(第四十六話『熱きチームワーク復活』)。
 リカルド銀城はマグナムエースに「自分を見失うな」と伝えた(第四十八話『心の霧を打ちはらえ!』)。
 第五十話でファイター兄弟がダークに従い続けることに苛立つマッハウインディに対しては、ジョージィ・アイランドが「だけど、一度引退したゴールド三兄弟も、ダークに戻ってクリーンファイトしてますよ?」と指摘する。善悪や使命に囚われるマッハウインディ対して「それは本当に重要な事か?」と、ジョージィは問うた。
 そして同じ第五十話で、トップジョイは言う。強敵であるファイター兄弟、ゴールド三兄弟と試合できて「ハッピー」だと。そうして、マッハウインディは自分の本当の「欲求」に辿り着く。思い出す。「俺たちは、そのために戦ってきたんだ」と。そしてマグナムエースに呼びかける。「熱い試合をやろうぜ」と。
 そして、マグナムエースはそれに応えた。「熱い試合をやろうぜ」と。
 正々堂々と戦いたい。熱い試合をしたい。
 そこには善も悪もない。
 ジョージィの指摘は、『アイアンリーガー』の本質を捉えているように僕は思う。『アイアンリーガー』は、「自らの意志」を第一とする。善悪や、正義よりもだ。たとえそれが正しいことであっても、尊ぶべき在り方であったとしても、それが「本当に自分のやりたいこと」を阻む限り、『アイアンリーガー』はそれを敵として描く。『アイアンリーガー』は、集団にも、イデオロギーにも、個を犠牲にさせることを許さない。それがシルバーキャッスルという善の集団であっても、ロボットを救うという正義のイデオロギーであっても、それが個の、「自らの意志」を阻むものであるならば、それは倒すべき敵として描く。
『アイアンリーガー』は、ロボットたちが「自らの意志」を貫く物語―即ち、その障害となるものとの「戦い」の物語である。それは間違いのないことだ。だが、それは善と悪の戦いの物語ではない。
 それは「戦い」である。戦場に事の善悪がないように、そこにあるのは「勝つか負けるか」だけだ。だから『アイアンリーガー』では、僕たちの世界で言うところの「悪」が倒されることはない。その必要がないからだ。『アイアンリーガー』において重要なのは「自らの意志」を貫くことであり、それを達成した者が勝者だ。だから主人公たちが勝利した後は、ダークスポーツ財団がどうなろうと、同胞を殺したリーガーの罪が罰せられようと罰せられまいと、あるいは、ロボットたちの非情な運命の根源である人間の欲望がどうなろうと、それによって構成される世界がどうなっていこうと、言ってしまえば「いいじゃんかもう」ということなのだ。
 確かに物語では、それまでラフプレイに熱狂していた人間たちが、徐々にシルバーキャッスルに心を動かされていく。本編の最後では、ギロチでさえも「アイアンリーガー魂」を認め、讃えた。世界は確かに変化の兆しを見せていた。しかし、それらも『アイアンリーガー』ではおまけであると僕は思っている。
 僕にとって、本編最終回(第五十二話『勝利への大行進』)はほとんどエピローグである。その直前の第五十一話『終わりなき大勝負! 』で既に物語は完結していると、僕は思ったのだ。マグナムエースは自分を取り戻し、最後の難敵として立ち塞がったファイター兄弟もまた、「俺たちは戦うために造られた」(この場合の「戦い」は「自らの意志」を貫く「戦い」とは意味が異なる)という与えられた定義や、二人だけで足りるといったプライドを乗り越え、「自らの意志」に気づいた。
 アイアンリーガーたちは「自らの意志」を全力でぶつけ合う「熱い試合」に至った。その時点で、彼らリーガーたちの「戦い」の勝利は確定した。この物語の主題は既に達成されたのだ。ワールドツアー最終戦の結果は、あくまで「熱い試合」をした、その結果に過ぎない。ギロチの心変わりは、リーガーたちの勝利による波及の一つに過ぎない。彼が改心しようがしまいが、それはリーガーたちの勝利には何ら影響を及ぼさない。もしギロチが変わらないまま、またリーガーたちの意志を阻もうとするのであれば、また新たな「戦い」が始まるだけである。そしてそれは、ギロチが改心したとしても同じことだ。ロボットの運命が、あるいはその存在そのものが人の欲望から生み出されたものである限り、ダークスポーツ財団が「悪」から手を引いたとしても、別の何かがリーガーたちの意志を阻むだろう。他でもない『アイアンリーガー』が、自らOVAでそれを裏付けている。
 そのたびに、アイアンリーガーたちはまた「自らの意志」を貫くために戦うだろう。
 そして、もし仮に、ダークに、OVAのUN社に代わるものが現れず、ロボットたちが真にその心と意志を認められ、自由を獲得し、本当に人間と同じように生きられるようになったとしても―それでも「戦い」は終わらない。なぜなら、全知全能でもない限り、生きていく上でしがらみからは逃れられないからだ。
 それはリーガーに、そして全ての意志ある者に必然的に与えられる宿命だ。
『アイアンリーガー』は、「自らの意志」を第一とする。それを持つ者たちに「正直に生きろ」と言い、それを持つ者たちはどこまでも自由であると謳う。
 しかし、意志ある者たちに、それでも与えられた宿命があるとするならば―きっとそれこそが「自らの意志」を貫く「戦い」であり、それを「限りなき使命」と呼ぶのかもしれない。

「シルバーキャッスル」という神を殺す物語


『アイアンリーガー』における徹底的な「自らの意志」第一主義は、OVAで駄目押しされる。
 繰り返すが、『アイアンリーガー』では「自らの意志」が何よりも尊ばれる。逆に言えば、「自らの意志」を阻害するものは、たとえそれが「正義」のように、正しいことであったとしても、『アイアンリーガー』では「敵」とみなされる。そこに例外はない。
 そう、例外はないのだ。
 そうして、OVAの物語が綴られる。「シルバーキャッスル」を、最後の敵として。

 OVAではダークスポーツ財団に代わり、UN社が外形的な「悪」として描かれる。そして、UN社に買収され、ラフプレイを行うチームへと変貌してしまったシルバーキャッスル(以下「UNシルバーキャッスル」という。)を、マッハウインディたち(以下「真シルバーキャッスル」という。)が倒す。それがOVAの物語である。
 しかし、OVAには奇妙な点がある。肝心の主人公マグナムエース、そして極十郎太、GZの三名は、最後までUNシルバーキャッスルに留まり続けるのである。それ故に、OVAではかつての仲間同士が敵味方に分かれる、ファンにとっては非常に心の痛む展開になる。
 マグナムエースたちがUNシルバーキャッスルに留まり続ける理由は、容易には理解しがたい。UNシルバーキャッスルにはもはやルリーもおらず、チームマークすら変わってしまっている。かつてのシルバーキャッスルの面影はどこにもない。それは誰が見ても明らかなことだ。
マグナムエースたちが、ただ「シルバーキャッスル」という名前のみに固執したとは考え難い。そんなものに固執するくらいなら、本編二十六話でリュウケンたちオリジナルメンバー以外が一斉退団するような事態にはならないはずだ。
しかし、マグナムエースたちは動かない。そして、UNシルバーキャッスルに脱退宣言を突き付けたマッハウインディに、ただ「がんばれよ」とだけ言うのだ。
 僕はOVAを、「シルバーキャッスル」を倒す物語だと理解している。「UNシルバーキャッスル」を、ではない。本編でワールドツアー優勝を成し遂げ、あのギロチの心をも動かして数多のロボットたちを解放した、まさしくその「シルバーキャッスル」を、だ。
 シルバーキャッスルは『アイアンリーガー』の世界において、きっと生きる伝説となっただろう。フェアプレイを貫いて頂点に立ち、ラフプレイを礼賛する世界に革命をもたらした。「ロボットにも心がある」と、その絆と魂で世界に刻み付けた英雄。その英雄譚は繰り返し語られ、そしてこれからも語り継がれていくことだろう。仲間の絆。心の強さ。どんな困難にも挫けず、最後には勝利を掴む正義のヒーロー。そうしたものの象徴として「シルバーキャッスル」は称賛され、崇められただろう。
 それを倒すのが、殺すのが、OVAの物語だ。僕にとってOVAは、「シルバーキャッスル」という英雄殺し、神殺しの物語である。
「シルバーキャッスル」が成し遂げたことは、ロボットも人間も関係なく、多くの人に希望を与えたに違いない。世界はきっと良い方向へと舵を切った。「シルバーキャッスル」は、さながら『民衆を導く自由の女神』であったのだ。
 しかし、英雄としての、神としての座を与えられた「シルバーキャッスル」に、自由はあったのだろうか。尊きもの、正しきものとして認識され、世界からそのようなものであると定義された「シルバーキャッスル」は、それに所属する者たちをも定義するものになったのではないだろうか。英雄たれと。自由への先導者たれと。「ロボットの、アイアンリーガーたちの本当のあるべき姿」たれと。そうあらねばならないと。
「シルバーキャッスル」は、いつしか個を認めぬものになってしまったのではないか。「自らの意志」を阻むものに。『アイアンリーガー』の敵に。
 UN社によるシルバーキャッスルの買収は、一つのきっかけに過ぎなかったのではないだろうか。作中で明確には描かれていないが、僕はそれ以前に「シルバーキャッスル」が「敵」となる兆しはあったのではないかと感じている。
 OVA第一話『さらば、友よ』で、ブルアーマーがかつてのチームメイトであったジェットセッターから新しいアメフトチームに誘われていると明かすシーンがある。また同話でマッハウインディと共にUNシルバーキャッスルを飛び出したトップジョイは、ダークスポーツ財団に戻ろうとウインディに提案する。
 UN社の方針によりチームがバラバラになりかけている中、ブルアーマーはジェットセッターからの誘いに応える決断をする。しかし、それはシルバーキャッスルがUN社に買収され、変わってしまったことが原因ではない。このタイミングでなくても、遅かれ早かれブルアーマーはジェットセッターから声を掛けられただろう。そして、かつて自分が傷つけてしまった、大切な元チームメイトからの頼みにブルアーマーが応えたいと思うのは当然のことだ。それはシルバーキャッスルがUN社に買収される前でも同じだったに違いない。
 トップジョイは、単にUNシルバーキャッスルからの受け皿としてダークを提案したのではないと僕は思っている。ウインディにダークへの移籍を提案した時、トップジョイ自身は自覚していなかったと思うが、バスケットボールをしたいという思いが、トップジョイの中で再び生まれ始めていたのではないだろうか。それもまた、シルバーキャッスルの変貌とは関係がないことだ。
 ワールドツアーでの勝利――それはダークスポーツ財団を打ち破って優勝したということではなく、アイアンリーガーたちが「自らの意志」が貫いたということを意味する――によって、彼らの戦いは一つ終わりを迎え、それまで拠り所としていたシルバーキャッスルもまた一つの役目を終えた。そしてその終わりと共に、シルバーキャッスルのリーガーたちは、それぞれ新しい戦いへと赴こうとし始めていたのではないだろうか。
 しかし、英雄となった、神となった「シルバーキャッスル」は、それをどこかで阻んだのではないか。仲間と共に過ごした時間。共に戦った記憶。共に勝利を掴んだ誇り。シルバーキャッスルのメンバーたちにとってそれら全てが「シルバーキャッスル」である。その存在は、その絆は、自分自身を構成する要素としてとりわけ大きなものであったに違いない。
 そして、それは大きくなりすぎた。銀の城は巨大になりすぎたのだ。その存在が大切だからこそ、共に紡いだ絆が強いからこそ、そしてそれが掴んだ勝利が価値あるものであるからこそ、彼らはそれに囚われ始めていたのではないか。
 ブルアーマーもトップジョイも、恐らくはほとんど自覚がなかったと思う。それほどまでに彼らの中で「シルバーキャッスル」である自分というアイデンティティが確固たるものであったとしても不思議ではない。だから彼ら自身は「シルバーキャッスル」を敵としては認識していない。できていない。
 だが、ブルアーマーが自身の脱退に言いにくさを感じている時点で、彼にとって「シルバーキャッスル」は既に「自らの意志」を阻むものになってしまっている。
 もしジェットセッターから誘われたのがワールドツアー優勝前であったら、ブルアーマーはきっと断っただろうと思う。それは、確かにその時はシルバーキャッスルで戦うことがブルアーマーの意志だったからだ。だがワールドツアーが終わり、一つの区切りを迎えたブルアーマーは、新たなステージへと踏み出そうとしていたのだ。
 だがそれに対して、ブルアーマーは前向きになりきれなかった。「シルバーキャッスル」もまた、彼を前向きに送り出すことができなかった。
 それは「シルバーキャッスル」が、UN社によって危機に瀕しているという理由だけではない。かつてのシルバーキャッスルであったなら、たとえどんな状況であろうともその背を押していたはずなのだ。ジェイクやジムや、マグナムエースの時のように。彼らが欠けたらチームとして成り立たなくなってしまうにもかかわらず、かつてのシルバーキャッスルはその決断を肯定していたのだから。
 トップジョイについてはOVAでバスケットボールチームに誘われたり、バスケットボールリーグへの思いが再燃したりしている素振りの描写がないので、全くの僕の想像でしかないのだが、いずれはブルアーマーと同じ状況になっていたのではないかと思う。一度ダークに戻ったトップジョイを、真シルバーキャッスルには「誘えなかった」とマッハウインディは言った。それは、新しい道に進みはじめたトップジョイを止めることができなかったという意味だったのではないだろうか。
 囚われ方には様々ある。キアイリュウケンは、前の二人とは少し違う形で「シルバーキャッスル」に囚われていたように、僕には見えた。
 本編二十六話でただ一人シルバーキャッスルに残ることを選んだリュウケンは、OVAでは真っ先にUNシルバーキャッスルに背を向けている。その後、リュウケンはマッハウインディ率いる真シルバーキャッスルに加わるのだが、その際に彼は「オーナーに頼るんじゃない、自分で守らなきゃいけないんだ。シルバーキャッスルを」と言うのだ。
 オーナーに頼っていたということ、それはルリー銀城がオーナーであったかつての「シルバーキャッスル」に頼っていたということでもあると、僕は解釈している。強い絆で結ばれ、不屈の精神で勝利を掴む、正しき英雄としての、使命を与えてくれる神としての「シルバーキャッスル」を、頼っていたと。
 自由であるには勇気がいる。自由であるということは、全てを自分で決めなくてはならないということだ。自分以外の他の何物も、自分の取るべき行動やあるべき姿を教えてはくれない。自分の言動が正しいのか間違っているのか、誰も教えてはくれない。「自らの意志」を貫くとは、その心細さを常に抱えて生きるということだ。そういう、孤独な戦いだ。
「シルバーキャッスル」の旗下にあれば、「シルバーキャッスル」が自らを定義してくれる。「シルバーキャッスル魂」を持つ者として、自分のあるべき姿、進むべき道を示してくれる。それはしがらみであると同時に拠り所だ。
 変わってしまったシルバーキャッスルに対してどのようにあればよいかを迷ったリュウケンは、ルリーを探しにチームを離れた。それは同時に、かつての「シルバーキャッスル」を探すことでもあったのだろう。ルリーと共に在れば、「シルバーキャッスル」の元に在れば、「シルバーキャッスル」が自分が為すべきこと、あるべき姿を教えてくれるはずだと、そう感じていたのではないだろうか。
 しかしそれは「自らの意志」ではない。それは「シルバーキャッスル」から与えられたものに過ぎない。オーナーに、「シルバーキャッスル」に頼ること―それもまた、しがらみに囚われているということだ。
 そしてOVA最終話『友よまた逢おう』で、マッハウインディもまた言う。「俺、『シルバーキャッスル』という名に甘えていたのかもしれねぇや」と。
 それに対して、マグナムエースは応える。「皆気づかないうちに見失っていた」と。
「絆」という字は「きずな」読み、現代では「人と人とのつながり、結びつき」といった、専ら良い意味で使われる。しかし「絆」のもともとの意味は、馬などの動物を繋いでおく綱のことだそうだ。「絆」を「ほだし」と読めば、「自由に動けないように人の手足にかける鎖や枠」という意味になる(精選版 日本国語大辞典)。
 言葉には多様な意味があり、また時代と共に変化するものであるから、良い意味での使われ方を誤用であると主張するつもりはない。しかし「人と人とのつながり、結びつき」は、時に足枷にもなることを、この言葉は示しているように思う。
「シルバーキャッスル」という絆。それは確かに彼らを結びつけ、世界をも変える力となった。その絆に人々は、ロボットたちは希望を見出した。しかしそれは同時に、彼ら自身を縛るものでもあった。
 それ故に「倒す」必要があったのだ。終わらせる必要があったのだ。彼らが再び、「自らの意志」を貫くために。新しい道を進むために。
 そのためには、自らの手で「シルバーキャッスル」を倒さなければならない。「シルバーキャッスル」は誰かに与えられたものではない。自分たちが築き上げたものだからだ。自分たちが、自分たちの中に築き上げたものだからだ。「シルバーキャッスル」に囚われているのは、他の誰でもない、自分自身だからだ。
 だから、「シルバーキャッスル」が、「シルバーキャッスル」に倒される構図がどうしても必要だった。
 マグナムエースがなぜUNシルバーキャッスルに留まり、何も言わずに従い続けたのか。なぜ有名無実化した「シルバーキャッスル」に固執したのか。それは本編での、時に独断専行にも思えるほどひたすらに自分の信じた道を走り続けたマグナムエースとはまるで違う、違和感すら覚える態度だ。
 僕は、OVAの消極的とも言えるマグナムエースの態度について、敢えてそうあることを選んだのではないかと思っている。マグナムエースはどこかで悟っていたのではないか。「シルバーキャッスル」が、いつしか仲間を、自分を縛り付けるものになっていることを。「自らの意志」を阻むものとなった「シルバーキャッスル」は、倒されなければならないことを。その「シルバーキャッスル」を、自分たちの手で倒さねばならないことを。
 本編において、マグナムエースは「シルバーキャッスル」の物語を始めた張本人である。「シルバーキャッスル」が英雄として、神として祀られる、その道程の起点はマグナムエースだった。そうして彼は「シルバーキャッスル」を率いて戦い、勝利を掴んだ。
 もし仮に、マグナムエースが仲間たちを引き連れて脱退し、全員で真シルバーキャッスルとしてUNシルバーキャッスルを倒していたとしたら、どうなっていただろうか。それは、これまで「シルバーキャッスル」がしてきたことと何も変わらない。「シルバーキャッスル」は再び英雄に、神に戻るだろう。戻るだけだ。
 マグナムエースは分かっていたのではないか。かつての「シルバーキャッスル」を取り戻すのでは意味がないと。自分たちが倒さなければならないのはUNシルバーキャッスルではないと。UN社によって旗を描き変えられても、今なお自分たちの中に聳え続ける銀の城こそを、自分たちの手で終わらせなければならないと。
 しかし同時に、自分が「シルバーキャッスル」の導き手であることを、マグナムエースは知っていた。彼が動くということは「シルバーキャッスル」が動くこと意味すると、彼は知っていた。だが、それでは意味がなかったのだ。
 だから、マグナムエースは選んだのではないか。UNシルバーキャッスルに残ることを。倒される役目を担うことを。
 OVAでは、皆不自然なほどにシルバーキャッスルに固執している。残った者も、脱退した者も等しくだ。しかし二十六話で主要メンバーのほぼ全員が脱退してしまうように、本来、シルバーキャッスルのメンバーは「シルバーキャッスル」というチームに対して驚くほど拘りがなかったはずなのだ。
 OVAで彼らが見せる「シルバーキャッスル」への執着は、ワールドツアーを経て「シルバーキャッスル」が世界の英雄となり、同時に自分たち自身を縛るものとなっていたことの証左ではないか。
 一方で、メンバー一人ひとりもまた、そのことを薄々気づき始めていたのではないだろうか。心のどこかでその「絆」を断ち切らなければならないと、それぞれが自覚し始めていたのではないだろうか。だからこそ、七人それぞれがそれぞれの執着を見せた。執着を打ち砕くために執着した。ある者は去り、ある者は残り、「シルバーキャッスル」に拘り続けた。それを倒すために。それとして倒されるために。
 マッハウインディは初め、「本当のシルバーキャッスル」を取り戻すためにUNシルバーキャッスルを脱退し、「真シルバーキャッスル」を作った。それはかつての「シルバーキャッスル」に固執する行動だ。しかし、OVAでウインディが作り上げた「真シルバーキャッスル」は、かつての「シルバーキャッスル」ではなかった。彼は「本当のシルバーキャッスル」を追い求めながら、実際は全く新しいチームを「作り上げていた」。
 OVA第三話『シルバーの鼓動』に印象的な場面がある。 真シルバーキャッスルとゴールド三兄弟の試合中でのことだ。ゴール前で自分にボールが回ってきたウインディは、チームメイトのワットにパスをする。それに、ゴールドアームは驚きの表情を浮かべた。「なぜ自分でシュートを打たなかったのか」と。
 あの試合でマッハウインディがしていたのは、新しいチームを「育てる」行為だった。そしてそれは、かつてマグナムエースが「シルバーキャッスル」にしていたことだった。
 OVAは、マグナムエースよりもむしろマッハウインディが主人公であるかのような物語だ。それは、マッハウインディがマグナムエースに導かれ、引っ張られる立場を脱し、次世代のリーダーとして羽ばたきだしたことを意味する。彼はかつての「シルバーキャッスル」に固執しながらも、確実に新しいステージへと進みつつあった。
 マッハウインディがUNシルバーキャッスルを倒すと宣言した時、マグナムエースは「がんばれよ」と無言の餞を送る。マグナムエースは、ウインディが既に新たなスタートを切っていることを分かっていたのではないか。
 マグナムはウインディを信じ、託したのではないか。新たなリーダーに、かつての「シルバーキャッスル」を倒す役割を。
 OVA第三話で、真シルバーキャッスルと対峙したゴールドアームは、彼らを見て「昔のシルバーキャッスルにそっくりだぜ」と呟く。ゴールドアームが見たのは、英雄としての、神としての「シルバーキャッスル」ではない。かつて自らを打ち倒した、「自らの意志」を全力で貫かんとする「シルバーキャッスル」の姿だ。
 マッハウインディは、確かに尊かった「シルバーキャッスル」の絆を糧に、しかしそれをも乗り越えようとしていた。
 一方で、UNシルバーキャッスルに残ったマグナムエース、極十郎太、GZはどうであったか。
 僕はこの三人を、シルバーキャッスルの中で最も死に近い者たちとして捉えている。マグナムエースとGZはかつてアイアンソルジャーであり、戦場で同胞を数多「殺めてきた」共通の過去を持っている。彼らは死を知り、死を司っていた。極十郎太もまた(剣道リーガーではあるものの)真剣を使う。真剣は本質的に命を奪う道具である。真剣を扱うということは、死を扱うということだ。実際十郎太にマグナムエースたちのように同胞の命を奪った過去があるかどうかは分からない。だが、第十二話『遭遇!奴の名はGZ』で敵のロボットを斬ろうとしてマグナムエースに制止されているところから見ても、少なくともその覚悟を持った者であることは間違いない。
 十郎太はシルバーキャッスルの中でもとりわけマグナムエースの盟友的位置付けにある。無論、シルバーキャッスルのメンバーは皆等しく盟友であるが、試合以外の戦闘になった時、マグナムエースは真っ先に十郎太を呼ぶ。十郎太はソルジャーではないが、マグナムエースにとって十郎太はシルバーキャッスルの中でも自分に近い存在―時に死をも扱い得る存在として認識していたはずだ。かつて同じソルジャーであったGZも同様である。そして十郎太とGZもまた、マグナムエースに対する自らの存在をそのように位置付けていたのだろう。
 その三人が、UNシルバーキャッスルに残った。
「シルバーキャッスル」が「シルバーキャッスル」によって倒されなければならないことを、十郎太とGZもまた気づいていたのではないだろうか。しかし同時に、「シルバーキャッスル」の起点であり先導者であるマグナムエースが動けないことも、彼らは知っていた。だから彼らは最後までマグナムエースと共にUNシルバーキャッスルに残ったのではないか。
 彼ら自身がそのように思っていた訳ではないだろうが、彼ら三人、即ち「シルバーキャッスル」の中で死に近い者たちが、倒される―死にゆく「シルバーキャッスル」としての役割を引き受けたのではないか。僕には、そう思えた。
「シルバーキャッスル」が神として臨む試合は、「シルバーキャッスル」の皆にとっても、そして、全てのアイアンリーガーにとっても、「熱い試合」ではなくなっていたのだろう。「アイアンリーガーを磨くのはアイアンリーガーなのだ」という名言があるように、互いに磨きあうのがアイアンリーガーだ。どちらか一方が磨き、磨かれる関係性ではない。だが神格化された「シルバーキャッスル」は、いつしか砥石のような、磨くだけの存在になってしまっていたのではないだろうか。
 それは「自らの意志」を貫くあり方ではない。「シルバーキャッスル」にとっても、それを希望とする全てのアイアンリーガーにとってもだ。
「シルバーキャッスル」は世界に風を巻き起こした。だが世界はもう、その風を受けるだけの段階にはない。「シルバーキャッスル」を起点とするステージは終わった。終わらなければならなかった。これからは、「熱い風」を受け止めた一人ひとりのアイアンリーガーたちが起点となり、自ら風を起こさなければならない。戦っていかねばならない。「自らの意志」で、正々堂々と。
 OVAでルリーが守り続けた「シルバーキャッスル」の旗は、OVA最終話でスタジアムの正面に翻った。その旗は、UNシルバーキャッスルにも、真シルバーキャッスルにも、チームの区別なく―否、もはやスタジアムを越えて、全てのアイアンリーガーたちに等しく掲げられた。あの瞬間、「シルバーキャッスル」の象徴は、「シルバーキャッスル」というチームの象徴ではなくなった。銀光の旗は、全てのアイアンリーガーが「自らの意志」を貫くこと―即ち「アイアンリーガー魂」の象徴となった。
「シルバーキャッスル」の象徴が、シルバーキャッスルというチームの象徴でなくなったということ、それは、「シルバーキャッスル」という、英雄となり、神となったチームの死を意味する。神としての「シルバーキャッスル」というチームは死んだ。マグナムエースたちを繋ぎ、繋ぎ留めていた絆は断ち切られた。
 その死を見届けたマグナムエースは再び力を取り戻す。「自らの意志」を力に、UN社の支配を打ち砕く。そして、再び「熱い試合」へと臨む。
 OVA最終話、真シルバーキャッスルとUNシルバーキャッスルの「どっちを応援するのか」と訊ねたベズベズに対し、ヒロシは答える。「いいじゃんかもう」と。
 そう、もういいのだ。「シルバーキャッスル」というチームも、人間たちの思惑も、最早リーガーたちにはどうでもよいことなのだ。最後の試合は、「シルバーキャッスル」をかけた戦いではなくなった。現人神としての「シルバーキャッスル」は死んだ。死んで、正しく記憶となり、概念となった。ロボットたちの「自ら意志」を貫くという概念として、アイアンリーガーたちの魂に返った。アイアンリーガーたちはその魂で、「熱い試合」を、「最高の試合」を始めた。後はもう、どうだっていいのだ。
「これがある限りシルバーキャッスルは死なない」そう言って銀光の旗を守り続けたルリーは、最後それをスタジアムの正面に掲げた。最後はオーナー自らが「シルバーキャッスル」という神を葬ったのだ。
 試合中、シーナの言葉を聞いて、ルリー自身も気づいたのではないだろうか。自分が守りたかったのは「シルバーキャッスル」というチームではないと。ルリーが守りたかったのは、彼らを神たらしめたもの。たらしめてしまったものだ。その心。その意志。その魂だ。
 それらは、神としての「シルバーキャッスル」が死んでも失われない。死んだからこそ、アイアンリーガーたちを解放する。死んだからこそ、不朽の魂として残り続ける。
「銀光の旗の下に」在るのは、全てのアイアンリーガーだ。
 そしてOVAは終わる。『アイアンリーガー』は終わる。「シルバーキャッスル」はただの一チームに戻り、そのメンバーたちは皆それぞれの新しい道を歩み始めた。多くはチームを離れていったが、それを語るルリーの口調は実にあっけらかんとしていた。ルリーも、メンバーも、皆がそれぞれの形で、あれほど必死でシルバーキャッスルを守ろうとしたにもかかわらず。
 そして、とうとうサッカーチームとしての人数が揃わなくなってしまったにもかかわらず。
 繰り返そう。「これが『シルバーキャッスル』だ」。
『アイアンリーガー』のOVAは、非常によくできた続編だと思う。『アイアンリーガー』の物語は本編できれいに完結している。故にOVAはあくまでも補足である。たとえOVAを観なかったとしても『アイアンリーガー』の何たるかを知ることはできる。「正々堂々と戦うっていう本当の意味」は、本編で十分語り尽くされている。「自らの意志」を貫くとはどういうことか。それに対する「敵」がいかなるものか。それらは本編さえ見れば十分読み取れる。多くは自ら収入を得る手段を持たない子どもたちに向けたアニメとして、とても良心的な姿勢だ。
 その上で、OVAは補足として、更に僕たちに突きつける。「自らの意志」の敵は、自分たちが拠り所としてきたものでさえもなり得るということを。「自らの意志」を貫くために戦ってきた、その力の源でさえも敵になり得るということを。
『アイアンリーガー』は「自らの意志」を何よりも尊ぶ。そして、それを阻むものは何であれ敵として描く。集団やイデオロギーはもちろん、たとえそれが善であっても、正義であっても、自らの拠り所であってもだ。『アイアンリーガー』はそれら全ての「自らの意志」を阻むものとの戦いの物語だ。しつこいようだが、『アイアンリーガー』がしつこくそれを描くのだから仕方がない。それは第一話からOVA最終話まで揺らぐことのない、この作品の主題であり核心であると、僕は思っている。
 なぜしつこく描くのか。それは、その「戦い」がとても険しいものであるからだ。その「戦い」は孤独であり、限りがない。たとえ一度勝利を掴んでも、「戦い」は終わらない。ダークスポーツ財団が敵でなくなっても、それに代わってUN社がロボットたちの意志を阻み始めた。かつて拠り所であった「シルバーキャッスル」でさえも、遂には「敵」となった。
 そしてOVAの後、新しい道を歩み始めた者たちは、それぞれの道でまた「自らの意志」を阻む新たな敵に出会い、それと「戦い」続けるだろう。生きる限り、限りなく。
 そのように、OVAは最高の形で補足した。

自らの意志


 そもそも「自らの意志」とは何なのか。僕は本当に「自らの意志」を持っているのだろうか。
 僕が今『アイアンリーガー』を布教してる知人が、トップジョイのことを「赤ちゃん」と呼んだことがある。第九話『ストリートバスケの罠』を観ていた時だ。その時のトップジョイは「お客さんを喜ばせるのがアイアンリーガー」だと「教えられ」、それを信じて観客が求めるラフプレイを行った。そして傷つきながらも自分を助けようとするマグナムエースたちのことを「理解できない」と口にした。
 その後、第十一話『暴走のフィールド』ではS―XXXが登場する。XXXはそれまでのアイアンリーガーたちとは違い、心を持たないロボットとして登場した。彼はアイアンソルジャーという兵器として、人間の命令のままに破壊の限りを尽くす。
 話は少し飛ぶが、OVAで登場するギャレットもまた、アイアンソルジャーとして開発されたロボットだ。彼もまた相手を破壊するという任務に忠実であろうとし、心や感情といったものを否定する。
 彼らのそうした在り方は、一種の純粋さだ。彼らは心や感情、「自らの意志」を持たず、人間によってプログラムされた思考や価値観を忠実に反映した行動を取る。彼らのその姿は、自我が未発達の、まさに「赤ちゃん」と同じであるとも言える。
 そして、彼らはそこから、徐々に自我を―「自らの意志」を獲得していく。
 トップジョイは自分の本当に欲しかったものに気づく。S―XXXはマグナムエースの必死の呼びかけに対して、僅かに迷いを見せた。ギャレットは、アイアンリーガーとは何なのかを「知りたい」と望むようになる。それはまさに、「赤ちゃん」であった彼らが自我を獲得する兆しだ。
 しかし、その時僕は思った。彼らのその姿を感慨深く眺めている僕は、果たして本当に自我を、「自らの意志」を持っているのだろうか、と。
 僕は世間では大人に分類される年齢である。中年と呼ぶにはまだ少し早いだろうが、社会人となってからそれなりの時間は経過している。今更自分に自我があるかどうかなど『アイアンリーガー』を観るまでは気にも留めなかったし、それまでの人生でも考えたことはなかった。自分は自分の価値観を持ち、自分の思考を持ち、「自らの意志」を持っていると信じ込んでいた。
 しかし『アイアンリーガー』を観て、僕は思った。元々備わった性能、与えられた役割、定められた運命、あるいは、正義に基づく使命、拠り所であったはずの絆―そうした、善も悪も含めた数多のしがらみに囚われながらも、それを乗り越え、「自らの意志」を見出し、貫こうと戦うロボットたちを観て、思ったのだ。僕が自分自身の価値観や意思だと思っていたものは、社会常識や規範、時代の要請、会社や家庭での役割、「大人」としての責任やプライド、そういうものから与えられた―「プログラムされた」ものだったのではないかと。
 僕が真に自分の心で感じ、考え、判断したことが、果たしてどれだけあったのだろうか。トップジョイやS―XXX、ギャレットたちと比べて、僕の方が自我を獲得していると、どうして言うことができるのだろうか。
 この文章を書きながら、茨木のり子の『自分の感受性くらい』を思い出した。「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」で結ばれる、あまりにも有名な詩だ。僕はこの詩と『アイアンリーガー』で描かれたものを重ねずにはいられない。
 俄か知識だが、茨木のり子はこの詩の原体験として、戦時中、一億玉砕の旗印の元に、皆が戦争を賛美する風潮に対して、自分が確かに感じていたはずの違和感を押し込めてしまったことを挙げているそうだ。「ばかものよ」という鋭利な言葉は、詩の受け取り手に対してのみならず、当時の自分自身に向けたものでもあるのだろう。
 この詩が突き刺すような言葉で綴られているのは、「自分の感受性」を守るのが、それほどまでに困難なことであるからだ。「自分の感受性ぐらい 自分で守れ」―自分を見失うな。それは社会や時代、あるいは他の誰かの価値基準に依らず、自らの心、自らの意志を見定め、全うせよということだ。「正直に生きる」こと。「思う通りに」やること。何物からも自由になること。それはつまり、自分の心、自分の意志、自分の判断、それによる一切の責任を自分で負うということだ。それがどれほど孤独で厳しい戦いであるか。戦時中、違和感を抱きつつもそれを口にできなかった茨木のり子を、あるいは誰一人味方のいないスタジアムで罵声を浴びながら戦い続けたシルバーキャッスルを、ワールドツアー編で自らの使命に囚われたマグナムエースを、そして拠り所でありながら敵となった「シルバーキャッスル」を思えば、想像に難くない。
 OVAのところでも述べたが、自由には覚悟が必要だ。社会常識に則っていれば批判を受けることはない。他人のために自分を犠牲にすれば、誰かが称賛してくれる。社会のために。誰かのために。正義のために。そうした動機は、しかし時に言い訳になる。「自分ではない誰かの為に行動するのは尊いことだ」という世間一般の価値基準で、自分の行為を正当化することでもあるからだ。誰かに自分を正しいと言ってほしい。その為に僕は常識に依り、規範に従い、正義を探す。それがたとえ「自らの意志」を阻むものであったとしても。
 僕は別に、社会常識や規範、正義や法といったものを糾弾したい訳ではない。それらは長い歴史の中で、人間が数多の犠牲を払いながらも積み上げてきた平和への祈りである。一人ひとりの命を守り、個を守り、意志を守り、幸せを実現しようと築き続けてきた祈りの結晶である。それは間違いなく尊いものであると、僕は思っている。
 しかし、いくらそれが尊く、正しいものであったとしても、それは「自らの意志」ではない。
 常識や正義もまた絶対でないことは、様々な学問、様々なコンテンツで何度も指摘されてきたことだ。それなりに社会経験も積めば、実体験もあろう。「絶対的な正義などない」ことなど今更言われるまでもないと、多くの人が思うだろう。
 しかし、本当に僕はそれを分かっているだろうか? 生きている中で「常識的に考えて」「普通に考えて」そうした言葉を使って他者を批判していなかっただろうか? 他者の批判を恐れて、言いたいことを飲み込んだことはなかっただろうか? 大人だから、社会人だから、この職に就いているから、上司だから、部下だから、家族だから、友だから、「こうあるべき」「こう生きるべき」と、自らに課したことはなかっただろうか?
 それは悪であるとは限らない。常識、規範、役割、そしてそれによる使命。その根底にあるのは他者への思いやりだ。自分ではない誰かを守りたい。自分ではない誰かをも幸せにしたい。それは愛であり、人間が持つ可能性だ。
しかし『アイアンリーガー』を観て、僕は知った。そうした善なるものですら、「自ら意志」の前ではしがらみになり得ることを。『アイアンリーガー』を観た僕は気づいた。それに「甘えていた」僕を。常識、規範、法、公、正義、絆、愛―それらが人の意志を定め、制限する時。それらに人が縋る時。それらは、OVAで葬られた「シルバーキャッスル」となるのではないか。
 僕は本当に、自分自身の心で感じ、考えていただろうか。僕は本当に「自らの意志」で日々を生きているだろうか。
 繰り返すが、僕は法や正義を無視して好き勝手生きろと言うつもりはないし、常日頃から自分のあらゆる行動、あらゆる判断、あらゆる感情について思考を巡らしてゼロから考え直せと言うつもりもない。そんなことをしようとしたら、人間は呼吸すらもできなくなってしまう。だから人間はある程度、定められた法や規範、常識に従って生きる。意識にも上らないうちに正しく生きられるようにプログラミングされる。そうして達成されているのが今の平和だ。無論、世界が遍く平和である訳ではないが、少なくとも今僕が暖かい部屋で、何の不安もなくこんな文章を延々と書き連ねているだけの平和は確かにここに存在する。この平和を、自由を作り出したのは、数多の世代に渡って試行錯誤されてきた法や正義であり、それに従って生きる一人ひとりだ。
 しかしそれでも、それは全てではない。絶対ではない。なぜなら、それらは「自らの意志」を阻むものでもあるからだ。誰もの「個」を認め、自由を保障するために、それらは必然的に「個」を封じ込める性質を持っているからだ。
 それでも良い、という考え方もあろう。法や正義といったものが絶対ではなく、時には暫定解に過ぎなかったとしても、長い歴史をかけて磨かれた、少なくとも今は最善であるものにプログラムされ、ロボットのように生きることは、ちっぽけな個人の思考の果てに導き出された結論に従って生きるよりも安全で、正しいのではないか。そういう、とても優しい考え方が。
 僕はそれに異を唱えることはできない。僕自身が、数多の犠牲の果てに築き上げられた正義を、そしてそれによって達成されているこの日常を価値あるものだと思っているからだ。無限の盤上で繰り広げられる終わりのない戦いに、それでも絶望せずに平和を希求し続け、今もなおより良い世界のために戦う人々の祈りの結晶を、尊いものだと信じているからだ。
 しかし、一方で思う。ロボットのように生きる。それで、人は本当に幸せになれるのだろうか、と。
 使命も、正義も、自分を幸せにはしてくれない。自分の意志を、心を知ることができるのは自分だけだからだ。自分を幸せにできるのは自分だけだからだ。他者は正しいか正しくないかを判断することはできる。しかし、自分が本当はどう思っているのかを知ることはできない。自分にとって何が幸せなのかを知ることはできない。自分でさえ、それを知ることは困難であるのだから。ワールドツアー編で自分を見失ってしまったマグナムエースのように。
 第四十五話『打ち砕かれた魔球』で十郎太に止めれられることなく、マグナムエースがあのまま突き進んでいたとしたら、きっと取り返しのつかないことになっていた。マグナムエースが負った使命は、正義は、正しいことだった。優しいものだった。それは誰に負わされたものでもなく、マグナムエース自身が自らに定めたものだった。それでも、それはマグナムエースの本当の望み、本当の「欲求」ではなかった。それはマグナムエースに破滅をもたらそうとしていた。それはマグナムエースを幸せにはしてくれなかった。
『アイアンリーガー』とは何か。『アイアンリーガー』の主題は何か。その問いに答えるのが難しいのは、物語を前へと進める原動力である主人公の「欲求」が、最後まで姿を現さないからだ。
 第一話、「正直に生きろ」とマグナムエースは言う。しかしその言葉は、ワールドツアー編で自らに返ってくる。正直に生きるのがいかに難しいことであるかを、マグナムエース自身が思い知ることになる。自分の心の「答え」を知ることは、容易いことではないのだ。
『ONE PIECE』における主人公ルフィの「欲求」は明確だ。「ひとつなぎの大秘宝」を見つける。海賊王になる。物語が千話を超えてもなお、その「欲求」は少しも揺らがない。
『鬼滅の刃』における主人公炭治郎の「欲求」も一貫している。全ての鬼の根源である鬼舞辻無惨を倒し、鬼になってしまった妹の禰󠄀豆子を人間に戻すことだ。それもまた、物語の完結まで貫かれている。
 もちろん、この二作の主人公も、時には迷い、立ち止まることもある。だがそれはあくまで一時的なものだ。物語の序盤から最後まで、そして彼らが迷い立ち止まっている間も、受け手である僕は主人公たちの「欲求」を明確に視ることができる。だからこそ物語に一貫性が生まる。ぶれることのない「欲求」――あるいは信念と呼ぶべきもの――は物語を前へ前へと押し進め、僕たちはそれを夢中になって追いかける。
 しかし『アイアンリーガー』では、本編の終盤まで主人公マグナムエースの本当の「欲求」は何なのかが分からない。「正義」や「使命」のようでもあるし、しかし純粋にスポーツを楽しんでいるだけのようにも見える。本編第二十四話と第二十五話でマグナムエースの答えが異なるように、主人公でさえその正体を分かっていない。それこそ、OVA最終話まで迷っている。「結局マグナムエースは何をしたいのだろう?」と、視聴しながらふと思った人は、実は多いのではないだろうか。
 普通、主人公の「欲求」が明確でない作品は物語の切実さや推進力に欠け、エンターテイメントとしての魅力は薄いとされている。しかし『アイアンリーガー』の――マグナムエースさながらの――ゴリ押しとも言える怒涛の展開は、物語の重要な要素であるはずの主人公の「欲求」すらも置き去りにして、視聴者をぐいぐいと引き込んで離さない。これが『アイアンリーガー』の面白い点であり、厄介なところである。
 結局のところ、マグナムエースの「欲求」は、容易には分からないだけで、確かに存在していたのだろう。『ONE PIECE』や『鬼滅の刃』と同様、それは強烈な推進力で主人公を突き動かし、物語を前へ前へと押し進めていたのだろう。
 先ほど、マグナムエースの「欲求」は終盤まで見えてこないと述べた。しかし、本当は違う。マグナムエースの「欲求」は、第一話から確かに姿を見せているのだ。
 第一話、野球のグラブをはめてゴールドフットのシュートを止めたマグナムエースの顔は、本当に楽しそうだった。あの時のマグナムエースの顔は「アイアンリーグに正義の心を取り戻す」という使命を負った顔ではない。ただただ、スポーツが楽しい。それだけの顔だった。
 その後も、全力でスポーツをしている時のマグナムエースの顔は眩しいほどに晴れやかだ。マグナムエースの本当の「欲求」は、実は初めから終わりまでずっと提示されていたのだ。
 しかし『アイアンリーガー』の世界の闇が明るみになるにつれ、その「欲求」が、ロボットたちを救うこと、悪を打ち砕くことであると、いつしか取り違えるようになる。僕も、マグナムエース自身もだ。僕も、マグナムエースも、使命に囚われた。そして、本当の「欲求」が視えなくなっていた。
 だが、マグナムエースの「欲求」は、前述したとおりだ。「熱い試合」をしたい。それは、OVA最終話でもブルアーマーが言葉にしてくれている。「俺は皆と試合をするのが楽しいんだ」「それが、一番」と。マグナムエースの、そしてアイアンリーガーたちの「欲求」―それはただ「熱い試合」をしたいに尽きる。そしてそれは、ずっと僕たちの目の前にあった。
 試合には仲間と相手が必要だ。だからマグナムエースたちは仲間を集め、敵とも絆を紡ぐ。マグナムエースやシルバーキャッスルがラフプレイを厭うのは、それが悪だからではない。ソルジャーとして戦場に送られるリーガーたちを救おうとするのは、それが正義だからではない。ラフプレイや戦争のような相手を破壊してしまう行為は、「熱い試合」に不可欠な仲間や試合相手を失ってしまうことだからだ。だから彼らはそれを敵と見なす。そしてその敵には、それに拠ることで自分自身を破壊しかねない「使命」もまた含まれる。「熱い試合」―即ち純粋なスポーツとしての戦い―を妨げる「絆」も含まれる。悪も善も拠り所も、「熱い試合」の障害となるならば等しく敵となる。それが『アイアンリーガー』という物語だ。
 畢竟、『疾風!アイアンリーガー』とは、マグナムエースの壮大な「磯野、野球しようぜ」の物語である。『アイアンリーガー』で描かれたのは勧善懲悪の物語ではない。人間の醜さではない。仲間や絆の大切さでもない。そこに描かれているのは、アイアンリーガーたちの「熱い試合」に向ける、ただひたすらに純粋な狂気だけである。

再び「限りなき使命」


 これまで散々、正義や使命といったものは「自らの意志」を阻むものになり得ると述べてきた。だがそれは、それらが二項対立の関係にあるということを意味している訳ではない。「自らの意志」と正義や使命といったイデオロギーは複雑に入り組んでいる。正義や使命に突き動かされ、それが「自らの意志」を貫くことに繋がることもあるだろう。
 マグナムエースたちの「正義」も、初めはそうだったのだ。先ほど、マグナムエースたちは「熱い試合」のためにロボットたちを救おうとしたと書いた。だが、彼らのそうした行動は、決してそういう実利主義的な動機だけによるものではない。彼らのその行動は、相手が自分たちの仲間、もしくは敵になるかどうかにかかわらず、ただ目の前で困っている者を助けたいという、無償の隣人愛とも呼ぶべきものからも確かに引き起こされている。その愛、その正義もまた、時には「自らの意志」となる。それらが存在するのもまた自分の心だからだ。そしてそれは「熱い試合」をしたいという意志とも矛盾しない。
 もしかしたら、第二十五話で「ロボットたちを救うため」に戦場から戻って来たと宣言したマグナムエースは、自分を見失っていたとまでは言えないのかもしれない。あの時点では「ロボットたちを救う」という欲求も、「熱い試合」をしたいという欲求も、対立してはいなかった。その二つの欲求は確かにマグナムエースの中に存在し、その二つともが本当の欲求だったのかもしれない。
 人の心はとても複雑なものだ。「自らの意志」は一つには絞られない。心には常に複数の意志が同時に存在する。それらは同調することもあれば、矛盾することもある。初め同調していた意志も、時と場合が変われば矛盾することもある。初めは本当に「自らの意志」だったものも、時と場合が変わればしがらみに変わることもある。「自らの意志」に絶対的な解はない。だからこそ、本当の「自らの意志」が何なのかを見出すことは困難なのだ。その時、その場所で、何が「本当」なのか。何が「自らの意志」なのか。その答えを出すことは容易ではない。
 前に、「正義」や「使命」という言葉を使う主題歌の歌詞に違和感があると述べた。だがこの主題歌はそれでもなお名曲である。もしかしたら、それ故にこそ名曲なのかもしれない。その歌詞は一見勧善懲悪のようだが、一方で「信じた道を走り続けろ」「今、真実の夢つかむまで」という、「自らの意志」を歌う箇所もしっかりとあるのだ。正義や使命と「自らの意志」は共存しうる。もっと言えば、同じであることもある。故に厄介でもあるのだ。『アイアンリーガー』はその宿命をも描いている。「自らの意志」を見出すこともまた終わりなき「戦い」である。主題歌は、それを象徴しているのかもしれない。

正直に生きた『疾風!アイアンリーガー』


『アイアンリーガー』を観ていると、自分がいかに常識に囚われているかがよく分かる。視聴しながらたびたび頭を過る「そうはならんやろ」は、言ってみれば大人の常識、固定観念が呟いている言葉だ。別にロボットが心を持っていたっていいし、きょうだいがいたっていいし、絆のパワーで性能限界を超えたっていい。野球のグローブをはめてサッカーしたっていいし、海で野球をしたっていいし、剣の道がバッターボックスにあったっていい。ロボットがプロチームと契約交渉したっていいし、砂になったロボットが復活したっていい。もしかしたら、未来ではそれが現実になっているかもしれない。
 子ども向けアニメだからというのもあるのだろうが、『アイアンリーガー』の伸びやかで自由な発想は、観ていてとても心地よい。『アイアンリーガー』を観ている時、僕は地平線まで見渡せる大草原に立ったような気分になる。遮るもののない青空の下、大きく息を吸い込んだような、そんな気分に。
『アイアンリーガー』には、ジェンダーや文化、年齢や経験、あるいは命の有無といった線引きがほとんどない。ロボットたちに課せられた運命は残酷であるが、それでもこのアニメの根底に流れているものは、しがらみに囚われない、限りない自由さだ。『アイアンリーガー』に感じる息のしやすさは、そうした価値観によるものなのだろう。
 ひたすらに自由な『アイアンリーガー』だが、それを作ったのは大人たちである。しがらみも多くあったに違いない。作中ではキャラクターたちが恥ずかしげもなく「友情」だの「絆」だのと口にするが、『アイアンリーガー』の制作陣も同じであったかというと、実はそうでもなかったらしい。「青臭いことを言うな」と、他でもない『アイアンリーガー』の中でファイタースピリッツも口にしているが、当時の公式ガイドブックや雑誌にも(時代性もあろうが)、「歯が浮く台詞」「暑苦しい」などという言葉が堂々と書かれている。制作側にも自覚はあったらしいのだ。
 あくまでもレポートなので真偽は不明だが、声優陣も苦労したようで、僕たちが『アイアンリーガー』を観ながら抱く若干の気恥ずかしさと同じようなものを感じているようなエピソードも描かれていた。僕たちは聞いているだけだが、声優陣はそれを大声で、しかも大真面目に叫ばなければならないのだから、その抵抗は僕らとは比較にならないだろう(とは言え、もちろん作中ではそんなことなど微塵も感じさせないのだから、やはり役者はすごい)。
 制作陣にも、大人としての常識や良識というしがらみはあった。しかし、彼らはそれでも『アイアンリーガー』を作った。
『アイアンリーガー』がなぜこんなにも僕の心を熱くするのか。それは『アイアンリーガー』の制作陣が、自分の「思う通りに」、好きなことを好きなようにしたからではないか。「正直に生きろ」「お前の思う通りにやりなさい」。作中の言葉を、彼らは行動でも示した。
 アイアンリーガーたちのように。
 きっと僕は、その「アイアンリーガー魂」に胸を打たれたのだ。シルバーキャッスルの姿を目の当たりにした、『アイアンリーガー』の世界に生きる者たちのように。
 細かな理屈も、理性も恥も外聞も、社会性も常識も固定観念も、善悪すらも後回しにして、ぼくのかんがえたさいきょうのカッコよさを形にした。それがきっと『アイアンリーガー』というアニメなのだ。
 しがらみに囚われた僕は、『アイアンリーガー』を観ながら「そうはならんやろ」と笑っていた。しかし笑っているうちに、いつしか僕のオイルも沸騰していた。シルバーキャッスルを嗤っていた観客たちのように。ロボットたちの心を認めなかったギロチやセーガルやシーナのように。
 僕は気づいたのだ。僕は童心に返っていたのではないと。僕は子どもの頃を懐かしんでいたのではないと。僕は今でも、なんかカッコいい感じの横文字をこれでもかと羅列した必殺技が大好きだし、友情とか絆とかいう綺麗事が大好きだし、かつて敵だった者が主人公のピンチに駆けつける王道の展開が大好きなのだ。
 おかしな話だが、『アイアンリーガー』を観ながら、僕は自分に「心」があることを初めて知覚した。概念としてではなく、「心」が、何か質量を持った物体のように、自分の体内にあるような感覚を持った。もちろんそれは触ることはできず、目に見えず、音も聞こえない。けれど確かに存在している。身体の奥深くからマグマのように込み上げてくるこの熱が、その存在を僕に知らしめる。
 だが僕は、この全身を駆け巡る激情を語る言葉を持たない。
 OVAの最終話、「アイアンリーガー魂」を目の当たりにしたギャレットは、自らの中を駆け巡る何かよく分からない奔流に戸惑い、スタジアムの天井を突き抜けた後に錐揉み回転しながら墜落していった。
 あれは『アイアンリーガー』に狂っている僕の姿だった。
 ロボットたちの心を理解できず、冷笑していたシーナもまた、僕だ。だがシーナもやがて彼らの心を認め、受け入れていく。そして戦いに傷ついていくロボットたちの姿に「耐えられない」と目を背けた。それは、ロボットたちの心を(慣れという形で)受け入れ、しがらみを一つ乗り越えた僕が、第十一話でS―XXXの死に耐え切れず膝をついた時の姿だった。そして、シーナに向けて放たれた「まだ試合は終わってないのよ。ちゃんと見ていなさい!」というルリーの叱咤は、僕に『アイアンリーガー』を教えてくれた先達が、その時の僕に言ってくれた言葉だった。
『アイアンリーガー』というアニメそのものが、一つの「戦い」であった。『アイアンリーガー』の制作陣は、ラフプレイが常識とされる世界でフェアプレイを貫くシルバーキャッスルだった。僕はそのひたむきさに胸を打たれた。作中のアイアンリーガーや人間たちのように。『アイアンリーガー』は、僕にも等しく「アイアンリーガー魂」を呼び覚ました。
『アイアンリーガー』は、視聴者を傍観者にしておくことを許さない。
「自らの意志」を貫くこと、それは戦いである。『アイアンリーガー』はその「戦い」の厳しさを執拗に描く。
『アイアンリーガー』のロボットたちは心を持ち、人間と同じように生活し、スポーツをしている。ほとんど人間と変わらない。『アイアンリーガー』を観ながら、「これロボットである必要あるか?」と思った人は多いのではないだろうか。
 だが全編を通して観て、やはり僕はこのアニメの主人公はロボットでなければならなかったと思っている。僕たちは「自らの意志」を貫こうと、あるいは「自らの意志」を獲得し、取り戻そうと戦うロボットたちを観て、その厳しさを、その難しさを知る。人間の都合で生産され、改造され、廃棄される運命を負ったロボットたちは、あらゆるしがらみの中で生きている僕たちの暗喩だ。自らの存在を生産性で評価され、その評価が存在可否に直結するロボットたちは、まさにそうやって労働市場で、あるいは社会のあらゆるところで順位づけられる僕たちの姿だ。人間の都合に沿うようプログラミングされ、自我や「自らの意志」を持たないロボットたちは、良き社会人となるよう常識や固定観念や、あるいは「正義」や「絆」をプログラミングされた僕たちと同じだ。
 工業製品であるロボットたちがそうした運命を負っているのは、本来当然のことだ。僕が初め、心を持つロボットたちの物語をむちゃくちゃだと感じたように(なお、今も思っている)。
 だが、それが当然であるはずのロボットたちは、それを乗り越えていく。本来あるはずのないとされた、必要ないものとされた、その「心」で。
 だから僕たちもまた、そうあれる可能性を持っている。
『アイアンリーガー』が根性論なのは、その主題が「自らの意志」を貫く戦いだからだ。その戦いに挑めるのは心だけだ。だから心が力の源になり、心が勝利を引き寄せる。
 だがその根性論は、「置かれた環境に文句を言わずにがんばれ」ということではない。『アイアンリーガー』の根性論は、「あらゆる手段を尽くして『自らの意志』を全うせよ」ということだ。あらゆる手段である。それには仲間を置き去りにすることも、善悪を二の次にすることも含まれる。今まで自分を支え、自分を守り、自分が愛し、拠り所としてきたものを捨て、時に倒すことすら含まれる。共同体も、正義も、絆も、『アイアンリーガー』は徹底的に相対化する。
 あるいはそれは、旧来の根性論よりも厳しいものかもしれない。それは航路なき航海である。船には自分しか乗っていない。答えは自分の中にしかない。
 それでも、もう風は吹いてしまった。帆は風を受け、既に海原を進み始めている。
 かつて「シルバーキャッスル」だった者たちは、OVAの最後にそれぞれの道を選んでいった。そうして『疾風!アイアンリーガー』は終わる。俺らは好きにした。君らも「好きにしなさい」と。
 そして今、僕は考えている。僕の意志とは、一体何なのだろうと。

希望に満ちた物語

『アイアンリーガー』は、ハッピーエンドで幕を下ろす。アイアンリーガーたちが善悪や正義すらも二の次にして、それぞれがただ「自らの意志」を第一にした結果、そこにあったのは対立や果てのない闘争ではなかった。彼らは「自らの意志」というエゴイズムを追求する戦いに勝利し、その勝利は、新しい道を、新しい世界を生んだ。
 OVA最終話で、GZは「本当の『戦い』とは、破壊することじゃない。『戦い』とは、そこから何かを生み出すことだ」と、ギャレットに言う。心を、意志を持つ者皆が「正直に生き」、皆が幸せを追い求めることは可能であると、『アイアンリーガー』は言う。自らの意志を貫く「戦い」は、決してゼロサムゲームではないのだと、『アイアンリーガー』は描く。
 それは奇跡であるのだろう。現実はそう上手くはいかないし、綺麗事ばかりでは成り立たない。人類は相互理解を深めるどころか、その分断は深くなっていくばかりのように思える。
 だが『アイアンリーガー』の物語は全くの虚構ではない。あり得るかもしれない奇跡であり、そして、世界のどこかで現実に起こっている奇跡だ。対立していた者たちが手を取り合い、しがらみを乗り越えて「自らの意志」を貫く。それは確かに世界のどこかで起こっている。対立する利害から互いが幸せになる方法を模索し、妥協とは違う形でそれを実現した者たちは確かにいるのだ。
 しかし、奇跡は必ずしも希望であるとは限らない。奇跡の存在は必然的に、無数の「起こらなかった奇跡」を証明する。
 ギャレットは自らの心に気づき、「新しい道」を歩み始めた。
 しかし、S―XXXにそれは叶わなかった。
 S―XXXのように、あるいはスーパーヘッドのように、数多のロボットたちが道半ばで命を落とした。新しい道に気づけなかった者。気づきかけても進めなかった者。踏み出しながらも道半ばで倒れた者。道を奪われた者。彼らに「代わりのリーガーなどいない」。彼らは掛け替えのない存在だ。僕たちと同じように。それでも―だからこそ、彼らはもう二度と戻らない。
 周りの人に支えられ、僕は今もまだ生きている。生きていられている。けれどこの世界にはそうできなかった人もいる。
『アイアンリーガー』でも、この世界でも、それは変わらない。
 それでも『アイアンリーガー』は前を向く。人々が、破壊ではなく何かを生み出す「戦い」を求めるようになったように、新しい道に進む世界を描く。『アイアンリーガー』は失われていった者たちを振り返らない。一つ所に留まらぬ風のように、ただひたすらに先へと進んでいく。
 それは、僕たちの世界もまた同じなのかもしれない。歴史はきっと、そうやって紡がれてきたのだ。数多の犠牲を置いて、前へと進んできたのだ。
 そして、その『アイアンリーガー』というアニメが、三十年近い時を経た今もなお、多くの人々に愛されているのだ。
 僕もまた、起こらなかった奇跡を置いて、今日を明日に向かって生きている。
『疾風!アイアンリーガー』は、そういう、残酷で希望に満ちた物語だ。

俺のオイルが沸騰するぜ!


 長々と文章を続けてきた。しかし、これほどまでに言葉を費やしても、どれほど理屈を並べ立てても、それらは『アイアンリーガー』が名作であることの証にはならない。僕が書き連ねたこの冗長な文章は、『アイアンリーガー』が名作である理由の説明には全くならない。この文章はただ、僕が『アイアンリーガー』の沼に溺れている情景を描写しているに過ぎない。
『アイアンリーガー』が名作である証はただ一つ、観る者の沸騰するオイルだけだ。
 それでも、僕はこの文章を書いている。「お前の思う通りにやりなさい」。その言葉に従って、この無意味な文章を年まで跨いで書き続けている。書くことは誠に苦しく辛い。自分の無知と無能さを思い知らされながら、一向に繋がらない思考の断片を組み立てては壊し続ける、賽の河原のような苦行だ。
 それでも僕は書いている。それが、あらゆるしがらみに囚われた僕の、数少ない「自らの意志」だからだ。僕が『アイアンリーガー』から感じたもの、見出したものを一つの形にしたい。この文章が、僕がアイアンリーガーたちから受け取った熱の形だ。
 そして、これを以って『疾風!アイアンリーガー』に関わった全ての方々への謝辞とさせていただきたい。文章の中身はどうでもよく、ただ、この令和の時代に『アイアンリーガー』について、全く無意味な文章をこの長さで書き連ねる人間が一人、確かにここに存在するというその事実だけを以って、このアニメに出会えたことへの感謝を示させていただきたい。
 生きている間に、このアニメに出会えてよかった。このアニメを知らないままに死ななくてよかった。
 生きていてよかった。
 ありがとう、アイアンリーガーのみんな。
『疾風!アイアンリーガー』が末永く受け継がれ、これからも多くの人のオイルを沸騰させていくことを、心より願っている。


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