【文字起こし・前編】荻上チキSession 22 【特集】植松聖・被告に死刑判決。私たちはこの事件をどう受け止めればいいのか?

■スタジオ 相模原事件の裁判を傍聴しているノンフィクションライターの渡辺一史(わたなべ かずふみ)さん

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発信型ニュース・プロジェクト 荻上チキ Session 22 TBSラジオステーションに荻上チキ(O)と南部広美(N)が生放送でお送りしています。


ここからは特集メインセッション 今夜のテーマはこちらです。

『探求モード』相模原事件の植松聖・被告に死刑判決。改めて今、私たちはこの事件をどう受け止めればいいのか。

N: 2016年神奈川県相模原市の障害者施設津久井やまゆり園で19人を殺害し26人に重軽傷を負わせたとして殺人などの罪に問われた植松聖・被告に横浜地裁は求刑通り死刑を言い渡しました。判決を前に植松被告は TBS などの取材に対し、「被害者家族に対して反省ではなく申し訳ないなという気持ち」と述べましたが、「死刑になる犯罪だとは思っていない」などと最後まで障害者への差別的な主張を改めることはありませんでした。事件後様々な団体から障害者の命を差別的な主張で奪った植松被告を非難し、その主張・考えに反対するメッセージが出されましたが、3年以上が経った今なお匿名のネット掲示板や SNS などには植松被告の主張に共感する声も見受けられ、事件が残した傷は生々しく社会に刻まれています。今夜は一連の裁判の傍聴を続け植松被告と接見したこともあるのノンフィクションライターの渡辺一史さん(W)と共に今改めてこの事件をどう受け止める必要があるのか考えていきたいと思います。ではご紹介します。ノンフィクションライターで難病筋ジストロフィーの患者とボランティアを取材した著書『こんな夜更けにバナナかよ』でも知られる渡辺一史さんです。よろしくお願いいたします。


W: 宜しくお願いいたします。

O: 宜しくお願いします。さてまず今日、判決の裁判があったということですけれども、渡辺さん、傍聴はしようと思って並びはしたわけですよね?

W: そう、並んだんですが、残念ながら凄い倍率で傍聴することはできませんでした。

O: はい。どういった雰囲気でした、今日の裁判所は。

W: 主にメディア人たちがずっと裁判所の前でたくさんいて、何かあると駆け出してくるっていう、判決ならではの緊迫感がありましたね。

O: 冒頭に判決を読んでからその理由を読むという、格好ではなく、今日は「後回しだ」ということでそれ自体がニュースになるんですね。

W: 「主文は後回し」というものですけどね。

O: そうしたその今日も含めて取材に行っていたわけですけれども、渡辺さんはどうして今回の裁判について注目をして取材、それから傍聴を続けていらっしゃるでしょうか?

W: そもそもの話をすればいいですね。もう20年近いんですけど、2003年に『こんな夜更けにバナナかよ』っていう本を私、出しまして、それはの筋ジストロフィーっていう、先ほどちょっとご紹介いただいたんですけど、重度身体障害者の鹿野さんっていう、映画では大泉洋さんが演じてくださった。本当に個性的な障害者で、非常にあの自分の欲求をもう「あれしろこれしろ」っても本当に人に助けを求めることを厭わない人だったんですね。

で、若いボランティアの人たちが一生懸命支えていて、ボランティアの人たちも、なんとなくイメージではすごく善良で、献身的な若者たちってイメージありますけど、全然普通の子達で、それでもう何回教えても介助がうまくできないから鹿野さんから「もう君は来なくていい」って怒られるぐらいなね。普通の人たちと非常に個性の強い鹿野さんとのバトルというかね。その中で、「支える」と「支えられる」っていうことが固定したものではなくて、ある瞬間に常に逆転しうる関係っていうのを現場でとてもよく目にしたし、そういう鹿野さんっていう捨て身で生きている人を前にして、やっぱり介助っていうのは人間の丸裸の人間をねところがありますので、その若い人たち頼りなかった人たちもどんどん成長していくわけですよね。私もその一人だったんですけど。最初あの取材させてくださいっていうことで、鹿野さんと初めて会って、取材しているうちに、「渡辺さんのところで来週の水曜日空いてないかい?」っていう感じで、「空いてるならボランティア入って」でドンドン巻き込まれていて、私も鹿野さんの介助をすることになって、ほとんどボランティアの一人のような感じで付き合っていくうちに、 やっぱり私自身もすごく成長して、それで本当に結果的に「鹿野さんという重度障害者の方と出会ったことで、今の自分はあるな」って思えるくらい。それは私だけじゃなくて、多くのボランティアが今もそう思って感謝している。

かたや、植松被告は同じ障害者を支援する立場にいたにもかかわらず、3年 2ヶ月、彼の場合は津久井やまゆり園事件起こした施設に勤めていたんですけど。完全にその障害のある人たちの存在を否定する考え方を持ってしまったっていうのはなぜなんだろうな、って。そこになんの違いがあったんだろうなっていうのが、そもそもその植松被告から直接話を聞いてみたいって思ったきっかけですね。で、本を拘置所にいる植松被告に本を送って、手紙のやり取りをして、それで会うようになったんですけどね。

O: 本というのは植松被告は読んだんですかね?

W: はい。読んでくれたみたいなんですが、彼は独特の読み方をするんですよね。色んな面会に行く人が色んな本を、それこそ哲学書、カントだとか、カフカとかですね、アーヴィング・ゴッフマンとかね。分かります?社会学者の。

O: 様々な社会理論を編み出す天才ですよ。

W: そういう小難しい本でも、彼みんな読んじゃうんですよ。普通カントって読めないじゃないですか?

O: まぁね。『永遠平和のために』とかですよね。

W: で、やっぱり、彼なりの理解で、カントならカントを語るんだけど、さっぱりそれはカントとは違うだろ、というようなことを語るんですね。そこはすごく不思議な人なんですよね、思考回路が。『バナナ』に関してもそうでした。

O:それはどんな読みのバイアスがそこにあるんですか?

W:『バナナ』に関しては、彼はこう言うんですよ。「鹿野さんがボランティアの人たちとかと上手くやっていけたのは、肌が綺麗だったからじゃないか。」で、「は?」って(笑)。そんなことどこにも書いていないし。で、彼は脱毛にすごくこだわるんですよね。ま、彼は整形をしているんですけど、非常にあの「容貌コンプレックス」に近い彼は、自分の容貌を。むしろ悪くはないんですよ。彼の整形前の顔を見ても、とても、なんか、かわいい顔をしているし、で、実際女性にもモテテいた。それでも「自分は醜い」という思いを、どこか持っていたりとか。
で、あと、脱毛にすごくこだわるんですよ。彼がよく言うのは「目から下の毛は邪悪なもので、人間には必要ない」と。

O: 鼻毛も?

W: 鼻毛もでしょうね。で、ヒゲは特に。今もだから、初公判の時に、自分で小指を噛んで、ずっとミトンの抑制手袋をされていたので、ヒゲが剃れなくて、それも苦痛でしょうがない、ということを言っていた時期もありました。そういうなんか、病的なのか、まぁ正気なのか狂気なのかが、ちょっとよくわかんないところがあって、それが未だにその彼の人間像っていうのがつかみきれないところなんだけどね。

O: そういう風な読み方をされた時に、著者である渡辺さん自身はどうお感じになりましたか?

W: 「どうしてそういう、何でそう思ったの?」とかっていう話をするんですけど、話がこうやって対話で深まっていくっていうことがなかなかなくって、「いや、そう思ったから」とか「やっぱ人間とって脱毛は必要だから」とかそういう感じですね。それと、『バナナ』でいうと、鹿野さんっていう筋ジスの人が介助している女性に辛く当たって、介助している女性が結構精神的に追い詰められてしまう場面っていうのがあったんですけど。そこは正確に読んでいるんですよ。「結局やっぱり介助って人の時間を奪うものであり、あってはならない。人にとって迷惑なものだ」って。「すごい、そこはちゃんと読んでんだ。」って思ってびっくりしたんですけど。それって自分の意見を正当化、自分の主張を正当化できるようなところだけはちゃんと吸収するのかも知れないですね。

O: ある種の『チェリーピッカー』。

W: そうですね。

O: 要は『チェリーピッキング』という言うとね、自分に良いところだけをつまみ食いして、それ以外のもの全て取り除くっていう。それは本を読むとか対話をするっていうものとまた違う自説を強化するとか、自分にとって居心地のいい空間を作るという別作業なんですけども。そうしたものを、渡辺さんの本でもおやりになったということですね。

W: そうですね。全てがそういう側面がありますね、彼の場合。自分の主張を補強してくれるところは、人と話していても吸収するんだけれども、自分が否定されるような側面になると思うと、本当に分かりやすくシャッターを降ろしてしまう。あるいは本当にイライラを募らせるという場面も多々ありましたね。

O: 『こんな夜更けにバナナかよ』ってこれ、あの、いろんな意味合いの込められたタイトルですよね。それは当然ながら夜更けにバナナが食べたいという当事者に対して、介助者がある種苛立ちのような一言を言うと。しかしこれには僕らも夜更け何か食べたくなって自分で買いに行くことなんてあったりするわけですよ。でもそれを障害のある人がみずからの意思で言うこと。「それは当然じゃないか」当たり前のことだけど、驚きを感じさせることと、それを受ける介助者も、それを分かっていながらも「こんな夜更けにかよ」と言いたくなるよね、っていう。それぞれの意思を持った人間なんだっていう、あぶり出す作業ですよね。ただ、そこの中からある種、意思性の読まれるような部分というものは外されて読まれるということがなされたわけですよね。

W: そうですね。だからそこで当然立場が違って、抱えているものが違う人間同士が出会った時に必ず不可避的に起こる衝突というか、驚きだと思うんですよね。だからそれをやっぱりごまかさずに向き合っていくことがお互いの成長につながる、って言ったらちょっと毒っぽいですけど。事実、ボランティアの人たち、私もそうなんですけど大きく成長したっていうのはそういう関係を経てやっぱりその他者との関係が変わるっていうのが、人生そのものを結局変えていくんですよね。人生ってやっぱり他者との関係の集積なので、そこで、思ったことに蓋をしてしまうんじゃなくて、ある時はぶつかりあってみる。そのことによってより深くは相手のことを分かり合うとか、そういう体験を重ねていくと、人生全てにおいて変わってくるんでしょうね。

O: 面会もされた、それから傍聴も重ねたということで、それぞれの話を伺いたいんですが、まず裁判傍聴もされて、裁判官のやりとりであるとか、法廷での様子で、どういった場面が印象的でしたか?

W: そうですね。被告人質問も本当に植松被告の荒唐無稽な世界観が、先ほど言ったような全面展開して非常に珍妙な弁護人とのやり取りもあって。そこも印象的だったんですけど。私にとってはずっと知りたいと思って、知ることのできなかった彼の両親との関係だとか、生育歴ですね。そこが比較的今回の裁判では植松被告の元交際相手が実際に証言台に立ったりとか。犯行時まで付き合っていた女性ですね。それから高校時代の交際相手の女性の供述調書が朗読されたりとか。でその中でですね、高校時代の交際相手の女性が植松被告と高校時代に付き合っていた時に、土日になると毎週のようにお互いの実家を行き来していたと。それでですね、お母さんが、植松のお母さんが「聖(さとし)よかったね、いい彼女ができて。」みたいな感じで言って。あとお父さんも最初気難しいと思ったけれども、パスタをお昼ご飯に作ってくれて、4人で仲良く食べて。で、植松は植松で今日どこどこにデートしてきたとか、っていうことを全部オープンに両親に話すそうなんですよね。それを聞いて愕然としたんですけど。「なんか普通の家族じゃん」って。で、犯行時まで付き合っていた、一番最後まで付き合っていた女性も両親に紹介してるんですよね。で、果たして自分を考えた時に、僕もごく普通の家庭で育ったって範疇に入る人間だと思うんですけど、交際相手を両親に紹介したかなって思うと、そんなに紹介してないって。ま、私、バツイチなんですけど、結婚した相手ぐらいかなっていう。だから、植松の場合、そんなに屈託無くね、交際している女性を両親に紹介して、それで彼女の両親とで楽しく会話していたっていうのは、最初、やっぱりその植松っていう特異な人間を培う上で、やっぱりその、なにがしか、親との関係とか家庭環境、あるいは幼少期の体験に何か問題があったんじゃないかと。よく言われるのは「障害のある人たちがいらない」っていうような植松の考え方っていうのはやっぱり過去に自分が人に受け入れられた体験がないから、それが一番最初がやっぱりお母さんだったり、お父さんだったり。そういう感じで親子関係に何か問題があったんじゃないか、っていうような予想を、私もしていたし、多くの人がしていたんです。が、そういうその彼女の話とか、あとまあ精神鑑定の鑑定医も、こうした生育、生まれてから小学校、中学校、高校、大学とずっと順を追って彼の問題があったかとか、いろんな要素をですね話したんですけど。ほぼ普通なんですよね。中学、高校、大学と非常に友達が多くって、女性にもよくモテテいて。中学校時代にすでに交際相手が二人。高校時代も二人。大学以降はもう切れ目なし、いろんな彼女と付き合ったり、出会い系なんかで女性と、ずっと付き合っていた。ま、いわゆるリア充ですよね。

O: ま、外形的に見るとね。

W: で、よくこういう昨年も、京都アニメーション放火事件があったりとか、古くは2008年秋葉原の通り魔事件なんかも、そうですけどその犯人っていうのは、どこか孤立した、まともな職とか人間関係に恵まれなくて、それで社会から疎外されている人が、社会に一矢報いるとか、ある意味復讐を試みるような形で、あの事件を起こすっていう。そういう無差別殺人事件みたいなものがよく目に付く時代ですよね。彼らのことよくネットスラングで、「無敵の人」って言ったりすますよね。それはどういう意味かと言うと、「失うものが何もなく、だからこそどんな非道なことでもしてしまえる。捕まったりとか刑罰科されたりすることも恐れない。ほとんど自殺するような気で犯罪を犯す。」

(植松被告は)そういう人たちとは全く対極なんですよね。

O: 反論や説得が通じない人という意味でもね、「無敵の人」と使われたりしますけどね。でも、失うものあるじゃないかとか、それなりに人生の中で獲得してきたものがあるじゃないか、と周囲から見ると思ってしまいがちな生育歴が浮き彫りになったそうですね。

W: だから「そのままリア充として楽しくやっていけばよかったのに」って面会の時に言ったことがあるんですよね。そうすると「いや、リア充を知っているからこそ、それを持続するために頑張らなきゃいけないんだ」って彼を言ってましたね。

O: つまり脅迫的なんですね。

W: そうなんでしょうね。

O: ある環境、ある状態こそが目指すべき頂。頂点であって。そこであり続けることが自分の価値で、そこから落ちると、まぁある種の、どういう感情なのか分からないですけど、不安感なのかわからないですけど。マイナスポイントがついてしまうと。

W: その意味では、今普遍的に皆さんも不安ですよね。今の、例えば非正規雇用の人もそうだし、正規雇用の人もそうだし。今の自分の位置から滑り落ちてしまうんじゃないかっていう不安に駆られている。そういうところはあったでしょうね。だから今はリア充で楽しくやっているけれども、もっと整形すればいいんじゃないか、とか。で、彼、刺青を入れたりとかですね。あと脱毛、先ほど申し上げましたけれど。脱もして綺麗になれば、もっとリア充の生活が持続できるんじゃないかっていう思い、脅迫的な思いに駆られていたかも知れないですね。

O: 少なくとも生育歴の、ある段階までは非常に社会に適応してるように見受けられる。それがある意味で、非常に狭く高いゴールイメージを設定して、そこに自分を適用させるように脅迫的に駆られていたとも見れる。

W: そうですね。それは何が原因でそうなったのかわかんないんですよね。確かにあの大学に入ると途端に行こう刺青を入れ始めたのがその象徴ではあるんですけど。あと、当時、脱法ドラッグっていってた、今、危険ドラッグっていたりしますけど。合成大麻ですね。それからの首題に「大麻」、ま今回の裁判の争点はその大麻が。大麻をかなり継続して何年も吸っていたがゆえに心神喪失の状態、状況にあったっていうことでの責任能力の有無が争点になったんですけど。まぁ確かにそういう大学に入ると一気に反社会的な傾向に流れていって。あるいは女性との付き合い方も非常に快楽的というか女性を利用するような側面が出てきたりとか。あと運転が荒くなったりとか。その脱法ドラッグとか、そういう影響もあるんでしょうけどね。彼自身が自分でづれて行っているという側面があったのかもしれないですね。

O: 一方でそのケミカルな面はあるかもしれない。他方で様々な薬物を継続的に摂取するということであれば、それに駆動されるような不安感とか、様々な背景があるのではないかとされますよね。そのポイントなどについては少なくとも様々なジャーナリストやライターやあるいは今回の裁判の経緯をもって、「ここがターニングポイントだ」っていうことが明らかにされたわけではない、ということになるわけですね。

W:ただ、これは弁護側がそういう供述調書をセレクトしたのかもしれないんですけど、明らかに事件を起こす2016年の7月26日に事件を起こしたんですけど、その大体1年前ぐらいから急激に、以前の植松のパーソナリティとは全く違う。友人達が見てもヒイテしまうようなドンドンドンドン。まぁ、その主な主張というのは、「障害者を安楽死させるべきだ」っていう主張なんですけど、それに向かって突っ走るようにエスカレートしていく。病的なちょっと異常さっていうのが、弁護側にとってはやっぱりこれは大麻ですよ。っていう一つの証拠になるんだと思うんですけど。そういう側面もあったんですね。一年前から急激にエスカレートしていく。

O: 何かでドライブしていた。

W:そうですねー。そうですね。それは確かにあるんです。

O: それの補助的なポイントとして薬物というのは関わっていたであろう、と。

W: そうです。

O: ただ、それが特定の思想の方にドライブしていく。そのきっかけであるとか、そこにロックオンされた背景というのも一つのクエスチョンになるわけですね。

W:その背景っていうのが僕は、弁護側の主張は薬物だけっていうことに限定していたんだけれども、僕はその他にもいくつかあって。そのいくつかは、例えばトランプ大統領。まだ当時は大統領じゃなくて、大統領選にトランプが出馬して、要するに言いたい放題好きなことを言っていて。そういう人が、タブーとして口にしないようなことをあからさまに言ってしまうことが、正しいというか、かっこいいっていうか。植松は非常にトランプをカッコイイカッコイイって言って、この人絶対当選するって最初から言ってたらしいんですけど。そういう、いわゆる、『ポリコレ批判』ですよね。

O: ポリティカルコレクトネス。政治的公正さ。

W: 綺麗事を言っている人たちに対する嫌悪感。だから「障害者っていらないじゃん、いなくていいんじゃね」っていうことをあえて口にすることで、世の中の真実をついている、っていうか。 
もう一つは、日本的な状況として財政難ていうのがやっぱり大きいんですよね。だから彼の中ではよく、常に言っていたのは「意思疎通の取れない障害者は安楽死させるべきだ」っていうのと、「重度の障害者は他人のお金と時間を奪う。それが結局財政難の元凶になっていて、彼らを安楽死させることでそのお金を他に回すべきだ」っていう主張になってくるんですけど。だからまあ世界的な状況もそうだし、日本の状況もそうだし。で、もう一つ私がすごく重視しているのはネット空間なんですよね。彼は、例えば、最初は Yahoo の  のニュースのコメント欄に非常に書き込みをよくしていたんですね。でも、あまりに差別的な書き込みをするので、書くとすぐ消されてしまうというようなこと言ってました。

O: 手ぬるいヤフコメですら消す対応をする。っていう。

W: そうですね。だからどういうこと書いていたのか。強烈なことを書いていたと思うんですけど。それが段々『アフリカTV(afreecaTV)』動画配信サービスに、自撮りした動画を 投稿するようになる。それもよく知られていて、 YouTube にいくつか映像は残っているんですけど、まぁ本当に、反抗予告めいた動画だったりとか、今の日本を何とかしなきゃいけないって。切羽詰った表情で言っている所を自撮りしたところが出たりとか。


だからおそらくそこで障害者に差別的な、「障害者は安楽死させた方がいい」ということに関する動画をアップした時に、「やっちゃえやっちゃえ」みたいなそういう祭りあげ  っていうか。それに無責任に共感する人たちが結構いて、私、植松のの非常に仲の良い友達に話し聞いた時に、なんで植松が一線超えちゃったんだろうって仲間内で集まった時によく話をしてたらしいですね。みんなやっぱりよくわかんないって結論が出るんですよ。で、唯一考えられるのは、ネットに持ち上げられたことが彼にとってはすごく気持ちよくて、背中を押してしまう一つの要因だったんにじゃないかと。

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