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お見舞いの花束

私は、自分のことを語るのが苦手である。

昨日、知り合いから強い一言を言われる。
「あなたは何も言わないし、人の話を無視するし、とても嫌です」

言われた一言は、私の心に突き刺しはしたが、立ち直れないほどではなかった。

私の答えは、「それは仕方がない。だから、嫌な思いをさせたのはあやまるけど、私はどうすることもできない。」だった。どこか自分を遠くから見ていて、その自分の行動をフォローするような言葉が繰り返し出てきた。

その知り合いは、私に強い口調で怒りをぶつけながらも、私の行動が意味することを知りたいという思いも含めていると私は感じた。

そこで、自分の行動の意味とその時に感じていたことを、言葉にして話そうとしたが、それが非常に困難で、情けなくて、辛かった。「聞こえない」という一言を言うのが非常に苦しかった。

日頃の自分の行動は、周りの人から見て非常に冷たい人のように見える。その行動とは、
 ・あまり笑わない
 ・あまり顔を合わさない
 ・周りの人の会話の中に入らない
 ・よく離席する
 ・あまり話さない
書き並べただけでも、つまらない人のように見える。その人がつまらないだけでなく、周りの人にも不愉快な思いをさせているのは確実である。

ただ、その行動には、私なりに理由がある。正当な理由とは言えないが、ここ何年かで自分なりに、仕方なく割り出した理由(→の先)である。
・あまり笑わない
 →話の最初部分を聞き逃しているから、笑いのオチがわからない。
・あまり顔を合わさない
 →顔を合わせると、話しかけられる確率が高くなり、その話をはっきりと聞
  き取ることができる自信がない。
・周りの人の会話の中に入らない
 →上の理由と同じで、特に複数での会話になると、話についていくことが非常
  に疲れるし、突然のフリで戸惑うことが多い。
・よく離席する
 →上の話に加えて、会話が弾んでいる場に長い時間いると、目眩がするほど
  疲れて来るので、静かな場所へと移動することが多い。
・あまり話さない
 →話をしっかりと聞き取れていない人が話し出すと、場の空気からはみ出た
  話題になることが常々である。だから、相手の質問には答えるが、自分か
  らは話を持ちかけない。

わたしは一側性難聴である。右耳だけが聞こえていない。私の「聞こえ」には、全く聞こえていないときがある。音は入るがはっきりと意味ある言葉としては聞こえてないときがあり、人との会話で話の最初の1、2個の単語は聞き漏らしている。また、音が聞こえてくる方向がわからない。最近はマスクをつけている人がほとんどなので、誰が声を出しているのかもわからない。それゆえに、先ほど書いたような、行動でその場を凌いでいる。

書いたことの全てが正しいことであるとは思っていない。しかし私自身仕方がないのである。「聞き取れなかったら、聞き返せばいい!」と言う言葉があるが、その行動は、簡単そうで非常に難しい。理由は、人は、自分が「話しかけた」行動に、周りの人は快く聞き取ってくれると信じている。しかし、聞き返されると、難癖をつけられたような錯覚に陥り、表情が硬くなる。それは、仕方がないことである。誰もが自分のことが大切なので、普通の感情だと思う。だから、「聞き返す」ことはできないと考えていた方が、心が平和でいられる。


「あなたは何も言わないし、人の話も無視するし、とても嫌です」
その言葉にどう答えればいいのか。相手が繰り返しぶつけてくるこの質問にどう答えるのか。嫌な思いをさせている理由を言ったところで、何か変わることはあるのか。そう思いながらも、自己嫌悪に陥りながらも、理由を説明した。

相手は、静かに聞いていた。終いには、私の事情を「わかった」とも言っていた。私は、打ち明けたことが「恥ずかしいこと」とも「聞かれたくないこと」とも思っていなかったが、人に話すことが嫌だった。そのようなことを打ち明けて「わかった」と言われるよりは、冷たく見える態度を示して「嫌だ」と言われた方がいい。

理解されるよりも、嫌われた方がいい。妙な感情である。片耳が聴こえていない事情よりも、そのように物事を見ようとする「自分の感情」に病的なものを感じる。話をしていて思ったことは、私は「自分の声を聞き、自分を理解しサポートすることができない」ことである。人に対して、勇気が出る言葉を見つけてあげることは好きだが、自分のことになると放ったらかしになる。「自己評価が低い」と言う言葉もあるが、自分のそのような”性格”が「嫌だ」と言われる最大の原因だと気がついた。

「あなたは何も言わないし、人の話も無視するし、とても嫌です」
今考えると、その言葉は、いつも自分が自分に投げかけていた言葉だったのかもしれない。その知り合いは、素直になれない自分に対して、代弁していたのかもしれない。そのように捉えると、「『わかった』と言われるよりは、冷たく見える態度を示して『嫌だ』と言われた方が良かった。」という言葉の渦で嫌悪感を膨らませていた胸のうちに、光が差し込んできた。

今は、納得できる解釈に乗っかり、安堵に浸っているが、この思いがいつまで続くかはわからない。私が、相手を信じることができない限り、また自分なりに仕方なく割り出した理由の中で、独りよがりに陥っていくのだろう。この思いだけは、かなり長い期間引きずっていて、右耳が聞こえなくなった9年前からずっとである。この問題は、相手との関わりの間で生じるだけに、傷つくことがあり、傷つけることもある。また、その問題への理解の程度も人様々であり、時として心に大きなダメージが残ることがある。このようなダメージを受けるよりは、人と距離をおいた方が気持ちが楽である。「自分自身の捉え方」と、「相手に対して『信じる』ことができるか否か」で、心の天秤が毎日揺れ動いてきた。

「あなたは何も言わないし、人の話も無視するし、とても嫌です」
しばらくこの言葉は自分の中で引きづりそうである。一応の解釈として例えるならば、病気で自宅療養している私にお見舞いとして持ってきてくれた「花束(=言葉)」として心の中の机の上に飾っておこうと思う。自分のことを語ることが苦手で、自分の心の声を無視し続けてきた私の机に飾りたいと思う。
それが有難いものなのかどうかは、後で考えたいと思う。


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