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愚痴を聞かされて気づいたこと

   君は、これまで君の心が思ったことの集合体
 
君と言う存在は、過去に「何を考えたか」によって、その考えたり感じたりした内容が、ひとつひとつ心に蓄積されミックスされた結果のつぎはぎとして、今、ここに立っている。すなわち君とは、これまで君の心が思ったことの集合体。
 君がイヤなことを思うのなら、少しだけイヤな業のエネルギーが心に刻まれ、そのぶんイヤな君に変化する。君が優しいことを思うなら、少しだけポジティブな業のエネルギーが心に刻まれ、そのぶん温かい君に変化する。
 こうして人間は、心で思ったとおりのものへと少しずつ変化してゆく。すべては心が思うことによって創られる。
 ゆえにネガティブな心によってイヤな話をしたり、ネガティブな心によってイヤな行動をしたりするならば、必ずや苦しみが自分についてくるだう。
 優しくポジティブな心で話したり行動するなら、必ず安らぎが自分についてくる。
 そう、影が君の歩く後ろから必ずついてくるかのごとく。
                   〜超訳ブッダの言葉 小池龍之介編訳〜



「君」の存在。身体と精神の存在。人が常に考えるのが「精神」の存在。
人が「精神」を意識するときは、ほとんどが悩みを抱え込んだ時だと思う。私が今悩んでいることは次の3つである。
 ①自分はどのように見られているのか?
 ②なぜそのように言われたのだろうか?
 ③なぜ、このようなことを思ったのか?
 私の悩みのほとんどが、心の中でモヤモヤとしたもので、周りの人は私の悩みに気づかない。それどころか、悩みを顔に出さないように努力している私を見て、無神経で話しかけにくいと人だと思い込んでいると思う。実際に相手方に確認をしたことはなく、全ては私の想像である。


 今日は週末の土曜日。今週の職場での仕事を思い出すと、目眩がしてくる。週明けは、予定通りに仕事をこなしていったが、週中盤から後半にかけ、多方面から仕事が流れ込んで来て、自分の立つ位置もわからなくなり、昨日の18時にどうにか仕事の洪水が収まった。水面に滴る雨粒を静かに眺め、次週のスケジュールを立てて帰宅した。すると、不思議なことに、ベランダから外を眺めると、大きな2重虹が空いっぱいに広がっていた。

 その慌ただしさは、私一人ではなく、周りの人も同じ。徐々に忙しさが増すと同時の、愚痴も増えてくる。仕事の量に対する愚痴。仕事の流れに対する愚痴。仕事を一緒にやる人への愚痴。仕事をする自分が認められないことへの愚痴。その多種多様な愚痴が四方八方から飛び交い、その中で黙々と仕事を進めていく私。

 私は「愚痴をこぼす」ことが嫌いである。不満がないわけではないが、「愚痴をこぼす」時間とそれに使う思考が非常に無駄だと考える。だから、周りが「愚痴をこぼす」と聞こえないふりをするか、その場からは逃げ出す。

 ただ、最近異動してきた職場は状況が違う。
 先ず、デスクワークをする空間が非常に狭く、その場から逃げ出せる別の空間が無い。そして、一番の災いが、デスク環境である。


 再び私ごとだが、私は机の上に物を置くことが嫌いである。机の上はパソコンとコーヒーカップのみ。最近はそのような職場がほとんどだと思うが、私たち職場は机にゴミを積んで働く人が多い。そこで、私から、「断捨離をしましょう」と呼びかけて、全ての方々が机の上を片付け、お互いの顔が見えて、話し合いがしやすい環境を作った。室内空間も外からの風と明かりが入り、「さわやかなデスク環境を作ったな!」と満足感で一杯だった。しかしそれが災いになった。

 「愚痴をこぼす」人が、そのデスク環境でやることは、周りにその愚痴を撒き散らすことである。お互いの顔が見えて、より「愚痴をこぼす」ことが容易にできる。その中で私は、パソコンに向かい「愚痴をこぼす」人の話が聞こえないふりをする。その人たちは、私の左隣と真正面で気持ちよさそうに語っているが、愚痴と私への呼びかけを巧みに聞き分けてその場を過ごす。その場から逃げ出したい一心であり、テレワークで帰宅したい思いだった。

 そこで考えたのが、上の3つである。

 「愚痴をこぼす」人の話に加わらない私がどのように見られているのか?なぜそこまで相手を突き詰めるのか?影で私のこともそのように言っているのだろうか?私自身がなぜそのように卑屈なことを考えているのか?

 イヤな業のエネルギーから逃げていたつもりだが、気づかぬうちにそのネガティブなエネルギーを真正面から受けてしまい、自分の心の傷がヒリヒリと痛んでいた。

 「愚痴をこぼす」ことが「嫌である」とか、それを「聞かない」、それから「逃げる」と、自分自身を強く見せるように自問自答しても、過去に受けた傷は、その時々で痛みを発して、苦しみを思い出す。過去は消えることはなく、何かの拍子に顔を出し、自分自身に問いかける。「昔のことを覚えているんだろ?どうなんだ?」と、

 毎日のように聞かされる愚痴の嵐。それは、気付かぬ間に、自分自身の卑屈な経験を思い出させ、まるで自分自信が悪く言われているような錯覚を起こす。それは、自分自身の勝手な解釈であり、実現し得ない想像である。しかし、過去に似たような経験をしてきた私としては、いとも簡単に勘違いをしてしまう。迷惑な思考回路が頭の中に居座っているのである。

 先に書いたネガティブな考え方で、自分自身を責める人は多いと思う。私もその一人だが、それはやめたほうがいい。自分がネガティブな思いに駆られて苦しみ出した時は、自分にはそのような「癖がある」と軽く考えていこう。このように物事を解釈するのも「自分である」と軽く受け止めよう。

 だから、職場で愚痴が飛び交い、滅入ってきたときには、「自分は卑屈な思いに駆られているぞ」と思い、温かく見守ろうと思う。本来は、愚痴多き職場で、悪しき環境であるはずだが、自分の心の勾配に気づく場であると解釈したら、それほどひどい場所とは思えないはずである。

 周りを常に気にして生きてきた私だが、そろそろ自分を認めてあげたいと思う。愚痴多き職場に身を投じて分かったことである。悪いことが必ずや悪いとは言えないし、悪いと解釈するのはいつだって自分自身である。悪いことを良いことと見るのは難しいが、悪いことの中でも、自分が良くなれる「思い」と「行動」を選び取るトレーニングができると考えるならば、その場には自分に課せられら業があると言えるのかもしれない。


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