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初期キリスト教信仰について⑭

アキラ、プリスキラとの出会い

・その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。(使徒言行録18章1~3節)

『聖書』新共同訳、日本聖書協会

 使徒言行録18章では、パウロがコリントに来た時に、パウロよりも早く、既にローマでキリスト教信仰を伝えていたアキラ、プリスキラ夫妻と、コリントで出会い、意気投合します。
 ポントスとはトルコ北東部の黒海に面する地方で、こうした地域の人がローマに仕事で移り住むというような交流が当時すでに存在していたことを示しています。
 

ポントス、コリントの位置

 当然、このアキラとプリスキラは「ギリシャ語を話す離散のユダヤ人」であり、しかもパウロとは別のルートで、既にキリスト教信仰を有していたということから、おそらくはバルナバなどと同様に、使徒たちの次の世代のキリスト者であり、「初代エルサレム教会」の信仰に「準ずる信仰」の人たちであったと考えられます。

 

 さて、「クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令した」(使徒18:2)とありますが、ガイウス・スイトニアス(スエトニウス)の著作に、クラウディウス帝の時代に、そうしたローマからのユダヤ人の追放についての記述があり、およそ紀元52年頃の事として理解されています。
 これは「ローマから全ユダヤ人が追放された」という事ではなく、「扇動した主要人物が追放された」ということであり、およそローマを追放された主要人物の二人がアキラとプリスキラであったということです。
 そうしたことから、恐らくは「初期ユダヤ教」の信仰と「アキラとプリスキラ」の信仰においては違いがあり、それがローマにある「離散のユダヤ人の会堂」で問題になったことが考えられます。

ユダヤ人のローマ放逐,52年頃、スイトニアス「クラウデオ帝の生涯」Vita Craudii 25章4節(使徒行伝18:2参照)
……ユダヤ人たちは.クレストウスの扇動の下にしきりに人心を攪乱したので,彼(クラウデオ)は,この人々をローマから追放した…

『キリスト教文書資料集』聖書図書刊行会、p23

 なお、使徒言行録では「アキラとプリスキラ」としていますが、パウロの手紙では「プリスカとアキラ」(ローマ16:3,〔2テモテ4:19、パウロの直筆でない〕)という風に書かれる場合、「アキラとプリスカ」(1コリント16:19)という表記があり、単純に表記が違うだけのことなのか不明です。
 ただ、使徒言行録では「アキラとプリスキラ」と夫が前に出てきますが、パウロの手紙では「プリスカ」が前に書かれることがあり、案外、「プリスカ」が、その首謀者のひとりとして知られていたのかもしれません。
 また、『聖書』新共同訳では「テント造り」とありますが、この「テント造り」に相当するギリシャ語の単語は、新約聖書中で、ここにしか登場しない単語のため、実際にこれが何を指すのかは「諸説あり」で決着はついていません。
 


・パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」
パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。(使徒言行録18章4~8節)

『聖書』新共同訳、日本聖書協会

 コリントにおけるパウロの宣教を見ると、パウロはおよそ「離散のユダヤ人の会堂」で説得をしていたとあるように、恐らくはその土地の「ユダヤ人の会堂」において、「イエスがメシアである」ことと同時に、「律法の順守〔特に割礼〕は不要(信仰義認)」ということを語っていたのだと思われます。
 また、この出来事が、使徒教令の発布後の出来事であることを考えると、このコリント教会(家の教会)が、アカイア州におけるパウロの信仰を受け入れた教会として、「ティティオ・ユスト」という名前を挙げているのでないかと思います。
 ただし、使徒言行録は、パウロとアキラ、プリスキラの関係性については、あまり多くを語っていません。パウロの「ローマの信徒への手紙」では、パウロは「ローマの教会のメンバーとして、アキラ、プリスキラ(プリスカ)」の名前を挙げており、そういう意味では、パウロが「ローマの信徒への手紙」を書く時点では、「アキラとプリスキラ」は「ローマに再び戻っていた」という事が考えられます。
 なお、「使徒言行録」18章では、「シラス」と「テモテ」が後からやってきて、パウロの経済的な負担をしたと書かれていますが、先の「初期キリスト教信仰について⑬」で触れたように、「シラス」の名前については、「後付け」のような印象が強いです。
 テモテが、パウロの弟子として、極めて重要であったのはパウロの直筆の手紙において、テモテの名前が度々登場することにあるのですが、しかし「シラス」については、パウロは直筆の手紙の中では一言も触れていません
 つまり、「シラス」という「パウロの同行者」は、「使徒言行録」に限定して登場する人物であって、パウロは「シラス」については、何も書いていないのです。

 以下、参考までに、ゲルト・タイセンが『イエスとパウロ』という著書において、アキラとプリスキラについて、以下のように記述しています。

 ところが、使徒行伝の叙述はこれと違っています。そこでは、パウロがバルナバとともにアンティオキア教会から委託されてエルサレムに持参した献金(使一一27~30)は、明瞭に使徒会議(使一五1~29)とは区別されています使徒行伝はパウロの三回にわたるエルサレム旅行について語っています。最初は彼の回心の直後(使九26~29)、次は前述のアンティオキア教会からの委託で献金を届けた旅(使一一27~30)、そして三回目が使徒会議のために上った旅(使一五1以下)です。ところが、パウロ自身はエルサレムには二回しか上ったことがないと言い切っています。最初は回心から二、三年が経った時期で、ダマスコからの脱出劇の後のことでした。二回目はそれからさらに一二年から一三年後、使徒会議のための上京でした(ガラ一18,二1以下)。歴史上の真実を再構成するためには、パウロの真筆の手紙の方が優先されてしかるべきです。使徒会議以前にパウロがエルサレムにいたのは一回だけだったことは確実です。それゆえ、使徒行伝の方がいずれか一回分のエルサレム旅行を、意識的か無意識的かはともかくとして、二回に増やしているのです。その結果、使徒行伝の叙述では、アンティオキア教会からの献金と使徒会議の席で彼らが外交的な行動を展開したこととの間におそらくは一定の関係があったであろうことが見えにくくなってしまうのです。それでも、次のことは確実に言えます。すなわち、使徒行伝の著者にとっては、アンティオキア教会からの献金と使徒会議が連動していたとなれば、それは都合の悪いことであったに違いありません。というのは、彼は聖霊を分与する力を金で買おうとした魔術師シモンを鋭く批判しているからです(使八14~24)。もし使徒会議に現れたパウロとバルナバが献金を持ってきたからというので、その会議で教会が行った決定を左右しようとしたのであれば、使徒行伝の著者の目から見れば、それはもう魔術師シモンが犯した罪と同じくらい批難に値することであったでしょう。使徒行伝は、アンティオキア教会の代表者たちが金で異邦人伝道の許可を「買収」したかのようなあらゆる嫌疑を避けたいのです。

『イエスとパウロ』ゲルト・タイセン著、p228~229、日本新約学会

 使徒会議でエルサレム教会とアンティオキア教会の代表者たちが達成した合意は、「リベラル」な異邦人伝道にとって爆発的な促進剤になったに違いありません。事実、パウロはその直後から、伝道活動の対象範囲を小アジアとヨーロッパ大陸にまで拡大するのです。パウロ以外の伝道者たちもローマで活動し始めます。というのも、使徒会議の直後に、ローマ教会の中に不穏な動きが生じたことは決して偶然ではありえないからです。その不穏な動きのきっかけは「クレストス」でした。つまり、キリストについて語られた告知でした。スエトニウスはこのことについて、「彼(クラウディウス)はクレストスとかいう者に唆されて絶えず不穏なことを企てたユダヤ人たち(おそらく限定的な用法なので、「ユダヤ人の中で~企てた者たち」)を、ローマ市内から追放した」(スエトニウス『ローマ皇帝伝』、「クラウディウス」25=GLAJJ 307)と記しています。……(中略)……彼(クラウディウス)は後四一年に皇位に就いたときにすでに一度ユダヤ人に対して勅令を発布して、彼らが自分たちの父祖のしきたりを厳格に遵守することを義務付けていました(ディオ・カシウス『ローマ史』60,6,6)。そのような状況の中で、キリスト教徒たちがキリストを根拠に持ち出して、ユダヤ教の伝統にはない新しいこと――例えば、ユダヤ教の儀礼条項を使徒会議で一般的に承認された仕方で緩和すること――を始めたのだとすれば、これは皇帝クラウディウスが発した勅令に対する違反行為と見なされ得たのです。……(中略)……たしかに彼(クラウディウス)はすべてのユダヤ人をローマから追放したわけではなく(使一八2ではそうなっている)、首謀者たちだけをそうしたのです。その首謀者たちの中にいたのが、アキラとプリスキラの夫婦です。この夫婦はパウロとコリントで出会って、すぐさま彼に同調しました。使徒行伝は、パウロがこの夫婦をまずキリスト教に回心させる必要があったとは言いません。アキラとプリスキラはすでにキリスト教徒だったのです。この二人は初めから、キリスト教の中でもパウロの系譜に連なる信徒でした。彼らはその後も繰り返しパウロを助け続けました(1コリ一五19,ロマ一六3~4を参照)。おそらくこの夫婦には、使徒会議でパウロの力で達成された合意が初めて「リベラル」な異邦人伝道を可能ならしめたこと、またそのことがローマでの騒ぎの原因となったことが、分かっていたのだと思われます。だから彼らは、コリントでパウロに直接会う前から、つまり初めから、パウロの陣営だったのです。おそらく彼らはすでにローマでパウロのことを聞いていたに違いありません。

『イエスとパウロ』ゲルト・タイセン著、p230~232、日本新約学会

 これまでの記述を整理すと、パウロはバルナバとともに、第一回目の宣教旅行に赴き、そこでエルサレムに住む兄弟たちのために献金を募っていた。
 それと前後して、アンティオキア教会において、異邦人に対する「割礼の奨励」がエルサレムからの使者によって伝えられ、その事を初代エルサレム教会の使徒たちと協議するために、パウロとバルナバは、献金を持ってエルサレムに上り、そこで献金を手渡すと共に、異邦人教会の割礼は不要であることの合意を取り付けた。
 このことをきっかけにして、ローマの離散のユダヤ人の会堂にまで、そうした「異邦人に割礼は不要」であるということが伝わり、そのことにアキラとプリスキラが関係していた。
 その後、ローマを追放されたアキラとプリスキラは、コリントでパウロと一緒になり、アキラとプリスキラはパウロを支える働きをした、というところです。

問題宣教者アポロ登場

 パウロの第2回目の宣教旅行と、時を同じくして、アレクサンドリア生まれの雄弁家アポロが、エフェソへとやってきます。この時点で、パウロはアンティオキア教会に戻っており、パウロとアポロとはエフェソでは会うことは無かったのですが、パウロの後、アキラとプリスキラは、このアポロを指導して、アポロの希望通り、アカイア州(コリント)に渡ることを希望していたので、エフェソの教会の人たちはアポロに「推薦状」を持たせて送り出すのでした。
 そして、アポロがコリントの教会で、色々と問題を起こすことになります。アポロの問題については、コリントの信徒への手紙1で記されていますが、およそコリントの教会が分裂する直前までに至ったようで、そうした知らせを受けたパウロがコリントの教会の人たちに対して書き送ったのが、「コリントの信徒への手紙1」になります。
 なお、「使徒言行録」は、アポロについて、パウロの「コリントの信徒への手紙」にあるような問題については、触れておらず、ただコリントの教会の人たちを「大いに助けた」と高く評価していると共に、信仰的にパウロと衝突したということについては、「使徒言行録」は一切触れていません。こうした「初期のキリスト教会における問題」を、使徒言行録は「神の救済計画の中で、予定調和のように丸く収まった」とする傾向が見て取れます。

・さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。
このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。(使徒言行録18章24~28節)

『聖書』新共同訳、日本聖書協会


 次回は、19章をみていきます。

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