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初期キリスト教信仰について⑩

アンティオキア教会での出来事

 現在はトルコ領アンタキヤですが、新約聖書の成立した時代においてはシリアのアンティオキアと呼ばれていた町に、キリスト教の歴史で、最初に「キリスト者(クリスティアノイ)」と呼ばれる人たちが出たのがこの町でした。

・このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。(使徒言行録11:26c)

 そして、このアンティオキアにおいて、いわゆる「ギリシャ語を話すキリスト主義のユダヤ人」から「ギリシャ語を話す異邦人」へと福音が伝えるようになったきっかけを作った教会として、このアンティオキア教会は高く評価されるのです。

・アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」 そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。(使徒言行録13:1~3)

 アンティオキア教会の指導的な人物として使徒言行録13章が紹介するのは、キプロス島出身の離散のユダヤ人家庭に育ったヨセフで、使徒たちから「バルナバ」と呼ばれた、指導的な人物であり、パウロ(サウロ)と共にアンティオキア教会で1年間、教会を指導したことが記されています。

 また、「ニゲル」は「黒」の意で、おそらくは黒人で離散のユダヤ人家庭に生まれたシメオン(名前がユダヤ人)、そしてキレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育った離散のユダヤ人であるマナエン。そして、使徒言行録では、そうした主要人物を紹介した最後に「サウロ」と紹介しています。

 「使徒言行録」と「ガラテヤ人への手紙」にある、パウロの信仰の遍歴については記述に違うところがあり、一致しません。そのため、パウロがキリスト教信仰に目覚めたのがダマスコではありますが、使徒言行録ではパウロは一度、エルサレムの使徒たちに面会した後、生まれ故郷のタルソスに帰り、そこでバルナバによって見出され、アンティオキア教会に関わるようになったとされています。

地図:アンティオキアの位置は「赤のピン(マーカー)」

アンティオキア

アンティオキア拡大

地図:写真中央がおよそ古代における都市の中心。そこから山際の中心地を少し見下ろすような位置に、山肌をくり抜いて聖ペテロ教会(パウロでなく!)が存在します(地図右上の方向。赤いピン)。

アンティオキア拡大2

「聖ペトロ教会(church of St.Peter)」入口(現在は博物館)

聖ペテロ教会

パウロの宣教旅行なのか、それとも?

 さて、一般的には「パウロの第一回 宣教旅行」というふうに銘打たれていますが、使徒言行録の記述から見えてくることは、パウロにとっての第一回目となる宣教旅行は、あくまでも「バルナバの宣教旅行に随伴した」という形であるということです。加えて「宣教旅行」とは言うけれども、実際は使徒言行録11:27~にあるように、大飢饉によって疲弊していたエルサレムの人々を救援するために、各地の教会(ユダヤ人シナゴーグ)を訪れて募金をし、その時に「福音宣教を行った」という事が考えられる、というところです。

・そのころ、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下って来た。その中の一人のアガボという者が立って、大飢饉が世界中に起こると“霊”によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた。(使徒言行録11:27~29)

 そして、使徒言行録の記述では、そのようにバルナバに随伴したかたちで、バルナバの出身地であるキプロス島へと宣教に行き、サウロの活躍によって、キプロス島を管理する「総督が信仰に入った」(つまり、パウロの教えを聞いて救われた)ことがきっかけになり、他の弟子たちから「パウロ」と呼ばれ、知られるようになったことが考えられるのです。

・聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。(使徒言行録13:4~5)

・パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。
今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。(使徒言行録13:9~12)

 さて、バルナバの随伴者としてサウロと、ヨハネ(おそらくマルコ・ヨハネ。エルサレム教会で主要な人物であるマリアを母に持つ人物)が一緒にバルナバの生まれ故郷であるキプロス島における募金活動を行うと共に、助手としてバルナバとパウロの宣教を観察していたのだと思います。ところが、総督が信仰に入った出来事を機に、サウロ「(自称使徒)パウロ」として活動をすることになりました。

ヨハネ・マルコの離反

 しかし、使徒言行録では理由を明記していませんが、マルコ・ヨハネは、バルナバとパウロとに従うのを辞めて、エルサレムに帰ってしまったのです。なぜ、ヨハネが一行と別れたのか、使徒言行録はその理由を記述していません。そこで、その理由として可能性を考えるのであれば、マルコが「自分の信仰との折り合いがつかなかった」という理由が、考えやすいというところです。

・パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。(使徒言行録13:13~15)

 わたしたちは、使徒言行録に登場する人物について、あまりその人物がどういう「区分の人」なのかを意識することが無いと思いますが、使徒言行録に登場する人たちには「信仰」という点において「明確な区分」が存在しています。

 以下は、わたしがおもに使徒言行録に登場する代表的な人物名を「信仰の観点」から分類したものですが、およそ「ヨハネ・マルコ」は、ほぼ「バルナバ」と同様か、あるいは使徒のペトロたちと同じでなかったかと推測します。その理由は以下に示すように、「ヨハネ・マルコの母」はおそらく「女主人」としてそれなりに地位・財産があり、家の教会を運営していたことが考えられ、その息子であるマルコは当然のことながら、使徒ペトロたちと同様の信仰を持っていたと考えるのが順当であるという事からです。

・こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。(使徒言行録12:12)

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 では、なぜバルナバは、マルコと同様にペトロを離れてアンティオキアに帰らなかったのかと言えば、およそ「パウロの第一回宣教旅行」における「主催者がバルナバである」ためというのが順当なところでないかと思います。つまり、バルナバは「パウロの行動をキチンと制限できなかった」ために、恐らく指導者として注意はしたかも知れませんが、「止めろ」とは命令できなかったのでないかと思います。なぜなら、上述のように、キプロス島の総督を信仰に導いたという実績がある手前、むげにパウロを追い返すというわけにもいかなかったというところでないかと思います。

 「バルナバとパウロによる募金活動」は、「募金」という活動を越えて新たな問題を引き起こすことになりました(そういう意味ではマルコ・ヨハネがエルサレムに帰ったということは、パウロの言動がこの先何をもたらすのかについて先見の明があったか?)。彼らが募金活動で回ったのは当然のことながら「もともとユダヤ教のシナゴーグ」でした。そこは、基本的にはイスラエル民族から見た場合の異邦人社会における、ユダヤ人のコミュニティであり、基本的には「異邦人が立ち入ることは少ない(特にメンバーになることは稀)」と考えられます。

 確かに、アンティオキア教会では、ギリシャ語を話す異邦人に対して福音が語られることはありましたでしょうが、このところで重要なのは「神をあがめる改宗者」という「ギリシャ語を話す異邦人」の増加にありました。

ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。(使徒言行録11:19~20)

 もともと福音がアンティオキア教会等のエルサレム教会以外の場所に宣教されたのは上記の使徒言行録の記述からすれば、エルサレムにおける初代エルサレム教会に対する初期ユダヤ教の人々からの迫害が原因でした。しかし、ユダヤ州の人々に対する募金活動を通じて、パウロが行った宣教によって、より多くの「神をあがめる改宗者」が教会に加わるようになったのです。すなわち、元々は「離散のユダヤ人」のコミュニティに対して、「ギリシャ語を話す無割礼の異邦人」(ー>神をあがめる改宗者。本来であれば男性は割礼を施す必要がある)が増えてきたのです。

 恐らくは、使徒ペトロの働きによる、カイサリアの町のコルネリウスの例(ギリシャ語を話す異邦人で無割礼の男性とその家族)があり、もともとこれは厳密に「無割礼の異邦人を会員と認める」ことについて、「無割礼の異邦人の少ない初代エルサレム教会」では、絶対数(カイサリアのコルネリウス)が少なかったためにさほど影響が無かったことが考えられます。

 しかし、アンティオキア教会の指導者であったバルナバも、そこまでの影響があるとは思っても、既に、アンティオキア教会がそうした「無割礼の異邦人を会員と認める」方向で変化してきていることもあり、そうした変化に、当時の各地に点在する「離散のユダヤ人のシナゴーグ」も危機感を感じたのでしょう。

パウロの信仰とバルナバ

 以下の使徒言行録の記述にあるように、「ユダヤ人は~パウロの話すことに反対した」とある通りです。

・パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。
しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」
異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。(使徒言行録13:42~50)

バルナバとパウロによる募金活動はトルコのアジア州・イコニオンに移ります。今日、イコニオンは「コンヤ」と呼ばれる県です。この地域にある「離散のユダヤ人」のシナゴーグに訪れるわけですが、この地域でもバルナバとパウロの活動は、一部のシナゴーグでは受け入れらるけれども、「ギリシャ語を話すユダヤ人」たちによって妨害を受けることになります。

イコニオン・コンヤ

イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。町の人々は分裂し、ある者ユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。(使徒言行録14:1~4)

 まず、ここで整理しますが、パウロとバルナバは信仰の点において、厳密には異なります。パウロは「キリスト教信仰に割礼は不要」という理解ですが、バルナバはエルサレムの使徒たちの権威によって指導者として働いている関係で、初代エルサレム教会の信仰に近いと言えます。

 そして、このイコニオンの町の人たちは、おもにギリシャ語を話す異邦人であり、その中に、「ギリシャ語を話す、離散のユダヤ人」の人たちが存在し、バルナバとパウロはそうした人たちに対して宣教をしたという話になります。

パウロによる自称使徒の問題

 ところが、町の人々はここで「ユダヤ人の側(初期ユダヤ教)」に付く人たちと、「使徒」の側に付いたというわけです。つまり、「ギリシャ語を話す、離散のユダヤ人」側に付く人たちと、「使徒の側」、すなわちこれをパウロとバルナバというふうに解釈できるのですが、ある意味で、このイコニオンにいおいて「パウロが自分自身を使徒と言ったことに由来する」可能性がある、というところです。

 パウロが生きていたこの時代、基本的に「使徒」とされるための資格は、使徒言行録の記述によれば、その基準は「洗礼者ヨハネの時から、生前のイエスと共に行動し、イエスの昇天の時まで、使徒たちと行動を共にした者」でした。

・そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」(使徒言行録1:21)

 ところが、「バルナバ」でさえ、使徒たちの按手によって派遣された身分であるにも関わらず、およそパウロは「自身が使徒である権威によって福音を宣教する」という暴挙に出たことが考えられるのです。(おそらく、そうした傾向は、もっと早くに表面化しており、そのこともあってヨハネ・マルコはパウロに仕えることを拒否したとも考えられます

・このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。(使徒言行録11:21)

 そして、使徒言行録の記述によれば、そのような事がありながらも、バルナバとパウロは、ユダヤ州の人たちのための献金を集めて、ひとまずアンティオキア教会へと戻るのでした。

 次回は使徒言行録15章からみていきます。

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