初期キリスト教信仰について⑦
さて、キリスト教の初期の歴史を知る上で、「使徒言行録」は唯一の資料ということがあります。しかし、「使徒言行録」は、初期のキリスト教の歴史について断片的にしか情報を留めておらず、しかも、「理想化された歴史」として、「ルカによる福音書」がそうであるように、「救済史」的なかたちで物事がつづられています。
そのため、「使徒言行録」から「歴史的情報」を取り出すときには注意が必要です。書かれている事柄をそのままの歴史として理解すると、恐らくは他の文書における情報と齟齬することがあります。
たとえば、具体的な例を挙げれば、「ガラテヤの信徒への手紙」2章に記述がある「パウロとケファとの確執」について、使徒言行録はそうした事実を記録していません。むしろ「使徒言行録」は、キリスト教の宣教が、「ペトロからパウロへと継承されていった」というふうに「使徒言行録」の全体を通じて、描かれています。
また、「パウロの死」について、ローマにおけるパウロの殉教はおよそ紀元60年代であり、その情報を「使徒言行録(+ルカによる福音書)」を記したルカ(伝承上の執筆者)は知っていたと思われますが、使徒言行録にはそうした記述はなく、むしろパウロはローマ市で訪ねてくる人には、キリストの福音を伝え続けたというふうに、発展的なかたちで物語を締めくくっています。
こうしたような点が他にもあり、「使徒言行録」を読むうえで、パウロの直筆の手紙の記述と併せて理解する必要があるのですが、そうした関連付けができる箇所は、残念ながらあまり多くはありません。そのため、以下の記述は、かなりの部分「推測による」ものでしかありません。「状況証拠だけで、事実を検証することができない」とは、実に危ういものですが、しかし、そうした「解釈の可能性」を探る時に、初期キリスト教会における歴史の片鱗が見え隠れするのです。
キリスト教信仰の始まり~~キリスト主義のユダヤ教のはじまり~~
まず「キリスト主義のユダヤ教」について、これは歴史的イエスの生前における活動に端を発するものです。今日的には「メシアニック・ジュダイズム」とされるものに近いかもしれませんが、歴史的にどこまで同じであったかは不明です。
ただし、福音書に物語られている歴史的に考える時、「聖霊者ヨハネ」が「イスラエルにおけるメシア」を信じていたであろうことは確かであり、福音書が問題にするは「歴史的イエスに、自分がメシアである(自覚の有無)」と同時に、福音書は「イエスがメシアである」ということを読者に証明しようとするものであるため、「歴史的イエス」について、その言行について記述しますが、それ以外の情報については、ほとんど何も分かりません。
つまるところ、「イエスの復活」についての最初の証言者が「マグダラのマリア」であったことはわかりますが、その後、「マグダラのマリア」や「イエスの家族」や、何かしら歴史的に「イエスの活動の後を引き継いだ」という事については、一切何も分かりません。
ただ確かなことは、「マグダラのマリア」による「イエスの復活の告知」が、生前のイエスによって「使徒」とされた人々によって、「イエスが、イスラエルに対して預言されていたメシアである」という教えを中心にした「キリスト主義のユダヤ教がエルサレムに起こった」ということが、「初期キリスト教」の始まりであった、という事です。
使徒言行録における、「初代エルサレム教会」について
まず、「使徒言行録」は、以下のような記述で始まります。
テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。(使徒言行録1:1)
「使徒言行録」は、別名「聖霊行伝」と言われるほどに「聖霊」が基本的な理解として前提されています。「聖霊」は4つの福音書にも登場しますが、4つの福音書が紀元60年代以降に著されたものであることを考える時に、歴史的に「聖霊」という「特別な用語」を用いたのは、パウロが最初である、という事が言えます。これについては、また別の記事としたいと思いますので、ここでは「聖霊」は「キリスト教をキリスト教とする必須の概念である」ということをご理解ください。(旧約聖書には外典に1回、登場する以外では、「聖霊」という固定した言い方は無く、主の霊、神の霊など、様々な「霊」についての表現が出てきます。なお、新約聖書では「霊」については「悪霊」が最も多く登場します)
そして、「キリスト者」の条件として「聖霊による洗礼」を受けることが、イエスの言葉として明示されるのです。ここには「洗礼者ヨハネー>水による洗礼、イエス・キリストー>聖霊による洗礼」という二つの信仰の型が示されており、キリスト教会においては、この「聖霊による洗礼」が極めて重要な位置を占めることになるのです。これは、「初期ユダヤ教」の信仰と「キリスト教」の信仰とを区別・識別するものとして重要な信仰の概念となります。
イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1:3~5)
次に、「使徒についての定義」がマティアの選出において示されます。
そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」(使徒言行録1:21)
ここで示されている「初代エルサレム教会」における「使徒の資格」として、①洗礼者ヨハネの時から、イエスに従った人物であること、②イエスの昇天まで、いつも一緒にいた弟子であること、③イエスの復活顕現を経験した者でした。そして、使徒言行録1章の記述に従えば、そうした弟子の中からマティアが、イスカリオテのユダの空席を埋める「12番目の使徒」として、弟子たちによって選ばれたのでした。
こうした記述が説明するのは、「その他の方法で使徒となることは不可能だ」という事です。そして、それは同時に「パウロが使徒になる」という事も不可能であることを説明しているのです。しかし、歴史的に見ればパウロの直筆の手紙の冒頭に幾度も書かれているように、パウロは「自称使徒」として、宣教活動を行っていたのです。
・わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。(ローマの信徒への手紙1:5)
・神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、(コリントの信徒への手紙1 1:1)
・神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。(コリントの信徒への手紙2 1:1)
・人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、(ガラテヤの信徒への手紙1:1)
それは、もう少し表現を変えれば、「パウロは初代エルサレム教会の使徒たちから按手礼を受けて使徒として任命・派遣されていない」という事を意味するのです。
そのため、「使徒言行録」では、どうしても「パウロが使徒とされた経緯について」記述する必要に迫られました。使徒言行録の著者がパウロを知っており、パウロの信仰についてもそれが重要であることは十分に知っていました。だからこそ、パウロの信仰を肯定するために、使徒言行録の上で、「パウロが使徒とされる経緯」について記述し、使徒の条件のひとつである③イエスの復活顕現を経験した者として、使徒の資格をパウロに付与するために、使徒言行録はパウロの回心体験を記述したであろう、ことが言えるのです。
~~~参照:『マグダラのマリア 第一の使徒 権威を求める闘い』アン・グレアム・ブロック著、吉谷かおる訳、新教出版社~~~
そして、エルサレムの初代エルサレム教会について、その構成メンバーから、初代エルサレム教会の権威についても知ることができます。それは、以下の聖書個所に明らかです。
使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。
彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。
彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。(使徒言行録1:12~14)
この記述からすれば、初代エルサレム教会のメンバーは、①「使徒たち」に加えて、②「イエスの母マリア」と③「イエスの兄弟たち」であった、という事です。
①については異論は無いと思いますが、②「イエスの母マリア」について、上述のアン・グレアム・ブロックの著書では、もともと「マグダラのマリア」だったのが、後に修正されたという可能性について触れています。そして、③「使徒言行録」では、「主の兄弟ヤコブ」は一切出てこず、1章において、ただ「イエスの兄弟たち」であったと報告されているだけに留めています。
ところが、パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」では、初代エルサレム教会のメンバーとして、「主の兄弟ヤコブ」と「ケファ」、「ゼベダイの子ヨハネ」を挙げており、その他の十二使徒の名前については一切触れていません。
また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、(主の兄弟)ヤコブとケファとヨハネ(ゼベダイの子、ヤコブは迫害で殺された)、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。(ガラテヤの信徒への手紙2:9)
恐らく、パウロの生きていた時代において、「十二使徒」の中の一部の人たちだけがエルサレムに留まっていたことが考えられるのです。ところが、使徒言行録は「マグダラのマリア(イエスの復活の第一証人)」と「主の兄弟ヤコブ(イエスの血縁者)」について、一切の情報を残していません。当然、これらの人たちが初代エルサレム教会に存在しており、パウロはその事を自身の手紙に書いていますが、「使徒言行録」は「意図的に記載しない」のです。
その理由はアン・グレアム・ブロックの著書にも説明されていますが、「使徒は男性に限る(女性の使徒は認められない)」「イエスの血縁者の権威は、キリスト教信仰には適合しない」という理由が考えられる、というところです。つまり「使徒言行録」は、そうした「キリスト教的な価値観」が既に紀元90年ごろには固まってきていたことが考えられるのです。
そして、こうしたことから、「初代エルサレム教会」の信仰としては「キリスト主義の初期ユダヤ教」であり、その中心的権威として、「マグダラのマリア」「主の兄弟ヤコブ」「ケファ」「ゼベダイの子ヤコブとヨハネ」という、中心人物が見えてくるのです。
ところで、「ケファ」については、キリスト教ではおよそ「ペトロ」と同一視されていますが、厳密には「はっきりしない」というところです。
まず、「ケファ」という名前が登場するのは福音書では「ヨハネによる福音書」だけであり、当然、「ルカによる福音書」にも「使徒言行録」にも「ケファ」は一切書かれていません。また、その他では、パウロの直筆による手紙で「コリントの信徒への手紙1」と「ガラテヤの信徒への手紙」にしか、「ケファ」は登場しません。
・最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、(主の兄弟)ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。(コリントの信徒への手紙1 15:3~8)・・・「()は永野による注釈」
・それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。(ガラテヤの信徒への手紙1:18~20)
ひとつの可能性として「ケファ=マグダラのマリア」というのがありますが、パウロがケファを指して「彼(男性)」と言っている点から、恐らく、わたしたちの知らない誰かでないかと思います。
以下は、個人的な推測に過ぎず、何の根拠もありませんが、パウロがガラテヤの信徒への手紙において、エルサレムに登った時にまず最初に「ケファ」に会おうとした事から、恐らくは「マグダラのマリア」の「使徒としてのあだ名」として、当時の人たちが彼女を使徒として「ケファ」というふうに呼んだのではないか、と考えます。ただ、これについては何も資料がないので、単なる永野の考えとして紹介しておくだけにします。
使徒言行録に見る初代エルサレム教会のすがた
「初代エルサレム教会」については、先の原稿において紀元70年に戦渦に巻き込まれて消滅したと説明しました。すなわち、「使徒言行録」が示す、イエス・キリストの昇天(およそ紀元30年前後)からはじまり、紀元70年までの40年間、エルサレムにおける「キリスト主義の初期ユダヤ教」というかたちで存在していたことが考えられるのです。
当然、その間、「初代エルサレム教会」を指導するのは、「マグダラのマリア」「主の兄弟ヤコブ」「ケファ」「ゼベダイの子ヤコブとヨハネ」といった人たちであり、これらの人たちは基本的には「初期ユダヤ教」の人たちと「イエスをメシアと信じる」以外は、全く変わりませんでした。
そして、「使徒言行録」では、こうした人たちの上に聖霊が降ったというペンテコステ(聖霊降臨)の出来事をもって、「キリスト教会」の活動が始まったと理解します。
なお、『聖書 新共同訳』の新約聖書においては、「聖霊」の他に、「❝霊❞」という表記があります。これはどういう意味かと言えば、「❝霊❞」は「旧約聖書における霊(の概念)」を意味するもので、別な表現をすれば「神の霊」と言うのと同じです。新約聖書においては「聖霊」を特別な意味を持つ「用語」として使用するため、「聖霊」と「❝霊❞」とは、意味として異なるものとして認識している、ということです。
・すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。(使徒言行録2:43~47)
そして、「初代エルサレム教会」の活動は、使徒言行録の記述によれば、「すべての物を共有し」、共同生活を行っていたことが記されています。ただし、こうした時代における教会は、あくまでも「初期ユダヤ教」における教会に相当するものであり、今日的には「シナゴーグ」がそうでないかと考えられていますが、実際問題としては、「初期ユダヤ教」の実態ががあまりハッキリしていないため、詳細については分からないというところです。よく見かけるのは、そうした近代におけるユダヤ教シナゴーグの様子を元にして、「1世紀当時もそうであったであろう」とするもので、最近の研究ではそうしたことは難しいと考えられています。
~~~参考 『初期ユダヤ教の実像』土岐健治著、新教出版社
そして、「初代エルサレム教会」の活動がエルサレムで広がってくるのにつれ、ユダヤ州のサンヘドリン等において大きな問題となり、次第に、エルサレムにおいて、その活動が社会的に問題になってくるようになるのです。
また、そうした中、キプロス島出身のヨセフ(すなわち、離散のユダヤ人の家系に生まれた)「バルナバ(慰めの子)」が、使徒たちによって指導的な立場にある弟子として起こされたのです。
・たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。(使徒言行録4:36~37)
そして、「初代エルサレム教会」は、初期ユダヤ教における「危険な分派」と、次第に認識されるようになっていったのです。
次回は、使徒言行録6章~9章をみていきます。