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初期キリスト教信仰について③

パウロはなぜ、多くの手紙を残したのか?

 新約聖書には、パウロの直筆による手紙の他に、パウロの名前を冠した(つまり、パウロが書いたのではなく、パウロの権威を利用した書いた)手紙と、その他の手紙があります。

 こうしたパウロの手紙は、最初から「キリスト教の正典」を意識して書かれたものではなく、「必要に迫られて書かれた手紙」であり、そして歴史的にはキリスト教のアイデンティティが確立していく過程において、多くの教会において「正典として認められた」ものであるということが歴史を学ぶとわかります。

 こうした新約聖書についての勉強をしていると、「パウロは、手紙を使うことによって、あたかも自分が遠く離れた場所にいる人たちに対して、あたかも自分がそのところに存在し、語って聞かせるのと同じことを実現した最初の人物である」という説を耳にすることがあります。

 確かに、パウロが手紙を、教会に書き送ったことは歴史的な事実でしょう。ただ、旧約聖書にもそうした「手紙」を送ることは記述(たとえば「そのころ、ユダの貴族は頻繁にトビヤに手紙を送り、トビヤの手紙も彼らに届いていた。」ネヘミヤ6:17他)があり、とりたてて「新約聖書の時代においては初めて行われた」ということではありません。

 また、パウロの以後に成立した「使徒言行録」にも、当時のローマ帝国治世下における諸地域のユダヤ教会堂にエルサレムから、使いの人に手紙を託して送り出されるということがあったことが記されて(例えば「使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。」使徒15:23より,「私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりません」使徒28:21より)います。

 パウロの手紙は、いくつかの理由があり、そうした理由に基づいて書かれたものであることがわかります。たとえば、「ローマの信徒への手紙」は、「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。」(ローマ1:10)とあるように、パウロはこの手紙を書いている時点で、ローマに行ったことが無く、そのため、自分がローマへと行った時に、自分のことをローマの教会に受け入れてもらえるように、ローマの信徒への手紙を書いたことが推測できます。つまり「ローマの信徒への手紙」はパウロにとっては「ローマの教会の人たちに、自分の信仰を知ってもらうための、信仰の履歴書(推薦状)」である、ということです。

 また、「コリントの信徒への手紙1・2」は「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。」(コリントの信徒への手紙1 1:11)とあるように、コリントの教会において信仰上の様々な問題が起こり、そのことを「クロエの家の人たち」から連絡を受け、問題解決の為に書かれた手紙であることがわかります。

 「ガラテヤの信徒への手紙」では、「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。」(ガラテヤの信徒への手紙1:6~7)とあるように、ここでは、パウロの指導に従ったガラテヤ地域の教会の人たちに対して、「ある人々(後述しますが、エルサレム教会からの使者と思われる)」たちが、パウロの語る教えに対して、異なる教えを行い、同時に、「自称使徒であったパウロ」の使徒性(使徒としての資格)について、ガラテヤ地域の教会の人たちに対して、恐らくは「パウロは使徒ではない」という事が言われたのだと考えられます。そのため、パウロは「自分自身の使徒性について、それが確かなものである」ことを弁明・弁護するために、この「ガラテヤの信徒への手紙」が書かれたことが推測できるのです(そうでなければ、パウロは自分が使徒とされた経緯について説明する必要がない)。こうした「パウロの使徒性についての疑義」は、「ガラテヤの信徒への手紙」だけでなく、「コリントの信徒への手紙2」においても、同様の問題がコリントの教会で起こり、そのためパウロは「コリントの信徒への手紙2」において、自身がいかにして使徒とされたのかを語るのと同時に「自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。」(コリントの信徒への手紙2 10:18)というふうに、コリントの教会の人たちに対して語ったのでした。

 新約聖書の中で最も早くに成立した「テサロニケの信徒への手紙1」は、パウロの第二回宣教旅行において、コリントからこの手紙を書いたと考えられており(『新約聖書 IV パウロ書簡』新約聖書翻訳委員会訳、岩波書店、注釈より)、迫害下にあったテサロニケ教会の人たちに対して信仰に固く立つように勧め励ます内容となっています。

 パウロの手紙はこのほかにもありますが、これらのパウロの手紙からうかがえるのは、パウロの宣教は決して順風満帆なものではなく、むしろ、敵対する勢力との信仰の戦いがあり、パウロは表向きは受け入れられることが少なかったにも関わらず、歴史的には、キリスト教会は最終的にパウロの語る信仰を、自分たちの信仰的基準として受け入れるようになったということが見て取れるのです。

 パウロが手紙を記した理由の大きな理由は、「パウロの教え」に関係するものであり、それは「パウロの信仰(の確信)」に関係するものでありました。パウロは、最初から「自分が標準的なキリスト教信仰を書き表そう」としたのではなく、結果的に、「パウロが自分自身の使徒性を弁護するために語った内容が、キリスト教信仰の基礎として」、後のキリスト教会はパウロの信仰を「自分たちの信仰とした」のでした。

 次は、使徒言行録における記述を基に、福音書に記された洗礼者ヨハネ、イエス・キリスト、そして使徒たち、パウロについてみていきます。

 

 

 

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