見出し画像

ブランド負け

入学してから2年が経ち、いよいよ自分も最終学年となりました。

当たり前のことだが、先輩がいない環境は初めて
大学ではプロに行く選手と同じピッチでプレーできるようになったが、当時ひとつ上の今年からサンフレッチェ広島の10番となった森島司選手は自分にとってとてつもない驚きだった。
同じ環境で高校生活を過ごしただけにプロという舞台は近いようで遠く感じた。司くんがいたことからかわからないが自分たちの代は四中工サッカー部として少し名前負けしているところもあった。正直2学年上の先輩も含めて、うますぎた。

そうこうしている間に最終学年に突入していた。
なにひとつ結果を残すことなく2年が過ぎ去っていた。意気込んできた高校も、気づけばもうそこにはゴールが見えていた。
とにかく結果。そう思っていた。
もちろんBチームに上がって半年も経っていないぼくは3年目ももちろんBチームからのスタートだった。ただ落ち込むというよりも自分たちの代で作り上げる四中工サッカー部というのにすごく達成感というか、楽しさがあった。
毎試合が楽しい。練習もきついけどおもろかった。
当時プリンスリーグだったのでBチームは県1部リーグを戦っていた。三重県とは言え相手は全部Aチーム。楽しかった。

点を決めたらみんなが見てくれている。
Aチームに上がれるチャンスが格段と上がる。
リーグ戦序盤はチームも個人もかなり調子が良かった。しかし夏以降中々結果が出せない日々が続く。進路も決まらない。ただ前半調子良かっただけに夏の遠征などに少しずつ呼ばれるようになっていた。
ただそこで爆発的な活躍ができない。夏以降は精神的にもかなり追い込まれていた。もうサッカーやめて就職しようと思っていた。というか就職するつもりだった。
すると監督が担任だったぼくは昼休みに監督の職員室に来るように放送で呼ばれた。四中工はだいたいやらかした時に放送で呼ばれる。ドキドキしながらいくと、大学に行かないか。お前の悔しそうな姿見てたら就職させれへんと告げられた。その時は就職する気満々だった。親にも就職する。と言っていた。だが、少し心が揺らいだ。
そこから当時のヘッドコーチや他のスタッフに相談した。他のスタッフは大学に行っていて大学がどういう場所かも教えてくれた。
高校サッカーが終わる頃に大学に受験すると決めた。

たくさんの大学に練習参加させてもらった。
地元という縁もあり、びわこ成蹊スポーツ大学を選んだ。
そこには先輩も何人かいる。

大学はすぐに入学が決まった。
ただ高校サッカーはまだ終わっていない。
引退してから朝練も午後練も毎日行った。
不完全燃焼とはまさにこのこと。3年生が全員引退してからも現役選手と同じ走りもこなしていた。引退した同い年のやつと同じくらい遊びたかったのも本音。練習に行ったからどうこうなるわけではないが、最善を尽くしたかった。後輩の名前なんてほぼ知らなかったが、ここで全員の名前を覚えた。
それくらいしか覚えていないがとにかく追い込んだ。

そしてびわこ成蹊スポーツ大学の門をくぐった。

明日は大学の話ではなく、高校3年間の総集編にしようと思う。

横山史仁

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?