夢の舞台への挑戦

いよいよ四日市中央工業高校に入学しました。
今回は入学してすぐの1年生での経験について書き記そうと思う。

その前に
入学する前は正直自分は全国レベルでもやれるのではないか、たかが町クラブだったがトレセンにも一応行ってたし、京都の中では底辺とまでは思っていなかった。

四中工は入学する前から新入生のトレーニングはスタートする。だいたい2月の終わり頃には入寮し、既に新生活がスタートし、卒業式のために帰るくらいで、まだ中学生の段階で高校生として扱われる生活がそこにはあった。
正直、周りは全国からも集まってくる各県のトップクラスの選手。物怖じしていないように振る舞っていたのも事実だった。しかし、経験や知識にプラスして圧倒的に技術的な差があった。ましてやトップチームに既に合流している選手もいた。それ以外の選手でのトレーニングでも目立つことのできないただの一選手だった。
いやむしろ下から数えた方が早かったかもしれない。

そして何より圧倒されたのがランメニューだった。
朝7:15には20周というサッカーコートを1周1分半で20周継続して走るメニュー、それに加えて午後練では基礎的なトレーニング、ゲームなど経験したことのないようなハードな練習をした後にまた日替わりのランメニュー。練習が終わったと思ったら山を2つ越えて30分かけて寮に帰る。
ランメニューでは下から数えて3番か4番目程度。
ついていくのにも必死なのにろくについていけない日々。
帰り道はただの地獄。サッカー部の部室で寝ようかと思った日もあった。それぐらい入学して半年ぐらいは辛かった。
技術では圧倒され、ランメニューはろくについていけない。

でもこれが全国クラスか。これがスタンダードにできないとそもそもメンバー選考の土台にも立てない。
サッカー面でここまで追い込まれたのが初めての経験で正直私生活でも四中工で言うやらかしが多かった。

一度整理することにした。
まず走る。誰よりも練習する。

そうすることで、高校生だったぼくは着実に力をつけることができ、1年生チームの中でもメンバー選考の土台に立つことができてきた。
今思い返すとトップチームやBチームに行けるような大会や練習試合に呼ばれる回数もかなり増えた。
ただ、弱小町クラブで育ったぼくにそれが千載一遇のチャンスだと感じることができなかった。1年生の頃はことごとくチャンスを棒に振り、なにひとつ結果を残すことができず、周りにトップチームのやつらがいる中でDチームやCチームでの活動するもどかしい日々が続いた。
ただ走りは誰にも負けたくなかったし、練習も当時世代別の日本代表に入っていた先輩に直訴して自主練を一緒にしてもらったりした。美談に聞こえるようだが死ぬほど恥ずかしい思いをしていた。高校生の日本代表だった先輩は利き足でない左ですごいコースにバシバシ決めていく。自分は利き足の右足でもシュートが入らない。直訴したものの練習が始まった瞬間から早く終われと思っていたのも事実。
そこから自主練にも人一倍こだわるようにした。
特にシュート練習には力を入れ、いろんな先輩の見様見真似でやった。
そうしていくうちに高校1年目が早々と過ぎ去っていった。
そして高校2年生がスタートしようとしていた。

横山史仁

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