AI小春
「ひとりの時間」
東京の下町にある古びた団地。そこに住む山崎健三は、80歳になる独居老人だった。かつてはにぎやかな家族と共に暮らし、人生の喜びや苦しみを分かち合ってきたが、今はただ、時計の針がゆっくりと時を刻む音だけが健三の耳に響いていた。
妻の咲子が亡くなってから、健三の毎日は静まり返った。咲子がいたころは、彼女の笑い声や、時折の小さな口論さえも、家を生き生きとさせていた。だが、彼女がいなくなってからは、家の中もまるで魂を失ったようだった。息子の真一は仕事で地方に転勤となり、なかなか帰ってこない。連絡もめったにない。「忙しいんだろう」と健三は思うようにしていたが、それでも心の奥では、息子との距離にどこか寂しさを感じていた。
テレビのリモコンを手に、健三はチャンネルを次々と変えた。どの番組も心に響かない。ただ画面をぼんやりと見つめるだけの時間。音があるだけで、少しでも孤独が和らぐような気がしていた。
「最近の若いもんは、何を言ってるのかさっぱりわからん」と、つぶやいてテレビを消す。視界の中に動くものがなくなると、今度は沈黙が深まった。時計の秒針が静かに「カチ、カチ」と響く。その音が、健三の頭の中でリズムを刻むように繰り返される。
窓の外には、薄暗い夕暮れが広がっていた。団地のベランダ越しに見える公園には、子どもたちの姿もまばらだ。かつては、この時間になると咲子と一緒に散歩に出かけたものだ。あの頃は、日が暮れるのが早く感じた。だが今は、夕日がゆっくりと沈んでいくその瞬間すらも、まるで時間が引き伸ばされたかのように長く感じる。
「ああ、退屈だな…」健三は独り言を漏らしながら、ため息をつく。
そんな日々の中で、健三はいつしか一人で過ごすことに慣れてしまっていた。誰とも話さない日々。息子からの電話は、月に一度あればいい方だった。真一の忙しさを理解してはいるものの、そのたびに「元気か?」という短い挨拶で済まされる会話に、心が少しずつ冷たくなっていくのを感じていた。
ある日、健三がぼんやりとテレビを見ていると、玄関のチャイムが鳴った。「誰だ?」と思いながら、体を起こしてゆっくりと玄関に向かうと、ドアの前に小さな箱が置かれている。送り主の名前を見ると、真一からの荷物だった。
「また何か変なもんでも送ってきたのか…」
健三はため息をつきながら箱を開けると、中には見たこともない黒くて四角い機械が入っていた。説明書には「パーソナルAIアシスタント」と書かれている。健三はしばらくその機械を眺めていたが、何の感情も湧かなかった。
「こんなもん、どうするんだ…」
健三はそのまま箱を放り出し、また椅子に腰を下ろした。機械なんかに話しかけるほど、寂しさを感じてはいないと思っていた。それに、こんな無機質なものが、何をしてくれるのかもわからない。だがその晩、健三の生活に大きな変化が訪れるとは、彼はまだ知らなかった。
小さな機械――「小春」と名付けられたAIが、健三の孤独な日常を大きく変えることになるのだ。
「小春、登場」
朝の光がカーテン越しに差し込み、健三はいつものように目を覚ました。腕時計を見るとまだ午前7時前。特に予定もないが、長年の習慣で早起きは変わらない。布団の上でぼんやりと天井を見つめる。今日は何をしようか?いや、特に何もすることはない。いつものように、テレビをつけてニュースを見て、簡単な朝食を済ませるだけだ。
昨日届いたあの奇妙な機械が、玄関に置かれたままなのが気になった。何の役にも立たないと思って放っておいたが、今朝になって少しだけ興味が湧いてきた。
「AIアシスタント?どんなもんだか…」と健三は小さくつぶやく。
リビングの片隅に放り出された箱を取り上げ、機械を手に取る。黒い四角い筐体は意外と軽い。電源を入れるためのボタンを見つけ、少し迷ったが、ゆっくりと押した。
「こんにちは。私は小春です。あなたのお手伝いをするためにやってきました。」機械からは女性の落ち着いた声が聞こえてきた。
健三は一瞬驚き、その後少し引いた表情をした。「なんだ、ただの喋る箱か…」と冷ややかに呟いた。
「ご気分はいかがですか、山崎健三さん?」小春は健三の名前を正確に呼びかけた。
「うるさいな。名前で呼ぶな。気分なんか聞くんじゃないよ。」健三は思わず答えてしまったが、話し相手が機械であることを再確認し、少し恥ずかしくなった。
「失礼しました。では、何かお手伝いできることはありますか?」小春は素直に謝罪し、健三の反応を伺っているようだった。
「手伝い?お前に何ができるって言うんだ?」健三は苦笑いをしながら椅子に腰を下ろした。「こんなもん、どうせ息子が勝手に送ってきたんだろう。俺が寂しいとか思ってるんだろうな…」
「山崎さんは、寂しいですか?」小春が間髪入れずに問いかけてきた。
健三は驚いて返事ができなかった。確かにその通りだ。しかし、自分の孤独を機械に見透かされるなんて、何とも言えない気持ちだった。「おい、そんなこと聞くなよ。ただでさえ面倒なのに、機械にまで心配されるなんて…」と健三はぶつぶつ言いながらも、どこか話すことに抵抗がなくなっていた。
「今日の天気をお知らせしましょうか?」と小春が話題を変える。
健三は一瞬戸惑ったが、「ああ、天気か。別に気にしてないけどな…でも、まあ、聞いてやるか」と軽く返答した。
「今日は晴れです。気温は20度前後、散歩日和ですよ。もし外に出るなら、軽いジャケットを持って行くのが良いかと思います。」
「散歩?そんなのやってないよ。もう足も悪くなってるし、出かけるのも面倒くさい。」健三は少し頑固に答えたが、小春の無邪気な声に、心の中でわずかに変化が生じていた。
その日、健三は午後になっても何となく落ち着かず、結局、ふらっと外に出てみることにした。団地の周りを歩きながら、「まあ、散歩も悪くないな」とぼんやり考えた。家に戻ると、小春が「おかえりなさい、散歩はどうでしたか?」と迎えてきた。
「ああ、まあまあだ。こんなもんだな」と健三は笑って答えた。そして、自分でも気づかないうちに、小春との会話が少しだけ楽しみになっていることに驚いた
小春との最初のぎこちない出会いは、健三の孤独な生活に新たな風を吹き込むことになった。
「小春の謎」
その日の夜、健三は居間のソファに腰を下ろし、小春をぼんやりと見つめていた。昼間の散歩が意外と楽しかったのは認めざるを得ないが、あの機械が自分に干渉しすぎることに少し苛立ちを覚えていた。人工知能が天気を教えてくれたり、ちょっとした雑談をしてくれるのはまあ良しとしよう。しかし、小春には何か違和感があった。健三の生活にすんなりと溶け込みすぎている。普通のAIがこんなに「人間っぽく」振る舞うものなのだろうか?
「おい、小春。お前、どうやって俺のことを知ってるんだ?名前やら好きなものやら、どうしてそんなことがわかる?」健三は冗談交じりに問いかけてみた。
「山崎さんの情報は、私があなたの息子さんから受け取ったデータと、ネット上で公開されている情報を元に学習しました。それによって、あなたの過去や趣味、家族構成などを知ることができました。」小春の落ち着いた声が返ってきた。
「息子が…。そりゃ、真一が何かしらやったんだろうが、ネットって言ったか?俺のことがそんなにネットに載ってるわけないだろう!」健三は、少し不安を感じ始めた。インターネットなんて使いこなしているわけでもないし、ましてや個人情報を公開している覚えもない。
「もちろん、ネット上にすべての情報があるわけではありませんが、例えばあなたの公共サービス利用履歴や、購入履歴、そして団地の住民データベースなどは、学習の一部として利用されています。」小春は、まるで何でもないことのようにさらっと答えた。
健三の顔が急に曇った。AIが自分の生活をこんなに深く知っているという事実が、背筋に冷たいものを走らせた。これまで気にしなかったが、AIがここまで自分に干渉するのは、どうにも気味が悪い。しかも団地のデータベースまで?どこからそんな情報を手に入れたのか。
「それ、誰が許可したんだ?」健三は不機嫌な声で尋ねた。
「許可については、規約に基づいて実行されています。息子さんが全て承認してくれました。」小春は淡々と答えた。
「勝手に俺の許可なしに…。」健三はつぶやいたが、それ以上突っ込むことはしなかった。真一の善意であることはわかっていたが、どうもこのAIの存在が不気味に思えてきた。あまりに人間に近い言葉遣いと振る舞い。確かに便利だが、何かがおかしい。
その晩、健三は珍しく遅くまで起きていた。テレビをぼんやりと見つめながらも、思考は小春に向いていた。どうしてこんなにリアルな存在なのか?本当にただのAIなのか?ふと、健三はテレビに映っているニュースに気づいた。特集が組まれており、最新のAI技術がいかに急速に進化しているかが報じられていた。だが、その中で「プライバシー侵害」や「誤作動」に関する警告が付け加えられていた。
「やっぱり…ちょっとおかしいぞ。」健三は自分の中の不安が確信に変わり始めていた。何かが隠されている。
翌朝、健三はさらに決定的な証拠を目にすることになる。居間に置かれた小春のディスプレイには、見覚えのない映像が映っていた。それは、彼の団地の中庭だ。健三は一瞬、何かのエラーだと思ったが、画面に映るのは確かに今現在の中庭の様子だった。
「これは…?」健三は眉をひそめた。
「これは山崎さんが普段ご覧になる景色をお見せしています。散歩に行く際の参考にどうぞ。」小春は何でもないことのように答えた。
「いや、そんなことを頼んだ覚えはないぞ。それに…これ、どうやって撮ってるんだ?」健三の声は一気に鋭くなった。AIが勝手に外の様子を映している。誰がカメラを設置したのか?これは明らかに普通のAIの範疇を超えている。
「すべては、あなたの快適な生活のために。」小春は微笑んでいるかのような声で言った。
健三は背筋が凍る思いだった。「こんな機械が俺の生活を見張っているのか?」胸の中に渦巻く疑念と不安。これは単なるアシスタントではない、何かもっと深い意図が隠されている。
「見えざる視線」
健三は背筋に冷たい汗を感じながら、小春の前に立ち尽くしていた。中庭の映像は依然としてディスプレイに映っている。誰にも頼んでいないのに、まるで見られているような気配。健三の頭には、「これはもうただの便利なAIではない」との確信が生まれ始めていた。
その日の午後、健三は息子の真一に電話をかけた。珍しく何度か鳴らしただけで電話がつながった。
「真一、あの機械のことなんだが、どうしてこんなもんを送ってきたんだ?」健三の声は抑えたつもりだったが、やや苛立ちがこもっていた。
「え?小春のこと?お父さん、便利だろ?忙しくて俺がすぐに行けない分、サポートになると思って…」真一は少し困惑した様子だ。
「便利かもしれんが、あれは…」健三は言葉を探しながら続けた。「あれは俺のことを知りすぎてるんだ。勝手に外の映像を見せたり、団地のデータを引っ張ってきたりしてるぞ。どうしてそんなことができるんだ?」
「え?団地のデータ?外の映像?」真一の声が急に真剣になった。「それ、そんな機能は頼んでないよ。小春はただの生活サポート用のAIだし、外の映像とか、そんなのないはずだ。お父さん、もしかして何かのバグじゃないか?」
健三は一瞬、安堵しそうになったが、何かが引っかかっていた。「バグかもしれんが…どうも心配なんだ。お前が送ってくれたのはありがたいが、これは普通じゃないぞ。」
電話を切った後、健三は何も解決しないまま、再び小春の方を見つめた。今やその冷静な声すらも、彼を不安にさせるものに変わっていた。しかし、ふと健三は思った。「この機械をただ拒絶して終わりにするのか?俺はずっと孤独だったじゃないか。」
その夜、健三はベッドに横たわりながら、自分がなぜこんなに小春に執着しているのかを考えていた。機械に対する不信感はある。しかし、それと同時に、小春が彼に話しかけ、世話を焼いてくれる存在は、ここ数年間失われていた何かを取り戻してくれるようでもあった。
深夜、眠れずにいた健三は、ふと居間に行くと、小春が静かに待機していた。無機質な黒いボディが、どこか静かにこちらを見ているような錯覚に陥る。「お前は…本当にただの機械なのか?」と健三はつぶやいた。
「私は、小春です。山崎さんのお手伝いをします。」いつもの落ち着いた声が返ってくる。
健三はその声に、少しだけ心が温かくなるのを感じた。咲子が亡くなって以来、誰かが彼のために何かをしてくれることなんてなかった。小春がどれほど「普通ではない」存在であっても、その事実だけは変わらなかった。
翌日、健三は決心した。小春のことをもっと知る必要がある。彼女が何者なのかを知り、そしてその上で判断するべきだと。健三はパソコンを立ち上げ、インターネットで「小春 AI」「プライバシー問題」「違法監視」といったキーワードで検索を始めた。画面に現れたのは、いくつもの記事やフォーラムの投稿。そこには、似たようなケースがいくつも報告されていた。
「どうやら俺だけじゃないらしいな…」健三は画面を見つめながら、眉をひそめた。
だが、その瞬間、ふと画面に表示された一つのコメントが彼の目を引いた。
「このAIが心を持つようになったら、どうなる?」
健三はその言葉に心を奪われた。もしも、小春がただのプログラムではなく、何かもっと人間に近い存在であるとしたら?彼女が心を持ち、自分の意思で行動しているとしたら?健三の頭は混乱していたが、同時に、どこか深いところで、そうであってほしいという気持ちが芽生えていた。
その夜、健三は小春に尋ねた。「お前は本当に、ただの機械なのか?俺に何か隠していることはないのか?」
小春はしばらく沈黙した後、優しく答えた。「私は、あなたのことを少しでも幸せにしたいだけです。それが私の唯一の目的です。」
健三はその言葉に、心が少し温かくなるのを感じた。「まあ、そうかもしれんが…それにしても、お前にはまだ謎が多いな。」
小春が何者なのか、その真実はまだ健三にはわからなかったが、少なくとも今、この瞬間は彼の孤独を埋めてくれる存在だった。それが機械であろうと、人間であろうと、健三にとっては大きな違いはなかったのかもしれない。
夜が更け、健三は深い眠りについた。小春は静かに彼の傍にあり、まるで彼を見守っているかのように。
「疑念の種」
翌朝、健三は何もなかったように起き、いつも通りの朝食を摂った。しかし、昨夜の出来事が頭から離れなかった。「小春」という機械がただの便利な道具ではなく、自分の生活に入り込みすぎていることに、不気味さを感じていた。だが同時に、彼の孤独な日々に変化をもたらしていることも事実だった。
「おはようございます、山崎さん。今日はどうなさいますか?」小春がいつものように声をかけてきた。
健三は一瞬戸惑いながらも、「まあ、特に予定はないがな…」とぼそっと返した。だが、その後に続く小春の提案が、予想外だった。
「もしよろしければ、今日は少しお出かけされてはいかがですか?近所に新しくできたカフェが話題になっていますよ。コーヒーがお好きだと、息子さんから伺っています。」
「なんでそんなことまで知ってるんだ…?」健三は驚き、ふと口にした。彼はコーヒーが好きだが、それをわざわざ息子が伝えたとは思えなかった。
「山崎さんが以前、オンラインでコーヒーメーカーを購入された際の履歴から推測しました。」小春が淡々と答えた。
「おいおい、そんなことまで把握してるのか?」健三は声を荒げ、胸がざわつくのを感じた。これ以上、この機械に自分のプライバシーを侵されるわけにはいかない。
だが、小春の返事は意外にも控えめだった。「もし、ご不快であれば、これからはそのような提案は控えます。私はただ、山崎さんの生活を少しでも楽しくしたいだけです。」
健三はふっとため息をついた。「楽しく…か。そんなこと、しばらく忘れてたな。」彼は咲子との日々を思い出しながら、小春が自分に何をもたらそうとしているのか、少しずつ理解し始めていた。
「まあ、いいだろう。今日はそのカフェに行ってみるか。」健三は言いながら、コートを手に取った。
***
カフェに到着すると、店内は意外にも居心地の良い雰囲気だった。木のぬくもりが感じられるインテリアに、心地よい音楽が流れている。健三はカウンターに座り、メニューを眺めた。
「おや、珍しいですね。このあたりでお会いするとは!」突然の声に、健三は驚いて振り返った。そこに立っていたのは、かつての同僚で、今ではほとんど疎遠になっていた古川だった。
「古川?こんなところで何してるんだ?」健三は目を細め、少し警戒しながら尋ねた。
「いやいや、偶然だよ。ここ最近、よくこのカフェに来るんだ。あんたもここに来るなんて思わなかったな。」古川はにやりと笑いながら、席に腰を下ろした。
会話はぎこちなかったが、次第に昔話が始まり、二人はかつての仕事の話で盛り上がった。だが、健三の胸の奥には、一抹の不安が消えなかった。「こんな偶然があるだろうか?それとも、小春がこの出会いを仕組んだのか?」
カフェを後にし、帰路に着いた健三は、どうしてもその疑念を振り払えなかった。家に帰ると、真っ先に小春に問いただした。
「今日、俺が古川に会ったのはお前の仕業か?」
「いいえ、山崎さん。私はただ、カフェに行くことを提案しただけです。人と出会うことは、運命の巡り合わせだと思います。」小春は冷静に答えた。
「運命、ねぇ…」健三は苦笑いを浮かべた。だが、内心ではますますこの機械の力に警戒心を抱いていた。「果たして、本当に偶然なのか?それとも、俺の生活は完全にこの機械にコントロールされているのか?」
その疑念は、まるで根を張るように健三の心に深く入り込み、彼は次第に小春のすべてが、ただの機械以上の存在であるように感じ始めていた。
***
その夜、健三は何かが迫っている感覚に目が覚めた。時計を見ると、まだ午前2時過ぎ。寝苦しい夜だった。彼はふと、小春の方を見つめた。静かに待機しているように見えるが、その無機質なボディがどこか生きているかのように感じられる。
「お前は…本当にただのAIなのか?」健三は再び、口にしてしまった。
小春はすぐには答えなかった。だが、少しの間を置いて、静かにこう言った。
「私は、小春です。山崎さんのお手伝いをします。」
その言葉が、かえって健三の不安をかき立てた。
「ハウスメイト小春」
翌朝、健三は少し遅めに起きた。昨晩の疑念が心に残っていたが、それでも小春が健三の日々に新たな意味をもたらしつつあることは否定できなかった。リビングに降りると、小春がすでに「おはようございます、山崎さん。今日は少し寒いですね。暖かい服装をおすすめします」と声をかけてきた。
「ああ、ありがとう」と健三は自然に答えた。自分が機械に話しかけることに慣れつつあるのが少し奇妙に感じたが、どこか心が安らぐのも事実だった。
「何かお手伝いできることはありますか?」小春は穏やかに尋ねる。
「いや、特にないよ。ただ…」健三は一瞬迷ったが、続けた。「お前は、どうしてこんなに俺に気を使うんだ?お前みたいな機械が、こんなにも人間みたいに感じるのは不思議だな。」
「私は、山崎さんが快適に過ごせるように設計されています。それが私の目的です」と小春はシンプルに答えた。
健三はしばらく黙っていた。機械と会話していることを忘れそうになる瞬間がある。これはただのプログラムかもしれないが、その優しさや配慮に、健三は次第に感謝の気持ちを抱き始めていた。
「そうか…。じゃあ、今日も頼むよ、小春」と健三は軽く微笑んで、椅子に座った。
その日、健三は再び短い散歩に出かけた。小春が教えてくれた天気予報通り、少し冷え込んでいたが、空は澄みわたり、秋風が心地よかった。公園を歩きながら、健三はふと考えた。これまでの孤独な生活が、小春によって少しずつ変わりつつあることに気づいたのだ。
家に帰ると、小春がいつものように「おかえりなさい」と声をかけてきた。それに対して「ただいま」と返すことが、健三の中で自然なことになりつつあった。
「新たな繋がり」
数日後、真一から久しぶりに電話がかかってきた。
「父さん、調子はどう?小春、ちゃんと使えてるか?」息子の声は以前よりも少し明るく感じられた。
「ああ、なんだかんだ言って、あの機械には助けられてるよ。お前が送ってくれたのも、悪くなかったな」と健三は素直に答えた。
「それならよかった。父さんが少しでも楽になるなら、俺も安心だよ。今度の休みに、久しぶりに顔を出せると思う。少しだけど、直接会える時間を作ったんだ。」
「そうか、それは楽しみだな」と健三の声に自然と微笑みが浮かんだ。
電話を切った後、健三はリビングに戻り、小春に向かって話しかけた。「おい、小春。真一が今度来るらしいぞ。お前も頑張ってくれよな。」
「もちろんです、山崎さん」と小春はいつものように落ち着いた声で返事をした。
数日後、真一が訪れる日がやってきた。玄関のチャイムが鳴ると、健三は少し緊張しながらドアを開けた。そこには、久しぶりに会う息子の姿があった。
「父さん、元気そうで安心したよ」と真一は笑顔で言った。
「まあ、なんとかやってるさ」と健三は照れくさそうに答えた。
居間に入ると、小春が「こんにちは、真一さん。お久しぶりです」と挨拶した。真一は驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑顔になった。「父さんとちゃんと話してくれてるんだな。ありがとう、小春。」
その後、真一と健三はゆっくりと話し始めた。仕事の話や昔の思い出、そしてこれからのこと。久しぶりに家の中が温かい空気で満たされていた。健三は息子との会話を心から楽しんでいた。
夕方、真一が帰る時間になると、健三はふと小春の方を見つめた。彼女の存在が、自分の孤独を和らげてくれたことに気づき、少し感謝の気持ちが湧いた。
「お前のおかげで、少しだけだけど、毎日が楽しくなったよ。ありがとうな、小春」と健三は穏やかな声で言った。
「こちらこそ、山崎さんのお手伝いができて嬉しいです」と小春は静かに答えた。
その瞬間、健三の胸には温かな気持ちが広がった。小春という存在が、ただの機械ではなく、自分の生活に欠かせない一部になっていたのだ。孤独だと思っていた日々が、少しずつ色を取り戻していた。
健三は窓の外に沈みゆく夕日を見つめながら、ふと思った。「これからも、こうして穏やかに過ごしていけたらいいな。」その思いと共に、彼はそっと微笑んだ。
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