人はおなじ場所で質量を変えながら歳をとる。
今日(2021/2/1)は節分らしいです。
立春の日が今年は3日なので2日が節分になるそうです。明治時代から数えて124年ぶりだそうで、驚きです。
2月2日は私の誕生日です。
誕生日も二十四節気にあわせて調整していったら決まった日にはならないのかもしれません。人間の成長にあわせて日程を調整することになるのかな。(逆はむずかしいよね。。)
これまで不思議に感じていることが2つあります。
一つは物心ついた時から気になっている、「私は私を見ることができない」という事実です。
自分の存在、肉体を客観的に「見る」ことはどうやってもできない。
鏡は反転した世界だし、他人が自分を見るように自分自身という存在を物理的に「見る」ことはできない不思議。
「私は私である」という自認がありながら、決して見ること、客観視することができない矛盾。
もう一つは、最近特に不思議に感じていることで、「人は同じ場所で質量を変えながら歳をとっていく(成長していく&衰えていく)」ということ。
その地面を踏みしめている足の裏からずっしりと体をのせて、「私」という存在のあるその場所で、同じ場所で、質量だけ変えて齢を重ねていっている。
20年前0歳だった人は20年後、その同じ場所で、手足が長くなり、成熟し、大きくなっている。「私」という存在を許容する「身体」はそこにあり続け、また同じ場所で成長していく。
記憶の中では文節的にみえている風景も、その同じ場所で起こってきた出来事や感情の集積であって、また同時にそれらの出来事や記憶は「私」という存在の「身体」を通り過ぎていく。
蓄積と忘却が繰り返されている。
そんな自分という存在の輪郭を、成長とともに、知識を蓄えるとともに、掴んできたとおもっていたけれど、年齢を重ねた「私」はその輪郭を本当にとらえられてるんだろうか。
というか、確固とした「私」である必要はそもそもあるんだろうか。
答えはない。
大学の卒業論文も似たようなテーマで、「わたし」という存在の成熟と変容に触れるようなものだった。(アート表現やクロニクルな表象文化とともに)
自分と他者の関係性や所属するコミュニティ、縁の輪が変化していくことで「私」という存在そのものも変化していくというものだったと思う。
ふと、こういう感覚をずっともって生きてきているんだな自分、と感じる。
大学卒業直後に友人と共同開催したアートイベントはwifiがなかった当時にして、遠隔地の会場同士をつなげる企画だった。
「離れてもつながっている」
その感覚もまた常々もって生きてきている。
「私」という存在をどこか遠くの星から眺めているような感覚と「離れてもつながっている」感覚。
いつの間にか自分のなかにインプットされている不思議であり、同時に自分なりの真実なのかもしれない。
あと何十年?死ぬまで?この感覚とともに生きていくんだろうか?
個人的な、永遠のテーマなのかもしれない。
だからこそ、人と人、コミュニティとコミュニティの狭間に身を置いて、それらをブリッジすることで得ていることは私にとっては巨大なgainなんだろう、きっと。でも有難いことにそのgainに対するpainは少ない。むしろ、結果的に喜びが大きい。
"You are a people person."
以前友人に真摯に言われた言葉。
直訳すると「人々の人」、人たらし?人の中にいることを生業とする人?
今あらためて、多様なコミュニティ同士、人同士をむすびつけるHUBとしての自分自身の役割を感じているのは"people person"だからなのかもしれない。
意識する前に他者が「私」という存在の輪郭を気づかせてくれていたんだ。
人と関わることは難しいこともあるのかもしれない。でもそれはいつも自分自身のリフレクションでもあって、コミュニケーションの密度と精度にもよってくる。この尺度を更に磨いていきたいとおもう今日この頃だ。
残りの人生も自分の役割を果たして、半径1Mの人間関係を起点に、遠隔(リモート)の”向こう側”まであたたかな時間と空間で満たしたい。
「離れていてもつながっている」「共に生きること」をしっかり実践していきたい。
誕生日前に密やかに湧き上がった乱文、今ここで、見かけた方がいたとしたら、お付き合いありがとうございますm(__)m (超個人的な書き物なので公開されたら?削除しちゃうかもしれません(^^;)
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