見える傷痕、僕の想い
「すいませ〜ん、お話しを伺っていいですかぁ」
名前だけは知ってるある雑誌の記者が話しかけて来た。
「お母さんと息子さんですよね、随分と仲がいいなぁ。親子で原宿デートって感じですかぁ?」
こういった話し方をする人間が僕は好きではない。
しかも勘違いしている。
「家内です」
「は?」
「だから僕の家内です。母親ではありません」
その記者は、家内のことをジロジロと見始めた。
これだけでも十分失礼だと思ったが、
「何歳離れてるんですかぁ。ご主人のお母さんと同じ歳くらい?」
僕は家内の手を取ると
「葵、行こう」と云った。
「奥さんとの馴れ初めは?まさか
マッチングアプリとか?」
それにしても頭の悪そうな記者だと思った僕は、立ち止ると云ってやった。
「むかし僕が家内に一目惚れしたんです」
そいつは、信じられないといった顔で、また家内を見てる。
心底、礼儀知らずなヤツだ。
「ずっと僕の片想いだったけど、ようやく実って結婚出来ました。幸せです!では」
茫然と立ち尽くす記者を残し、僕らはサッサと立ち去った。
と思ったら、葵はパタリと立ち止まり、振り返って記者を見た。
「失礼にも程がありますよ記者さん。おたくの雑誌も面白くないし、何より鏡を見たらいかがですか」
「葵、いいから行くぞ」
僕は家内の手を引っ張ると早足で歩き、その場から離れた。
威勢よく記者に云った割に、葵は下を向いて歩いている。
家内の性格を知ってる僕は、
「気にしちゃダメだぞ」
そう声をかけた。
家内は下を向いたまま、小さなタメ息を付いた。
「私は何を云われても構わない。
けど、蒼太に悪くて……ごめんね」
「葵、いつも云ってるだろう?堂々としてていいんだから。それから僕に謝るのは変だよ」
葵は沈んだ顔を上げて僕を見ている。
「だってそうだろう。プロポーズした時、葵は『NO』と云ったのに僕がしつこく粘って、ようやく結婚してくれたんだから」
「……やっぱり間違ってたんじゃないのかな。私みたいなおばさんと
蒼太は結婚したらいけなかったんじゃ……」
僕が怒っているのを知ると、葵は黙ってまた下を向いた。
「俯かないの。下じゃなくて上を見なさいってクラスの皆んなに云ったのは葵のほうだっただろ」
葵はポタポタと涙を地面に落とし始めた。
「泣かないの。全くもう」
そう云いながらハンカチを出すと僕は家内の涙を拭いた。
「どこかで一息つこう。喉も渇いたし」
「甘いものも食べたいし」
「それは云ってないぞ」
家内は、クスッと笑った。
やれやれ手のかかる奥さんだ。
そう思いながらも僕は嬉しかった。
大切な人の笑顔ほど、かけがえのないものは無いのだから。
空いてる席に僕らは座ると店の人がオーダーを取りに来た。僕はブレンドを、家内はアイスコーヒーを頼んだ。
家内は、僕が小学5年の時に、担任だった先生だ。
初めて葵を、先生を見た時から、僕は気になって仕方がなかった。
後になって、この感情こそが、自分は先生のことが好きだからなんだと気付いた。
目の前でアイスコーヒーをストローで飲みながら、満足そうに、マフィンを頬張っている家内が僕にとっての初恋の人だったのだ……いつの間にマフィンを注文したんだ?
「美味しそうだな」
「とっても!蒼太も食べて」
そう云って葵は、マフィンをナプキンに乗せた。
「じゃあ遠慮なく。って何かおかしくないか?まぁいいや」
外はサクッと、中はしっとりしてる。
(自分は、食レポに不慣れなアナウンサーのようだと思った)
マフィンはオレンジの香りがした。
「美味しでしょ」
「うん、美味しいな。これはアメリカン・マフィンっていうんだろ?」
葵は驚いた様子だ。
「その顔は、まさか僕が知ってるとは思わなかったんだろ?」
葵は、さかんにうなずいている。
僕は照れながら、ネタばらしをした。
「たまたまなんだ。会社の女の子が食べてたから訊いたんだよ。
『それ、カップケーキでしょ』って。
そしたら教えてくれたんだよ」
葵は安心したように笑顔になった。
何故、安心するのかは謎だが。
「マフィンの発祥はイギリスなんだけど、それはパンのようなマフィンなの。アメリカにマフィンが渡って、カップケーキみたいなマフィンになったそうよ」
葵はふふっと笑うと、続きを食べ始めた。
その顔には傷が何箇所もある。
首にも背中にも。
火傷の痕もだ。
全て葵の別れた元夫がしたことだ。
DV、パワハラ男が葵に残した傷痕だった。
葵の父親も同じタイプの男で、暴力を受けながら彼女は育った。
なのに結婚相手まで……。
苦しみの中で葵は何故、こんな風になってしまったのか。
心理学などの本を読み漁ると、判ったことは恐ろしい事実で。
「蒼太、珈琲が冷めちゃうわよ」
その声に僕は我に返った。
「そうだね」
僕はカップを口に運んだ。
店を出ると、まだ冬が残る3月始めの夕暮れが、直ぐそこまで来ていた。
「蒼太、また考えてたんでしょう」
僕は黙っていた。
上手いウソが浮かんで来ない。
「私の傷痕や、アザを見て暮らしてたら、考えてしまうのは当たり前なのかもしれないよね」
もう直ぐ、ビルの間に沈む、昼間ほどの力の無い太陽を見ながら寂しそうに葵は呟いた……。
父のような人とは自分は絶対に結婚しない!
そう思いながら育った女性たち。
けれど現実は逆になってしまうことが多いと訊く。
【この人は父とは違う】
そう信じて一緒になった男性が、実は父親と同じ性格の人間だったという女性は多いと知った。
葵が正にそれだった。
涙が出そうなのを我慢して、僕は葵の肩を抱いた。
彼女は、ゆっくりと僕に体を預けて来た。
「僕は葵を大切にするから。この先もずっと。だから大丈夫だよ」
「『大丈夫』……私が子供の頃からずっと、誰かに云ってもらいたかったのは、その言葉だった。ようやく云って貰えた」
葵は僕の胸に顔を埋めると、声を出さずに、静かに泣いた。
歩道橋の下、山手線が通り抜けて行った。
守りたい人が居ることの、幸せを僕は感じていた。
胸の奥のほうまで、その想いが
届くのを僕は見たんだ。
しっかりと、心の目で。
了
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