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消えないで
「今夜もキミは、あの星を眺めているんだね。よほど気に入ったようだな」
僕は、このところ窓に広がる宇宙に夢中だった。
正確に云えば、その中の(ある1つの星)に心を奪われている。
「キミを惹きつけて止まない星の名前は地球という名だ。行ってみたいかい」
「あの青い綺麗な星、地球。行きたい。先生、僕は行ってみたいです!
でも……」
「ここに戻れるか心配しているのなら大丈夫だ。帰って来れる。その時期も自分で判るだろう」
ポチャッ
「また池ポチャだよ。亨は本当にキャッチボールが下手だな」
「お兄ちゃんの教え方が悪いんだよ」
「あ、口答えした。もうお前とはキャッチボールはしないからな。ボールも拾っておけよ」
兄の悟はサッサと行ってしまった。
「だってそうなんだもん」
亨は用意して置いた虫取り網で、池に浮かぶボールを掬い上げた。
コンクリートの壁でキャッチボールをしたいが、以前マンションの住人に怒られてしまったので、もうやらないことにした。
辺りは薄暗くなり始めた。
亨は、僕も家に帰ることを選べるけど、そんな気持ちにはなれない。
まだ遊びたい。
そう思った。
「僕1人で遊べることってないのかな。そうだ、公園に行ってみよう。
誰かいるかも知れない」
急いで走り出した。
公園に着いた亨は肩を落とした。
誰もいない。
僅かに揺れてるブランコからは、
さっきまで誰かが漕いでいたのだろうと亨は思ったが、風が揺らしてるだけだった。
人間の遊ぶ時間が終わると、次は風の遊ぶ時間が訪れる。
滑り台も、ジャングルジムも人間の温もりが冷めると風の順番になる。
砂場には、誰かが忘れていったシャベルがあった。
亨は、砂のトンネルを作ろうかと思い付いたが、でもそれは、たいして楽しくないだろうと予測が付くのも早かった。
彼の脚は、いかにも仕方がないといった様子で、家の方を向いた。
わざと、大きくため息を付いてみても、慰めてくれる人は誰もいないし、一緒に遊ぼうと呼び止める声も聴こえない。
空には星が姿を見せ始めた。
日暮が早くなり、嫌でも夏の終わりを感じさせる。
「お母さんは怒るだろうな。帰りが遅くなったから絶対に怒るに決まってる」
あの時、お兄ちゃんと帰れば良かった。
力のない歩き方で亨は家に向かって進んでいく。
「あら、亨ちゃん。こんな時間に外にいたら駄目でしょう。お母さん心配してるわよ」
途中で会った近所のおばさんが、困ったような顔をしている。
そんなの云われなくても判ってるよ。
亨は、ますます元気のない足取りになってしまった。
前から犬に引っ張られるようにして散歩をしている女の子がやって来る。
亨は犬が大好きだ。
だけどこの時は道の端に避けた。
それくらい、芝犬のパワーは凄かったからだ。
「嬉しい!」というエネルギーが犬の体全体から放射されてる。
「あれじゃあボスは完全に芝犬の方だな」
亨がそれを目撃したのは、焦って走る女の子が自分の前を通り過ぎた時だ。
「今のはなに」
そう思った亨は咄嗟に振り返った。
遠ざかって行く女の子の後ろ姿。
その体は透けていた。
「こんなことって」
目を擦ってもう一度見たけど、やっぱり女の子は輪郭だけ残して全部が透明になっていた。
「うわぁ!」
そう叫んで、亨は全力で走った。
早く帰らなきゃ!早く!
怖い!
そして家に着くと靴を脱ぎ捨て、
「お母さん!お母さんてば!」
大声を出しながら走り回った。
「なに、大きな声で。どうしてこんな時間まで遊んでたの!いつも云ってるでしょう。心配させて!」
「お母さん、人間の体が透明になるって知ってた?」
「透明?何がですって?」
お母さんは、そう云ってお兄ちゃんを見た。
お兄ちゃんは首を横にふった。
「亨、あなた大丈夫?」
「なにが」
「もういいから自分の部屋で、大人しくしてなさい」
「僕まだご飯を食べてない」
「あぁそうだったわね。食べたらベットに入りなさいよ」
「ゲームをしてからでいいでしょう?」
「いけません。ゲームのやり過ぎかもしれないんだから」
亨は、不貞腐れながら、夕飯を食べた。
そして悟を見て
「お兄ちゃんは見たことあるよね?人が透けちゃうの」
「あるわけないさ。そんな変なのを見るなんて亨だけだろ」
僕だけって、そんなの嫌だよ。
だって不公平だもの。
あんな怖いのを見たのが自分だけだなんて、絶対に不公平だ。
あ、思い出しちゃ駄目だ。
また怖くなる。
もう忘れる。
絶対に忘れる。
部屋に行こうとしている亨に、悟が云った。
「お前さ、そんなこと誰にも話すなよ。頭がおかしい奴だと思われて、友達が一人も居なくなるのがオチだぞ」
亨は何も云わずに部屋に戻った。
勢いよくベットに座ると、枕を抱き抱えた。
何かを掴んでいないと。
手ぶらでいるのが心元なかったからだ。
享はチラッと木製のラックに目をやった。
そこには大好きなスヌーピーとウッドストックのぬいぐるみが、並んでいる。
亨は枕を戻し、スヌーピーとウッドストックのぬいぐるみを両手で抱えることにした。
去年の8月に、お父さんとお母さん、そして亨の3人でスヌーピーミュージアムに行った時に買ってもらった、僕への誕生日プレゼント。
因みに亨はスヌーピーと誕生日が同じなのが自慢だ。
悟は興味がないからと、行かなかった。
あんなに面白いところに行かないなんて、お兄ちゃんは受け取れたはずの幸運を、自ら無視したのと同じだ。享は今でもそう思う。
「僕は10歳だ。だからもう子供なんかじゃないのは、自分でも知っているんだ。だけどそれとスヌーピーやウッドストックが好きなのは別のことだ」
そう云うと、亨は口を継ぐんだ。
「誰が何と言おうと別のことだ」
暫くしてそう付け足した。
その夜、彼は親友を抱いたまま眠った。
翌日、亨は寄り道をしないで、真っ直ぐに帰宅した。
お母さんに、いいところを見せておく作戦だ。
でも何だか、お母さんの元気が無いように感じた亨は、心配になった。
「お母さん、病気なの?」
そう訊かれて、母親は亨に云った。
「ううん。病気じゃないわ。心配させちゃってごめんね」
「じゃあ、どうして元気がないの?」
彼女は、その質問には答えず、
「亨、道路を渡る時は、くれぐれも注意してね。約束ね」
それだけ云うと、お風呂場に行った。
「昨夜はお風呂掃除をしないで寝ちゃったから」
母親の背中を見ながら亨はボソッと呟いた。
「何でそんなこと云うんだろう。僕はちゃんと、横断歩道を渡ってるのにな」
「ただいま」
兄が帰って来たので、亨は今のことを話した。
「ああ……」
それだけ云うと、悟は視線を西陽の当たった床に落とした。
「お母さんと仲がいい人の娘さんが、車に跳ねられたんだ」
亨は何も云えずにいた。
「でも、助かったんでしょう?」
やっとのことで悟に訊いた。
兄は首を振ると、
「散歩させていた犬だけは無事だったって」
散歩をしていた犬……。
こんな時、大人は何を話すのだろう。
亨は無理矢理、頭を働かせてみたが、自分が何を喋ったらいいのか欠片すら見つからなかった。
その夜は、深夜になっても亨は眠れずにいた。
芝犬に引っ張られていた女の子のことを、壊れたビデオデッキのように、同じシーンばかりを亨は見せられている。
体が透けていった、あの女の子。
そのことが亨には、あれは知らせてたんだ。
もう直ぐここから居なくなるというサインとしか思えなかった。
普通なら、見ることの無い、そのサインを、亨は見たのだ。
何で僕だけ。
もっと早く家に帰るべきだった。
そうすれば女の子の、透けた体を見ずに済んだのに。
亨は親友に訊ねた。
「僕がいけないんだと、キミはそう思う?」
するとスヌーピーは、こう答えた。
「さあ。そんな難しいことがボクに判るとキミは本気で思ってるのかい?」
亨は同じことを、今度はウッドストックに訊いた。
彼はたくさん喋ったけど、何を云っているのかが判らなかった。
「寝ることにしよう」
今夜も亨は、親友と一緒にベットに入った。
その後も亨は、体が透けてる人を2回、目撃した。
だからといって、自分に出来ることなんて無いことを知るだけだ。
その時の気持ちは最悪だった。
ある日、亨と悟はプールに行くことにした。
季節は、とっくに真夏になっていた。
近所の中学が、プールを開放していたので、お金はかからない。
その代わりに、たくさんの人が集まるので、泳ぐことは出来ず、水に浸かりに来たみたいだ。次からは無料じゃなくてもいいから、遊園地にあるプールに行くようにした。
広いので、大勢の人が訪れていても、泳ぐことが出来る。
気持ちがいい。
亨は泳ぐのが下手なので、見かねた悟が教えてくれることになり、キャッチボールの時とは違って、25mを、一度も休まずに泳げるようになるまで、余り時間はかからなかった。
「苺とメロンのかき氷をください」
2人は園内にある店でかき氷を食べ、泳いだからお腹も空いていたので、フランクフルトも買うことにした。
この時、悟が亨のフランクフルトに
大量のマスタードをかけたことがきっかけで、殴り合いになる寸前までの険悪な空気になったが、お店の人が止めに入ってくれたので、
喧嘩は回避される。
時間は午後4時半になっていたので、ロッカー室で着替えをし、帰ることにした。
亨と悟は商店街を突っ切り、駅に向かうことにした。
お惣菜のいい匂いがして、亨はハムカツを2つ買って、悟と食べながら駅に向かうことになった。
「泳いだ後って、凄く腹が減るな」
食べ足りない悟は、そういい、亨も口いっぱいにハムカツを詰め込んで頷いた。
美容院の前を通った時、亨はショウインドウに映っている自分をみた。
亨の体は、霞がかかったように、ぼんやりとしていた。
(ここに帰る時期も自分でも判るだろう)
「お兄ちゃん!」
「あゝ、びっくりした。どうかしたのか」
悟は振り返って、亨を見た。
「ううん、何でも無い」
「脅かすなよ」
「ごめんなさい」
翌朝には、亨の姿はどこにもなかった。
「お帰り、地球は楽しかったかね」
「はい、とってもたのしかったです」
「その割には冴えない顔をしてるが」
「……先生、地球で出会った人は、僕が居なくなって寂しがってるんじゃないですか?」
「それは大丈夫だ。キミと接触した人間達の記憶は消された」
「そうですか……」
「よほど楽しく過ごせたようだね」
男の子は黙っている。
その瞳は涙で潤んでいた。
「安心しなさい。ここでまた会える」
「えっ」
「人間はみな、必ずここに戻るように
プログラムされている。そして次に行く場所もここで決めるんだよ」
男の子は驚いた顔で先生の顔を見た。
「車に跳ねられた女の子もここに来ている。探してもいいが、広いから大変だぞ」
「キミとお兄ちゃんは、気もあうようだから来世でも、近しい間柄として生まれる可能性は高い。今度はキミが兄になるかもしれないよ」
「先生、来世では、僕は芝犬として生まれたいです。そしてお兄ちゃんのことを引っ張て慌てさせるんだ」
それを訊いた先生は、愉快そうに笑った。
了
「
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