意味づけスローガンのカバー画像

人はなぜ情報不足でも自信満々なのか?

はあちゅうさんは、すごい。多数の人々から共感される理由を考えるため、ノーベル賞を受賞した心理学者ダニエル・カーネマンの本『ファスト&スロー』を参照したいのだが、その前にまずはあちゅうさんの素晴らしさを確かめるきっかけとして、このツイートを読もう。

出典:https://twitter.com/ha_chu/status/1051425328772444160

出典:https://twitter.com/ha_chu/status/1051428058937286656

私はこの上に「はあちゅう」さんのTwitterの投稿(ツイート)を掲載しました。皆様はこの上にツイートが見えますか? Internet Exploreでnoteを閲覧すると、ツイートが見えないこともあるらしいので、Google Chromeなどの他のブラウザを使ってください。noteの仕様のようです。この上にはあちゅうさんのツイートが見えた人は、そのまま読み続けてください。

話を元に戻すが、私も、既に終わったことを何度も思い出して落ち込むタイプだ。

「それは落ち込むことを楽しんでるの。落ち込むのが好きだからついやっちゃうのよ。もっと好きなこと見つけると、落ち込む時間がもったいなくなるよ」

しかし私は、この言葉を読んでもまったく楽にならない。まったく共感できない。

どうして「落ち込むことを楽しんでいる」と判断したのだろう?はあちゅさんは「自分を苦しめている」と書いている。どうして苦しめることを楽んでいるのだろう?

「もっと好きなこと見つけると、落ち込む時間がもったいなくなるよ」との言葉があるが、私は好きなことややりたいことが大量にある。それでも落ち込む。時間がもったいないなあと思いながら、落ち込む。

しかし、はあちゅうさんのツイートは2件合わせて4000回以上「いいね」されたのだから、多くの人を共感させ、納得させる力を有していたのだろう。

それでも私は共感できない。私は共感できないからこそ、興味がある。共感できないからこそ、ワクワクする。

ここで私は、はあちゅうさんに反論したいわけではない。はあちゅうさんを賞賛したいのだ。はあちゅうさんは、意味づけの天才だ。

私は他にもはあちゅうさんのnoteやTwitterを読んでいるが、はあちゅうさんは頻繁に意味づけをしている。自分の感情や行動に対し、「楽しんでいる」「もったいない」「人生は全て自分次第」という、価値の評価や重みづけをしている。態度や姿勢や心構えのようなものを重視している。そしてツイート1件だけで何千回も「いいね」とリツイートをされている。

先日、はあちゅうさんがnoteに投稿した文章のタイトルは「才脳は何もないところから作るものなんだ」だった。

はあちゅうさんは意味づけが得意だ。

しかし、私は意味づけが苦手だ。私はまず意味づけの前に事実を知りたいと思ってしまう。

落ち込みやすさを例にして説明しよう。

私が自分個人について考える場合は、「いつ・どこで・だれが・何をしたことが原因で、今の自分が落ち込んでいるのか」を考える。

私の場合は、自分個人だけでなく、個人差も考慮する。落ち込むかどうかについては、遺伝的要因も影響するはずだ。ゲノム解析をすれば何か発見があるだろうか?落ち込みやすさは発達障害や精神疾患と関係があるだろうか?環境要因や生育歴、睡眠時間や栄養バランスも要因だろうか?空間の酸素・二酸化炭素・一酸化炭素の濃度も影響するだろうか?

そして解決策は何だろう?人間関係の変化、コミュニティの変化、医療機関の受診、栄養、ソーシャルスキルトレーニング、・・・・どれが最適だろうか?

もし私なら、そう考える。

もう一度書くが、私ははあちゅうさんを批判したいわけではない。はあちゅうさんの意味づけに拍手を贈りたい。決して嫌味や皮肉ではない。

この文章で私は「落ち込むこと」について考えたいわけでなく、「意味づけ」について考えたいのだ。

おそらくはあちゅうさんのツイートは、科学的な正しさ、心理学や社会学の知見はどうでもよくて、スローガンのように自分を鼓舞し、気分を盛り上げることが目的なのだ。

皆さんの身の周りにも似た例があるだろう。

「練習は嘘をつかない」「行動はきっとよい結果をもたらす」「自分の人生を切り開くのは自分だ」などの言葉は、文字通りそのままの意味ではなくて、それを信じることで自分を鼓舞して目標に向かって力を出すことができる、という機能があるのだ。

つまり「正しさ」は私たちの心の中にある。「正しい」と思えば「正しい」ということになるが、「間違っている」と思えば「間違っている」ということになる。自己成就するのだ。それらの言葉は、現実ではなく、理想なのだ。

このような言葉をまとめて「意味づけスローガン」と呼ぼう。今、私が名付けた。えい、えい、おー!


ここで視点を変えてみよう。

結論を先に書くと、私ははあちゅうさんの発言が多数の人々から共感される理由の一つに、「はあちゅうさんの発言が、人々の脳の機能と合致したから」ということがあると考えている。

『ファスト&スロー』という有名な本がある。筆者はノーベル経済学賞を受賞した心理学者であるダニエル・カーネマンだ。『ファスト&スロー』は上下巻に分かれており、かなりのボリュームがあるが、猛烈にお薦めだ。

ものすごく単純化すると、『ファスト&スロー』の主旨は「人はだれでも間違った判断をしてしまう」ということだ。

ダニエル・カーネマンは心理学の研究を基に、人の脳の中にある二つのシステムを「システム1」と「システム2」と呼んで整理した。

簡単にまとめると、システム1は自動的に働く速いシステムで、システム2は注意力を伴う遅いシステムである。人は自分でシステム1をコントロールしているという自覚はない。複雑な事柄を考えるとき、システム1はシステム2に判断材料を供給し、最終的にシステム2が結論を出す。

『ファスト&スロー』の中では、システム1の機能に起因する様々な錯覚やバイアスが解説されている。

その中の一つとして、「人は数の大小や統計よりも『もっともらしさ』を重視する」という性質がある。

長くなるが、引用する。

ほとんど何も見ていなくても、もっともらしい説明ができれば人々は自信たっぷりになる。こうしたわけで、判断に必須の情報が欠けていても、それに気づかない例があとを絶たない。
(ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』上巻第7章、p.160、ハヤカワ・ノンフィクション文庫、2014年)
何にでも意味づけをしたがるシステム1の作用によって、私たちは世界を実際よりも整然として、単純で、予測可能で、首尾一貫したものとして捉えている。(中略)こうした錯覚は心地よい。事態がまったく予測不能だったら感じるはずの不安を和らげてくれるからだ。私たちはみな、勇気づけられるメッセージを必要としている。行動はきっとよい結果をもたらすとか、知恵と勇気は必ず成功で報われるとか。まさにこのニーズに応えてくれるのが、ビジネス書である。
(前掲書第19章、p.359)
企業の成功あるいは失敗の物語が読者の心を捉えて離さないのは、脳が欲しているものを与えてくれるからだ。それは、勝利にも敗北にも明らかな原因がありますよ、運だの必然的な平均回帰だのは無視してかまいませんよ、というメッセージである。こうした物語は「わかったような気になる」錯覚を誘発し、あっという間に価値のなくなる教訓を読者に垂れる。そして読者の方は、みなそれを信じたがっているのである。
(前掲書第19書、p.364)

そうなのだ。脳の機能なのだ。

「練習は嘘をつかない」「行動はきっとよい結果をもたらす」「自分の人生を切り開くのは自分だ」―これらの「意味づけスローガン」は、もっともらしさがあり、物語の流れがなめらかで、受け手の感情が盛り上がるから、人々に支持されるのだ。

「目標を達成した人が何人いて、達成しなかった人が何人いたのか?」―そんな数の大小を考えようとしない。偶然や運や平均回帰を考えようとしない。

それが人の錯覚やバイアスだ。

錯覚やバイアスと表現すると悪い意味になるが、ときには現実を自分にとって都合のいいように解釈することも必要だ。達成が困難な目標があっても、意味づけをおこない、スローガンを掲げて自分を奮い立たせ、目標に向かって走る。素晴らしいことだ。嫌味や皮肉ではなく、本当に素晴らしいと思う。

だからはあちゅうさんのnote、Twitter、本が多数の人に読まれ、共感されるのだろう。

はあちゅうさんはTwitterで「全ての感情も行動も、自分で作り出してるものだ」と書いた。しかし、社会学の分野や、ダニエル・カーネマンを含む心理学の分野からは、「個人と社会との間に相互作用があり、個人は自分の脳の機能を把握できず、自分の行動や感情の理由を本人でさえも把握できないことがある」と示されている。

つまりマトリョーシカのような入れ子構造になっている。「全ての感情も行動も、自分で作り出してるものだ」というはあちゅうさんの意識は、自分で作り出しているわけではない。ここにも、錯覚やバイアスがある。

そして今この文章を書いている私は、どのような錯覚やバイアスを抱えていて、何に対してどのような意味づけをしているだろう?

そして今この文章を読んでいる読者の皆様は、どのような錯覚やバイアスを抱えていて、何に対してどのような意味づけをしているだろう?


以上です。


連載企画「街河ヒカリの対話と社会」について

誰もが日常的に体験する悪口、嫌味や皮肉、詭弁、ネットスラングについて考察します。一見すると個人の問題に思えることでも、実はよく考えると社会の問題とつながっているのではないか、との仮説を立て、個別具体的な事柄から普遍性を発見したいと思います。1か月に1回から4回程度の更新です。マガジン「街河ヒカリの対話と社会」にまとめています。

以前投稿したこちらの文章でも、はあちゅうさんのツイートを参照しました。

今後もよろしくお願いします。


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