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The Story of One Sky ③ ディマシュ:MV感想&妄想考察

Part.2:MV感想 & 妄想考察


 
                  (Dimash 09)
                  (12,497文字)
                  (第1稿:2022年10月7日)
 

動画:『Dimash - The Story of One Sky』 by Dimash Qudaibergen(公式)
2022/09/25



(②「Part.1-後編」から続く)

【MVのシーンと歌詞の、シンクロ率】

 MV初見時は、ただただボーゼンと見ているだけで精一杯だった。
 なにせ、とてもじゃないけど、ただのMVとは言い難い出来栄えと尺の長さなのだ。
「びっくりした!」というのが最初の感想だった(笑)。
 その後、公式(ディマシュ・ニュース)に出されたMV解説(注1)と、リアクション動画のコメント欄に寄せられたDears達による情報提供から、MVの全体像とストーリーの全貌が分かってきた。
 それを踏まえて改めて動画を見ると、他のアーティストのMVではついぞ見かけたことが無いような手法が使われていることがわかった。
 それが、MVの各シーンと歌詞の間の、強力な「シンクロナイズ」の度合いだ。
 以下、それを上げてみよう。

①  年長の友人の愛の告白を、少女が拒絶した瞬間に、曲の「イントロ」が鳴り始める。
②  「落ちていく運命(bound of fall)」の時、少女に失恋して失望した友人が映る。
③  「億万の心(Billions of heart)」の時、主人公の作ったペンダントがアップで映る。
④  泣き声で歌われる「夢(dreams)」の時、主人公が友人の手にペンダントを握らせる。
⑤  「血(blood)」で転調し、主人公が少女にペンダントをかけてやり、少女に対して愛を覚える。
⑥  「燃える墓の淵で(edge of fiery grave?)」の時、片側が開いた構造物の中を、用心しながら歩く主人公が映される。
⑦  「(未来を)守ることが出来るの?(possible to save?)」の瞬間、主人公が赤い服の兵士を倒す。
⑧  「光をたよりに(follow the light)」の時、主人公の顔に太陽の光が当たる。
⑨  「正しい方向へ進む(turn to right)」と歌われたすぐあとに、主人公が「左側」に動く。
⑩  「地球を救う時だ(to save the Earth, the Earsh)」の時、主人公が家族を救う決意をする。
⑪  「救えるの?(possible to save?)」(コーラス2)の時、老夫婦と孫が暗がりにうまく隠れる。
⑫  コーラス2の中で「狂った笛吹き(crazy piper)」が歌われる2回とも、司令官が映る。
⑬  「過ちを正す(from wrong to right)」の時、主人公の娘が映り、銃の装填音が鳴る。
⑭  ヨーデルのような「リバットゥータ」または「ゴート・トリル」の時、主人公がアパートの廊下でおびただしい死体を発見する。
⑮  「唵(おん)(AUM)」の4回目の時、主人公が娘を見つけて叫ぶ。
⑯  「僕たちはここにいて(we are here)」(コーラス3)の “here” の時、嵐の中の主人公が司令官の前に立ち、銃を構える。
⑰  コーラス3の最後の “right” で、ドラムスの「タタ、タタ、タタ」のフィルインを、主人公が撃たれる時の銃声の代わりとして使う。
⑱  アウトロのピアノの最後のノートの時、「グノーモン」のペンダントをかけられた赤ん坊が映る。

 もっと細かく見ればまだたくさんあるが、とりあえずすごく目立つ箇所はこのあたりかな。いやもう、こんなに映像と歌が一致してるって、私が知る限り、前代未聞かもしれん。最初の頃は、MVを見ながら、そのあまりにジャストな編集具合に、いちいち仰天しまくったものだ。

 の「主人公が “左側” に動く」については、のちほど「主人公の属性」の項目で考察する。

 の「泣き声で歌われる夢(dream)」は、初見ではわからないが、2回目にMVを見る時に、ああ、だからこの「夢(dream)」と歌っている時にボーカルが泣くのか、と分かるようになる。
 また、非常に早いこの段階で歌に「泣き」が入ることが、「Music感想」の重要な手掛かりになった。


【ドラムスのフィルインによる「マジック」】

 は、ドラマチックなコーラスへの導入としてよく使われる、ドラムスのフィルインだ。
 この場面の少し前、主人公が友人だった司令官を撃った時には、主人公の銃の装填音や銃声、司令官がライトテーブルの上に倒れる音がきちんと聞こえていた。
 だが主人公が軍の兵士達に撃たれる時には、銃声はない。
 そのかわりに、このドラムスのフィルインが鳴る。
「タタッ、タタッ、タタ!」
 すると見ている我々には、あたかもその音が主人公がその身に受けた多数の銃弾の銃声のように聞こえてしまう。
 同時に主人公の背中に広がる血の色と、主人公の髪の毛がその衝撃で乱れるさまを見せられる。

撃たれて乱れる主人公の髪の毛

 少なくとも私は、このドラムスのフィルインによって、自分自身が銃弾の衝撃を受けたような体感を感じ、主人公に同化、または接続されたかのような印象を持ってしまう。
 その結果、海の中で叫ぶ主人公の感情を、主人公に同化または接続された状態のまま、腸(はらわた)をえぐられるような強烈さで受け取ることになる。何度見てもそうなってしまう。
 まるでマジックだ。
 続いて、アウトロを奏でる美しいピアノのメロディと、幼い頃のふたりの様子、ひとり海の底へ沈んでいく主人公の表情。
 それらを依然として同化/接続したまま見ているため、主人公が幼い日の愛の記憶によって浄化されたことを体感し、その表情とピアノのメロディに胸が締め付けられるような切なさがこみ上げてくる。
 このマジックは、司令官の亡骸の映像と、謎を含んだようなピアノの最後のノートによって消えていく。
 毎回私は、この1分20秒の「マジック」のために、この動画をリピートして見ていると言っても過言ではない。

 そして、このマジックが終わると、ピアノの最後のノートが示す「謎」が「グノーモン」のペンダントとともに出現する。
 あの、フードをかぶる「少年」だ。

【砂地にあらわれた少年:「童児原型(Child Archetipe)」 】

 砂地の行進の先頭に、突如として出現したこの「少年」は、いったい何なのだろうか。
 もちろんこれはれっきとした「ミュージック・ビデオ」なので、作者であるアーティスト=ディマシュが主要な役を演じるのは「お約束」みたいなものだ。
 だが、ディマシュ演じるこのキャラクターは、実は、背丈がよくわからないように撮影されている。

 Dearsならば、少年を演じるディマシュの背丈が191㎝もあり、世間的には「大男」の部類に入るほどの長身であることを知っている。
 しかし、彼が左手に持っている非常に長い木の棒、背丈を曖昧にする裾の長いフードのついた上着、彼のまわりに比較できる構造物がなにも無いこと、歩き去る彼のうしろ姿から少し距離を置いて、他の大人達を手前に配置することなどによって、彼のあの長身はうまく隠されている。
 これほど周到に隠されている理由は、製作者側がこのキャラクターを確実に「少年」に見せたがっているからだと思う。
 だから我々は、このキャラクターを見た瞬間、即座に「少年」だと認識している。

砂地に突如あらわれた少年

 もしも、この砂地を歩く人々の行進が「集合的無意識」のイメージだとするなら、もう一歩押し進めて、この少年をユングの言う「集合的無意識」の中にあるという、元型(アーキタイプ)のひとつである「童児」と考えてもいいかもしれない。

 スイスの精神科医で心理学者カール・グスタフ・ユング(1875~1961)は、深層心理について研究し、分析心理学(ユング心理学)を創始した。
 ユングが提唱した概念には、「集合的無意識」「自己」「コンプレックス」「元型」などがある。
 ユングが書いた『元型論』(注2)の中の「童児元型」の項目に、以下のような文章がある。

●「童児元型」は童児神の姿を取ることが多いが、ときには若い英雄の姿を取ることもある。両方のタイプに共通なのは、奇跡的な誕生と幼児期のさまざまな運命、すなわち捨てられることと迫害による危害である。(189頁)
●置き去ること、捨てること、危害に会わせること等は、一方では見栄えのしない生まれ(という特徴)をさらに徹底させたものであり、他方では神秘的で不思議な誕生の特徴を示している。この不思議な誕生という言い方は、ある種の創造的な性質の心的体験、つまりまだ何であるかわからない新しい内容の出現をテーマとする体験を言い表している。(192頁)
●(中略)まさにこうした状況から、シンボルとしての「童児」が生まれる。これははっきりと背景から解放され、もしくは孤立させられ、ときには母親を危険な状態に引き込みさえするが……(後略)(193頁)

「童児元型」には、「捨て子」という特徴があるという。
 砂地にあらわれた少年は、生まれた時には父親と母親のふたりとも失っており、孤児となっている。
 彼の誕生自体が、ある種の不思議な能力を持つ人々の助力によって、国の内戦という危険をかいくぐり、軍事政権(おそらく)の目から隠れるようにして行われた。
 ストーリー的にも、かなり「童児元型」に寄せて作られたキャラクターに見える。

 また、「童児」のイメージがなにをもたらすかについては、以下のように書かれている。

●童児のモチーフの本質的な性質のひとつは、その未来的性格である。童児は未来の可能性である。それゆえ、個人の心理に童児のモチーフが現れるということは、たとえそれがはじめはうしろ向きの姿に見えようとも、一般的には未来の発展の先取りを意味している。(中略)
 童児は個性化の過程において、意識的な人格要素と無意識的なそれとの統合(ジンテーゼ)から生まれる姿形の先ぶれである。それゆえそれは対立を結合するシンボルであり、調停者、救い手、すなわち全体性を作る者である。(194頁)
●「童児」のシンボルが意識を魅了し、感動させることによって、救済作用が意識の中に侵入し、そして意識ではできなかった葛藤状態からの解放を実現する。(194頁)

 我々がMVの最後に目撃するのは、ユングの言う「未来の可能性の具現化」と言っていいと思う。
 我々はそれを物語の最後に出現する「少年」の上に見ているが、それだけではない。

 実のところ、ディマシュ自身が、この「童児」の元型を非常に色濃く持っている人物だ。
 顔立ちが、中央アジアというよりももっと東洋に近く、中性的なベビーフェイスであること。
 身長が191㎝もありながら、頭が割合に大きく、肩幅が狭く、子供のような寸胴(ずんどう)であること、これらは声が良い歌手の身体的特徴でもあるのだが。
 そのため、彼がひとりで立っていると、身長が170㎝あるかないかにしか見えず、いつまでたっても10代に見えるなど、見た目の幼さも相当影響している。(このMV初登場の戦闘シーンでは、初見時には、どこの少年兵かと思ったもんな……)
 また、カザフスタンの伝統に則って、父母がいながら祖父母に育てられたという彼の成育歴も、核家族化が極まったような現代人からすると、まるでファンタジーのようなストーリーだ。
 ディマシュはユングが言う「童児」の前提である「捨て子」ではない。
 だが強いて言うなら、カザフの伝統と同時に、大学生の母親が学業に戻るために生後40日で彼を祖父母に預けたことが、「捨て子」の大枠である、「産んだ人ではない別の誰かに育てられる」という意味だと言えなくもない。
 また、「老夫婦に育てられる主人公」という育ち方は、日本では「桃太郎」「一寸法師」「かぐや姫」など、どこかほかの場所からやってきた、いわゆる「貴種流離譚」のカテゴリーにはいる物語に多い。そして、それらの主人公はたいてい、人間ではないか、人間以上の能力と、外界への非常に大きな影響力を持っている。
 なので、日本人である私は「祖父母に育てられた」というイメージが持つ物語性によって、ディマシュの背後に「捨て子=別の世界から来た子供」という属性を見てしまう。
 それはすなわち、ユングが言う「対立を結合する者」「調停者」「救い手」というイメージとなる。
 むしろ、我々(ディマシュのファン)は「対立を結合する」イメージや「救い手」のイメージを、ファンになった最初からディマシュに重ねて見ており、それをユングの心理学的に分析すると、それは「童子」の元型であった、という感じだ。
 彼が我々を惹きつけているその理由のひとつは、彼のキャラクターが持つ、この根源的な「元型」の力にあると思っている。
 彼はある意味で「幸せな捨て子」という不思議なイメージを「童児元型」に加えてしまったのかもしれない。

 このMVの最後に、ピアノが奏でる「謎」の音とともに現れるあの少年は、不敵な笑みを見せて顎を上げ、こちらを見る。
 まるで、「ついてくるかい?」と問いかけているようだ。
「僕はこれから、未来へ行く。君は過去に残るの? 
 それとも僕と一緒に未来へ行くの?」
 我々に選択肢は無い。
 だって、彼はディマシュだよ?(笑)

写真で見ると、ちょっと「モナリザの微笑み」のようでもある

【 表情 Facial Expression 】

 いやもうね、いちファンとしてはこれに言及しないわけにはいかない。
 これは、ディマシュのどのMVでも、ライブ映像でも、オフの時の動画でさえも言えることだけど、ディマシュの表情は本当にわかりやすい。
 その瞬間、彼が何を感じ、何を表現したがっているかが、音を消して表情だけ見ていてもよくわかるのだ。
 そして時折、目を見張るほど美しい表情があらわれて驚かされる。

  ディマシュの「顔」は、漫画を描いていた人間から見ると、パーツのバランスは良いけれど、ものすっっっごくハンサムというわけでない。
 どちらかというと「中性的で可愛らしい顔立ち」をしていて、強いて言えば顔の各パーツ(特に眉毛)が「コメディ」寄りの形状をしている。
 だがこの「標準よりちょっと上」クラスの顔に「表情」、つまり彼の内側から出てくる感情や、外界へのリアクションとしての感情が乗ると、とたんに「超絶美人」に見えてくる。

 この『One Sky』のMVの中で「超絶美人」な表情と言えるのが、息絶えた主人公が海に沈んでいく時の、微笑みの表情。9秒間。
 この「微笑み」の美しさたるや、異常だと思うよホントに。
 なにせ、dears達がこの世で最も見たくないであろう「ディマシュが○ぬシーン」をわざわざ当のディマシュ本人から見せられているというのに、その時の表情が、この世のものとはとても思えないほど超絶に美しくて優しげで愛らしい表情だなどと、もうね、反則だよディマシュ君(褒めてます)。
 この場面のためだけに、TVの画面モードのバックライトと明るさを最大にして見てます、ハイ。

切ない微笑み。この顔を撮るために何度動画のポーズをやり直し、何枚撮ったことか……

 それから6分11秒からの、軍の兵士達がパトロールする建物の中で座り込み、撃たれた左腕に巻いた布を締め直して進み始めるシーンの一連の表情。これも非常に美しい。(①「Part.1-前編」の途中に画像あり)

 さらに、個人的にすごいと思っているのは、やはり海に沈んでいるシーンで、11分53秒あたりから、叫び終わった主人公が両腕を上に伸ばしたまま、意識を失う場面。
 一見、醜い顔のように見えるが、叫びの元となる感情が一瞬で消え去り、同時に「眉間」がゆるみ、意識が無くなったことがわかる顔のまま制止するなど、まさにアンビリーバブルな表情の推移だと思う。

ディマシュの眉を注視しながら、動画を見てください

 しかもこれらの表情が、演技なのかと問われると、実はよくわからない。
 MVの前半で、主人公が戦場で壁に寄りかかって、撃たれた左腕を押さえながら叫んでいる場面では、それが演技だとすぐに判断がつく。(痛くないのに痛いふりはできなかったようだ……)
 だが、その他の場面では、歌を歌う時と同じく、主人公に完全に憑依してんじゃないかと思うほど、本物の感情が表情に乗っているように見える。
 ほかの役者さん達のほうが、表情に乗っている感情がディマシュより明らかに薄いように見える。
 いやもう、とんでもないことだと思う。
 この、本物の感情が乗った主人公(ディマシュ)の表情があるので、このMVにそろそろ飽きてもいいくらいには回数を見ているのに、一度見始めると止まらないで最後まで見てしまう。

 我々はふつう、どんなに本物の感情が内側から湧き出してきても、それとわかる表情を自分の顔にきちんと浮かべることは出来ない。
 だがディマシュはそれをどんな場面でも、仕事ではないプライベートの場面でも、あっさりとやってのける。
 なぜなら、我々の顔の皮膚や表情筋が非常に固いのに比べ、ディマシュのそれらは日々の声楽レッスンと歌によって鍛え上げられており、非常に柔らかいからだ。
 普通の人間の1.5倍は開く顎、出したい声を出すために微妙に変化し続ける唇の形、ものすごくよく動く眉毛。たまにこの子は眉毛で歌ってんじゃないかと思う時があるくらいだ。
 そういう顔が作り出す表情は、彼の声と同じくらいクリアで率直なので、彼の表情を見てその意味に悩むことがない。
 また、我々は日常の対人関係で、表情が分かり難いために、お互いに邪推し合い、誤解し合う。
 だが、ディマシュの表情を見る時、邪推して誤解する余地が全く無いため、少なくとも私は完全に心理的な「武装解除」をすることが出来る。
 この心理的な「武装解除」の、なんと心地良いことか。
 それが、彼の表情を「超絶美人」だと感じる理由のひとつだろうと思う。


【童話『ハメルーンの笛吹き男』と、パイパー達】

《「ハメルーンの笛吹き男」の物語》

 歌詞に出てくる「狂った笛吹き(crazy piper)」は、直接的には、戦争を賛美し煽動する司令官となった年長の友人を指している。
 その元となるイメージは、『ハメルーンの笛吹き男』の物語だ。
 ドイツのグリム兄弟が収集し編纂した『グリム童話』のひとつだが、これは実話がモデルとなっている。

 1284年6月26日、ドイツのハメルーンで130人の子供たちがコッペン丘近くの処刑場でいなくなるという事件が起きる。この事件を描いたステンドグラスが1300年には町のマルクト教会に存在していたという。1660年に一度破壊されたが、現在は文献にもとづいて復元されている。その文献には、「色とりどりの衣装で着飾った笛吹き男」の存在が記されており、消えた子供達が通ったと言われる道路では、今でも音楽が禁止されている。
 グリム童話では、以下のようなストーリーとなっている。

「ハメルーンの町でネズミが大量に発生し、皆が困っていたところ、笛吹き男がやってきて、報酬をくれるならネズミを退治しようと持ち掛ける。
 住民達は男の提案に同意し、男が持っていた笛を吹くと、町中のネズミが集まってきた。
 男はネズミ達を川へ誘導し、一匹残らず “溺死” させてしまった。
 だが住民達は男に報酬を支払わず、男は一度町を立ち去るが、何日かして再びあらわれると、笛を吹いて子供達を呼び寄せ、そのまま子供達もろとも町から出て行ってしまった。
 子供達は二度と町に戻ることはなかった。」

《軍楽隊のパイパー》

 イギリスのハイランド地方では、昔々、士族同士の戦いの時、バグパイプで仲間を鼓舞する伝統があった。戦場のバグパイプ奏者は、そのパイパーが倒れても、別の兵士が楽器を拾って再び吹き始めるため、「不死身のパイパー」と呼ばれて恐れられていたという。
 軍楽隊の起源は、世界最強を誇ったオスマントルコの「メフテル」であると言われ、相対した敵国の兵士達は、彼らの音楽を聴いただけで逃げ出すありさまだった。イギリスのバグパイプもペルシャを源流としている。
 ベートーベンの「トルコ行進曲」は、このトルコ軍楽隊の音楽からインスピレーションを得たと言われている。ディマシュはモーツァルトのほうの「トルコ行進曲」をピアノやギターで弾いていたけどね。

《比喩としてのパイパー》

 また、「パイドパイパー」という言葉には、「言葉巧みに誘導する人物」「無責任な約束をする人」「人々をそそのかして自分に従わせるリーダー」という意味がある。これが司令官のイメージに重ねられている。

《3つのモチーフ》

 これらのことから、このMVのストーリーは、友人の司令官が「意味」としての「パイドパイパー」を、ストーリーの発端と結末には『ハメルーンの笛吹き男』が「ネズミ退治」をする方法である「溺死」を、中間部の戦場のシーンでは「不死身のパイパー」が所属する「軍隊と戦争」をモチーフとしているのではないかと、個人的に妄想している。
 

《「少女のモチーフ」=街の住人?》

 主人公の妻となった少女のモチーフについては、これは確証はないのだが、年長の友人の愛の告白を「拒んだ」ことから、彼女は「笛吹き男」の物語の中で、ネズミ退治の報酬を支払うことを拒否した「町の住人達」と言えるかもしれない。
 少女は自分の正直な気持ちを表明しただけなのだが、年長の友人から見ると、主人公を救ったのだから当然「支払われるべき」少女の愛を得られなかった形になってしまった。
 これにより、「町の住人」という属性を持たされた少女は、軍の兵士達から逃げる際、自分の娘を「ハメルーンの町の住人達」と同様に失ってしまうことになる。
 非常に残酷で悲劇的な属性だが、愛情が関わる人間関係の裏側は、かくも常軌を逸したものだというお話のようでもある。


【主人公の属性:「笛吹き男」の童話が示す意味】

《「溺死」の意味》

 では最後に「主人公の属性」について見て行こう。
 主人公の2度の「溺死」は、1度目は年長の友人(パイパー)の恩情によって生き返ったが、2度目は司令官(パイパー)を殺したことで、その司令官の部下である兵士達によって報復として殺される結果となった。 
 主人公が、パイパーありきの運命を持っていることが非常に興味深い。
 そして「溺死」は、先ほども書いたように、『ハメルーンの笛吹き男』が「ネズミ退治」に使った方法なのだ。

《「悪の側」という属性》

 我々は、ディマシュ演じる主人公の兵士を、独裁者のパイパーに敵対する「善の側」の陣営だと思いたい。
 だが、ストーリーの流れとモチーフから見ると、主人公もまた、退治されるべき「悪の側」に属する愚かな「ネズミ」ということになる。
 大人になった主人公が初登場時、構造物の暗がりの中を中腰で歩いている場面は、見方によっては、暗渠を歩く「ネズミ」に見えなくもない。
 また、ムービー上の最初の戦闘場面で、「我々は正しい道への最後のターンを決めているところだ」の「正しい」と「右」の意味を持つ “right” が歌われた瞬間、主人公が「左側(left)」に動く。
 これが「MVのシーンと歌詞のシンクロ率」の番だ。
 ここで主人公は「道を間違えた」と見ることが出来る。
 なぜならこの時主人公は、その直前に自分を殺しに来た赤い服の軍の兵士を「正当防衛」として撃った時とは違い、2人の仲間を殺した軍の兵士を「仲間の復讐」のために追いかけていたからだ。
 その後の、家族を助けるために家に戻る行動自体は「善」の範疇に入っているが、それは彼自身の意志というよりも「グノーモン」の導きだった。
 そして、たどりついた自宅で娘の遺体を発見し、「娘の復讐」のために、友人だった司令官に向かって彼は銃口を向ける。
 これが、主人公の持つ「ウロボロスの輪」、運命の「無限ループ」、仏教でいうところの「輪廻」だ。
 主人公は、悪の連鎖という永久機関を作り出す「復讐」に2度も手を染めてしまった。
 1度目の「仲間の復讐」の時には、彼はそのことにショックを受けて苦しんでいた。
 だが、娘の遺体を見た時、彼は怒りと悲しみのあまり我を忘れてしまい、「娘の復讐」というその手法が「正義」の手段として当然のことのように感じてしまっている。
 8分47秒頃からの、娘の遺体を抱きながら天に向かって泣き叫ぶ主人公の表情は、まるで獣の咆哮のように見える。
 彼はこの時、人間であることを捨てたか、または失ったと思われる。
 寓話の流れとしては、彼は何度生まれ変わっても、同じように「復讐」にかられる行動を繰り返してきた可能性もある。
 それはまた、主人公の友人だった司令官自身にも当てはまる。

娘の遺体を抱いて「咆哮」する主人公


《物語の「順番」が持つ意味》

 そうして、主人公である「ネズミ」が退治されて海に落ちたのち、「世界を救う赤ん坊」が生まれ、その赤ん坊の誕生によって、砂地を行進する人々の前に太陽が出現する。
 これが、このストーリーが示す非常に重要な「順番」だ。
 この順番によって、主人公の属性が「悪の側」であることがはっきりするからだ。
 しかも主人公は、2度目に海に落ちるまで、自分も「悪の側」にいることに気がついていなかった。

 つまりディマシュ本人は、この物語の中で「善と悪」の分別を、「独裁政権」と「レジスタンス」というふたつの陣営によって分けていたわけではなかったのだ。
 それは、個人の感情や心の動きからあらわれる、彼らの「行動」によって決められていたのだ。


【登場人物たちの、善なる道への回帰】

 主人公は、海の中で叫んでいる時、「復讐」という自分の2度目の選択を後悔し、自分で自分に怒りを向ける。
 だが、最後には自分の内なる「悪」を受け入れる。
 この「悪」は、シャドウ(影)ともいう。
 主人公は、自分の内側にありながらそれがあることを否定してきた「悪」というシャドウを、友人だった司令官に投影していた。
 だから、彼の運命は司令官ありきになってしまっていたのだ。
 だが、彼が2度目に海に落ちた時、自分が司令官と同じ「復讐」をしたことに気がつき、自分のシャドウとそれがもたらした「罪」に気がつく。
 そのきっかけは、彼の走馬灯の中に出て来た、彼の娘の無垢な瞳だ。
 父である主人公も、娘に問いかけられたのだ、「なぜ?」と。
 娘の瞳に見つめられたあと、彼の走馬灯には、集合的無意識の中の「太陽を祝福する老人」と「太陽の光」が混入する。
 彼は溺れながら両手を太陽の光の方に伸ばし、天にいる神に向かって自分の罪を悔い改める。
 それと同時に、内なる「光」としての「愛」を自覚し、浄化されていく。

 彼とほぼ同じことが、司令官と、主人公の妻にも起こっている。

 司令官は「グノーモン」のペンダントを2度目に握りつぶした時(1度目は子供の頃にそれをゆがめた時)、主人公の妻となった少女を殺すために自分が出した命令を一瞬後悔し、目に涙を浮かべる。

 妻は、娘の手を放してしまった時、おなかの赤ん坊のことが頭をよぎっただろう。その一瞬の心の揺れの結果、自分を助けようとする「人々」の手を振り払うことが出来ず、娘を戦場に置いてきてしまうことになったと想像することが出来る。彼女はその「2度目の選択」(1度目は子供の頃の恋人の選択)を後悔し、天に向かって悔恨と痛みの叫びを上げ続ける。

 そうしてこの3人は、生まれた赤ん坊の中に取り込まれ、再び「善の道」をやり直す機会を得る。

3人の魂が混ざり合った少年が、善の道を進み始める


 この「主人公の属性」は、ストーリーが一見単純なので、最も難しい部分だった。
 主人公の行動には、「善」と「悪」の両方の属性が混ぜられているからだ。
 だが、この作品の少し前にリリースされた『ZHALYN(焔)』で、あれほど盛大な「皮肉」または「あてこすり」を歌ったディマシュだから、一筋縄ではいかないだろうな、とは思っていた。
 思ってはいたけど、まさかここまでとは……。


【まとめ】

 それにしても、13分40秒と尺は長いものの、よくこれだけの(言ってしまえば詰め込みすぎの)濃い内容を、一本の映像作品にまとめたものだ。
 ディマシュだけでなく、関わったスタッフ達、特に映像監督とエディター(編集)の仕事もまた、すごいと思った。

 そして特筆すべきは、このMVのスクリプト(台本)を、ディマシュ本人が書いたということだ。
 いやもう、とんでもない才能だ。
 もちろん、彼が在学する大学のいろんな分野の先生方からいろんなアドバイスを受けているだろうとは思うし、スクリプトの決定稿までにはムービー製作者達(監督など)とディスカッションを重ねているだろうとも思うが、それでも、全体の筋書きはディマシュのアイデアだろう。(決定稿に至るまで彼がひとりで書いたというなら、もう脱帽するしかない)
 なぜなら、これを「実はプロが代筆した台本だ」などと考えるには、あまりにも新鮮で若々しく、分かりやすいイメージの積み重ねと、子供が思いついたような大胆で驚くべき解釈がなされており、これはとても「プロ」に書けるようなたぐいのものではないと思う。
 特に、プロの作家であれば、主人公の属性を「悪」とし、『ハメルーンの笛吹き男』の童話に出てくる「ネズミ」と同じ結末にするという筋書きを、「カザフスタンの大スター、ディマシュが演じる壮大なMVの主人公」には、まあ普通に考えて選ばないだろう。(注3)
 だが、この台本を書いたのが主人公を演じる本人だからこそ、遠慮なく「悪」も「ネズミ」も「溺死」も、自分が演じるキャラクターとして素直に選ぶことが出来たのだろうと思う。
 ディマシュ本人が言ったとおり、このMVも音楽も、まさしく「アマチュア」だから書けるような、型破りなクオリティだ。
 そういう作品を(もちろん制作中にはいろいろあっただろうと思うが)、しれっと完成させてしまうというのもまた、なんというか、ディマシュ君、とんでもないよ君はホントに……。



(③「Part.2:MV感想 & 妄想考察」、終了)
(④「Part.3:Music 感想(妄想気味)」に続く)


【注解】

(注1)  ディマシュ・ニュースのMV解説


(注2)『元型論』

『元型論』カール・ユング・著/林道義・訳 紀伊国屋書店 2002年。
・ちょうど20年前に買ってそのまま積ん読状態だったが、まさかこんなところで役に立つとは……

(注3)プロの作家であれば

 もしもこのMVのような物語をプロが書けるとしたら、それは日本の少女漫画家の、萩尾望都ではないかと、個人的にはちょっと感じている。

(【注解】終了)

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