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阪神タイガース 詳細年表⑧

今回は1966年(昭和41年)から1970(昭和45年)までを掲載したいと思います。
この期間には田淵幸一・上田二朗らの入団・活躍、エース・江夏の活躍らは、現在も印象に残っているファンも多いと思います。
また引退していった吉田の活躍も忘れることは出来ません。
ただし、リーグ優勝にはあと一歩届かない悔しさもありました。

1966年(昭和41年)

3月5日

第15回対南海定期戦(甲子園)、阪神2勝1敗。 

3月8日

来日したメキシカン・リーグ(2A)優勝のメキシコ・タイガース戦(甲子園)、4対1で勝利。 

3月9日

第37回対阪急定期戦(西宮)、ダブルヘッダーで連勝。 

3月19日

第14回対東京定期戦(甲子園)、阪神3勝。
この年で対オリオンズ定期戦は最後となった。

シーズンは、オーナー・野田誠三から命を受けた若手登用方針で船出したが波に乗れなかった。 

5月10日

大洋戦(川崎)で大洋・近藤和にサヨナラホームランを喫したと思われたが、直前に右翼・藤井栄がスタンドから空ビンが投げ込まれタイムを要求していたことから抗議、ホームランは取り消され勝利。 

6月5日

広島戦(広島)で、広島・山本一義の死球をめぐりトラブル発生、空き缶、ビンが投げ込まれ竹元右翼審判の右目にあたり昏倒、審判交代して試合再開。 

6月8日

巨人戦(甲子園)で村山が宿敵・長嶋から三振を奪い1500奪三振達成。 

6月19日

広島戦(甲子園)で山内一が藤井栄の二塁打で生還、1000得点を記録。 

7月17日

大洋戦(甲子園)で村山が150勝達成。 

7月31日

中日戦(甲子園)で権藤正利が1500奪三振達成。 

8月4日

大洋戦(東京)で敗れ、7月26日の巨人戦(甲子園)から球団初の8連敗を喫する。 

8月10日

巨人戦(後楽園)、権藤正利がボークを犯し、抗議したがあっさりと引き揚げた監督・杉下へ野田が烈火のごとく怒ったとされる。 

8月11日

球団事務所で野田、戸沢、藤本、佐川の四人が会議、杉下の休養、藤本の監督復帰を決定。
この日の巨人戦(後楽園)後、広島での宿舎・吉田旅館で藤本、佐川が杉下に休養を告げた。
球宴直後の8連敗後、1勝後4連敗、34勝50敗で退陣となった。 

8月13日

杉下の休養、藤本が監督復帰を発表。
成績不振と藤本の体調がよくなったことによるとされた。 

9月1日

プロ野球機構がドラフトに関する文書を高野連加盟の2415校に発送し協力を求めた。 

9月4日

巨人戦(甲子園)で権藤が500試合登板。

9月5日

第1次新人選手選択会議(ドラフト会議)。
ドラフト会議はこの年2回開催され、この第1回会議で阪神は目玉の大阪学院高の江夏豊を1位指名、巨人、阪急、東映との4球団競合の中、戸沢がクジを引き当てた。 

9月29日

セ・リーグがこの年「優勝した巨人の優勝は21回目」と発表。
草創期の昭和12、13年の春・秋二季制をとったときの扱い方で疑義が発生、春・秋の優勝を独立したものとし、以来優勝回数の計算はこれに準拠している。 

10月2日

大洋戦(甲子園)で山内一が川上哲治を抜く1028得点のプロ野球記録。 

10月3日

大阪・梅田の球団事務所で江夏の入団発表。
年棒180万円、契約金1000万円+100万円。(期待から100万上乗せ) 

10月8日

巨人戦で本屋敷錦吾が1000試合出場達成。

シーズンは64勝66敗5分け、勝率.492で3位。
藤本の監督復帰後、30勝15敗3分けと態勢を立て直し3位に滑り込んだ。
村山が24勝を挙げ連続最多勝、沢村賞を受賞。

11月10日

安芸市営球場で若手主体の秋季キャンプ(19日まで)。
高校卒業前の江夏も参加。

11月18日

来日した米コミッショナー・ウィリアム・Dエッカートと日米コミッショナー会談が開かれ、日米親善野球開催に関する協定案を検討、読売、毎日両新聞社により定期開催で合意。

1967年(昭和42年) 

2月

三班に分かれてキャンプ地・安芸入り。
この頃、安芸はサブグラウンドが整備されておらず、全員で本格的な練習を行えず、別れて行動した。

キャンプ、オープン戦から入団2年目の藤田平が台頭し、吉田を二塁に追いやり、遊撃の定位置をつかんだ。 

3月7日

第38回対阪急定期戦(甲子園・西京極)、阪急2勝1敗。 

3月11日

第16回対南海定期戦(大阪)、南海3勝。

3月14日

実行委員会でドラフト規定を改正、ドラフト会議は年一回、契約金上限額等が改正、この年から箱から封筒を選ぶドラフト抽選が採用された。 

4月13日

大洋戦(川崎)で江夏、初登板。 

4月17日

巨人戦(甲子園)試合前、王、長嶋の打撃練習中、村山が江夏に「長嶋はおれ、お前は王だ」とライバルを指した。 

4月19日

大洋戦(甲子園)で江夏、初先発、2回4失点(自責点3)で降板。 

4月23日

中日戦(兼六園)で江夏がプロ入り2打席目で場外に初本塁打。 

4月29日

広島戦(甲子園)で江夏が初勝利。
登板5試合目、2安打1失点完投、10奪三振での勝利。 

4月30日

広島戦(甲子園)を延長17回5対5で引き分け、所要時間4時間45分のセ・リーグ記録となった。

5月4日

巨人戦(後楽園)で村山が敗戦投手となり、血行障害が悪化、診療の結果、フォークボールを禁じられる。(時期について異説あり) 

5月19日

広島入りし、翌日から広島戦を控え藤本の「投げたかったら、投げさせてやる」という言葉に村山が激怒、帰阪しようとしたところ、日刊スポーツ・水本義政になだめられ、藤本に謝罪。 

5月28日

大洋戦(川崎)で江夏、11奪三振で初完封、5勝目。
村山は、江夏が「5勝したら背広を新調してやる」約束をしていたが、早くも達成してしまった。 

5月31日

巨人戦(後楽園)で村山、江夏のリレーで勝利、前年から続いていた巨人戦の連敗を10で止め、江夏は巨人戦初登板で勝利を飾った。
江夏と王はこの試合で初対戦、空振り三振に仕留めた。
村山は右腕の痺れを訴えチームと別れ先に帰阪、厚生年金病院で診断を受けたとされる。 

6月13日

中日戦で藤本勝巳が1000試合出場。 

7月20日

衆議院法務委員会で社会党・松前重義代議士が「プロ野球のドラフト会議は選手の自由を束縛、かつ人身売買の疑いもあり、不当な制度ではないか」と質問、法務省人権擁護局長は即刻調査すると確約。 

7月25日~7月27日

オールスターゲームで江夏、3試合全てに登板。 

8月1日

巨人戦(甲子園)試合前、巨人・川上監督がオールスターで江夏を酷使したことを藤本に陳謝。 

8月20日

広島戦(広島)で山内一が左翼席本塁打を放ち3501塁打を記録、川上の記録を更新、プロ野球記録。

9月23日

大洋戦(甲子園)で捕手・和田徹の捕球を巡り、大谷球審と紛糾、藤本監督が手を出し退場、没収試合を宣告された。 

10月3日

9月23日の試合についてセ・リーグは考査委員会を開き、球団および藤本監督、あとの指揮をまかされた後藤次男コーチを厳重戒告に付し、藤本にはさらに5万円の制裁金を課した。
観衆848人には入場料を払い戻した。 

10月14日

サンケイ戦(東京)で山内一、2000本安打達成。

シーズンは70勝60敗、勝率.538、優勝の巨人に14ゲームの大差をつけられての3位。
救援専門だった権藤正利が防御率1.40で最優秀防御率投手。
江夏は両リーグ最多の225奪三振、藤田がリーグ最多の154安打を記録した。
藤本は辞意を伝えたが、球団社長・戸沢に慰留され、もう一年続けることとなった。 

12月22日

堀内法務省人権擁護局長が「選手が契約するかは自由、身体の自由を拘束するわけではない、人身売買とは認められぬ」と答弁、衆議院の法務委員会でドラフト制の人権侵害について一応結論が出た。 

12月29日

山内一を広島にトレード。

この年、野球カードが登場、カバヤ食品が菓子の「おまけ」として販売。
この年、サンテレビ(サンテレビジョン)が神戸に開局。
地方のUHF局の特性を生かし、開局当初から阪神戦を積極的にとりあげ、試合終了まで放送する姿勢をうちだしていた。

1968年(昭和43年) 

1月16日

実行委員会で支配下選手六十人の制限が議決。 

3月2日

第三十九回対阪急定期戦(西宮・姫路)、阪神1勝2分け。 

3月5日

常務取締役・岩間勇雄辞任、専務取締役・藤尾豊二就任。 

3月9日

第十七回対南海定期戦(甲子園)、南海2勝1敗。 

4月25日

広島戦(広島)で勝利、球団2000勝達成。

5月15日

中日戦(中日)で一回表1番打者、森光の代打・小玉明利が小野正一の初球を本塁打。 

5月23日

中日戦で外野手の死捕殺(守備機会)0を記録。 

6月5日

大洋戦(甲子園)、村山が三回で降板後、戦線離脱し入院、登録抹消。 

6月19日

サンケイ戦(神宮)で遠井が1000試合出場、若生が五回に1000奪三振を達成。 

7月10日

大洋戦(甲子園)、村山が復帰、先発し勝利投手となった。 

7月15日

江夏がこの日のサンケイ戦(甲子園)で一回に高山忠克に左翼に運ばれるまで32イニング3分の1無失点を記録。 

8月8日

中日戦(中日)で江夏が巨人・金田と並ぶ1試合16奪三振のセ・リーグタイ記録。 

8月21日

江夏がこの日のサンケイ戦(神宮)の三回まで23イニング連続奪三振を記録。 

8月27日

広島戦(広島)でバッキ―が通算100勝達成。 

9月1日

サンケイ戦で石岡廉三に1安打完封を喫し敗戦。
江夏が13、石岡が14の三振を奪いゲーム27三振のセ・リーグ記録。

9月8日

中日戦で四回、遠井、カークランド、藤井栄による3連続本塁打が出たが、雨でノーゲームとなり記録は抹消。 

9月17日

巨人戦(甲子園)で江夏が、三回に351のセ・リーグ記録を作り、四回にプロ野球タイ、七回にプロ野球記録の稲尾和久(西鉄)の353個を上回るシーズン354個目の奪三振を記録。
「王さんから取る」という公約を果たしての達成で、日本タイ記録、新記録とも王から三振を奪った。
試合は江夏のサヨナラ安打で勝利。 

9月18日

巨人とのダブルヘッダー2試合目、バッキ―の王への内角球がビーンボール気味で、両軍入り乱れての乱闘となり、バッキ―は巨人コーチ・荒川博と殴り合い右手親指を複雑骨折し戦列を離れる。
バッキ―はこの負傷から球威が戻らず、翌年近鉄に移籍したが1勝も出来ず引退。 

9月28日

甲子園署が「9・18事件」のバッキ―、荒川を傷害容疑で書類送検。

9月29日

最後の天王山となった巨人との直接対決で江夏が前日ともに2敗を喫し、
望みは消える。 

10月7日

尼崎簡易裁判所が「9・18事件」に対して、バッキ-に二万五千円の罰金
を言い渡した。 

10月8日

中日戦(中日)で江夏が12三振を奪いシーズン393個とし、コーファック
スの持つ当時の世界記録のメジャー記録382個を超えた。
最終的にこの年、401個まで記録を伸ばした。
シーズン2ケタ奪三振20試合のプロ野球記録。

シーズンは最終的に72勝58敗、勝率.554、巨人に5ゲーム差をつけられ2位。
江夏が25勝を挙げ最多勝、防御率2.13で最優秀投手、沢村賞を受賞。
2桁奪三振20試合、1イニング3者三振20回も記録。 

10月19日

監督・藤本が戸沢に辞意を伝えた。 

10月23日

藤本監督の辞任受理を野田オーナーが発表、並行して前南海監督・鶴岡一
人の後任監督交渉開始を発表。 

10月26日

鶴岡に監督就任要請するも不成立。
実際には就任要請はしていなかった、とも言われる。 

11月12日

ドラフト会議。
非公開で行われていたドラフト会議が、この年から現在のように報道関係に公開されるようになった。
阪神は東京六大学で22本塁打の新記録を打ち立てた法政大の田淵幸一を指名。 

11月13日

鶴岡がNHK解説者になると発表。

11月19日

後藤次男、監督就任。
巨人・正力オーナーが田淵について「阪神からの三角トレードの応じる用
意がある」と発言。

11月26日

後藤監督が吉田、村山をコーチ兼任に起用。

11月27日

巨人・高田繁から田淵にスカウト・沢田との密会の電話が入るが、新聞記者にばれ失敗。

12月5日

日本プロ野球選手会結成され新発足。

12月17日

田淵の入団発表。
田淵は巨人入りを希望していたが、周囲の説得で阪神に入団、後に「黄金
バッテリー」と呼ばれる江夏―田淵コンビが誕生する。

1969年(昭和44年)
 

1月

江夏と女優・大牟田礼子が婚約を発表。  

2月

春季キャンプで村山は「兼任ではピッチングに打ち込めない」理由から投手コーチを返上。
後藤は二軍の投手コーチ・藤村隆男を一軍のコーチにした。 

3月2日

第四十回対阪急定期戦(甲子園・和歌山)、阪神2勝1敗。 

3月5日

専務取締役・藤尾豊二辞任、常務取締役・長田睦夫就任。 

3月8日

第十八回対南海定期戦(大阪)、南海2勝1分け。 

3月10日

理事会の鈴木セ、岡野パ両会長が日本社会人野球協会・本田弘敏とプロ・アマ交流問題について会談、「共存の精神で協和点を見い出す」という趣旨の共同声明を発表。 

4月3日

 元監督・岸一郎、胃がんにより死去、享年75歳。

4月12日

開幕戦の大洋戦(甲子園)、田淵は江夏の代打でデビュー、平松政次に三球三振を喫する。 

4月13日

田淵は前日の三振から、スピードに対応するためグリップの位置を下げるなど工夫し、池田重喜から左翼席へプロ初本塁打を放った。
さらに続く打席でも左中間に本塁打を放った。 

5月1日

兵庫県神戸市にテレビ局、サンテレビジョン開局。 

5月6日

サンテレビジョンが広島戦(甲子園)を生中継、独立局の特性を生かし、当時としては画期的な試合終了までの放送だった。
以来、タイガースの試合を開始から終了まで中継する。 

5月15日

江夏が4月12日からこの日の大洋戦四回に失点を許すまで、連続41イニング無失点と自己記録更新。 

5月26日

江夏が精密検査で疲労による筋肉痛と診断され、和歌山県・白浜温泉病院でリハビリすることになった。
この影響もあり調子を落とした江夏にマスコミ、ファンから批判が殺到し、江夏は婚約を解消。  

5月27日

サンケイ戦(神宮)で六回、打者二巡十八人が12安打で13点をあげて、最多得点、最多打点のプロ野球新記録、最多安打がプロ野球タイ、セ・新、連続得点10がセ・タイ、打数18がセ・新と多くの記録を塗り替えた。 

6月5日

巨人戦(甲子園)、リリーフで江夏復帰。 

7月13日

中日戦(甲子園)を3対1で勝利、権藤が完投で100勝達成。 

7月25日

サンケイ戦(神宮)で22安打、18対6の大勝
この年5月27日と同じ22安打を記録、塁打37は上回った。 

8月1日

巨人戦(甲子園)、村山が一回表長嶋から三振を奪い2000奪三振達成。
1500、2000奪三振、共に宿敵・長嶋から奪い達成。 

8月14日

巨人戦(後楽園)で2回表、カークランドが金田正一、堀内恒夫から1イニング2打席連続本塁打、藤井栄が1イニング2打席連続四球で出塁を記録し、8対5で勝利。
戸沢社長が堺市の鶴岡一人のもとを訪れ監督就任を要請したが、鶴岡は断った。 

8月26日

広島戦で、吉田が通算350盗塁達成。 

9月

後楽園での連戦中、東京滞在中の鶴岡に球団幹部が接触、監督要請したとされる。 

9月17日

サンケイ戦(甲子園)で吉田が球団初の2000試合出場を達成。
同試合で藤井栄が1000試合出場達成。 

10月6日

サンケイ戦(神宮)でカークランドが2三振、シーズン最多三振記録を更新する122三振を記録、最終的には133となった。

10月8日

読売新聞、報知新聞が西鉄・永易将之に敗退行為があったと報道、〝黒い霧事件〟の発端となる。

10月9日

正力松太郎死去、84歳。 

10月16日

中日戦(甲子園)は吉田最後の試合となり、七回から出場、八回の最終打席は遊ゴロ。

シーズンは68勝59敗3分け、勝率.535、優勝の巨人と6.5ゲーム差の2位。
江夏は15勝10敗だったが、防御率1.81で最優秀防御率、3年連続となるリーグ最多の262奪三振、前年に続き巨人戦30イニング連続無失点も記録した。
田淵は打率.226ながら22本塁打を記録。

11月3日

オーナー・野田の意向を受け、戸沢社長が鶴岡に監督就任を要請するも固辞にあう。

11月4日

プロ野球記者による表彰選手の結果が発表され、最優秀新人(新人王)に田淵が選ばれた。

11月8、9日

十年ぶりにオールスター東西対抗戦開催(西京極、小倉)。

11月10日

鶴岡とNHKの間で専属契約が結ばれ、鶴岡から正式に辞退の申し入れがなされた。

11月13日

戸沢は野田の指示で監督を内部からの起用に切り替え、この日村山起用の了解をとりつけ午後空路、後藤監督不在の秋季キャンプ中の安芸に入りフロント定宿の清月旅館に入り吉田、村山を個別に部屋に呼び出し、村山に監督就任を要請、村山がこれを受諾した。

11月14日

安芸の合宿所で戸沢、村山、吉田が同席で村山の監督就任発表。 

11月17日

大阪・阪神電鉄本社で後藤監督解任、村山監督就任を正式に発表。
村山は32歳で投手兼任監督となった。

11月18日

村山、広島で同じ関西大OB・元広島の上田利治にヘッドコーチ就任を要請したが、戸沢に潰された。

11月20日

ドラフト会議で、上田二朗(東海大学)らを指名、入団。

11月28日

黒い霧問題の発端となった西鉄・永易の八百長事件に対して、コミッショナー委員会が、プロ野球初の永久追放処分を下した。

12月7日

日本プロ野球育成に貢献したレフティ・オドール死去、72歳。

12月13日

戸沢と吉田が面談、現役続行を要請された。

12月21日

戸沢と吉田、二度目の面談、引退を示唆した言葉を受けた。

12月24日

戸沢と吉田、三度目の面談、引退を勧告され吉田が引退を決断。

12月27日

吉田が任意引退選手となり退団。
実働17シーズン、1864安打、350盗塁、不世出の遊撃手と高い評価を受けている。
吉田の去就決定後、村山はコーチ人事に着手、ヘッドコーチとして球団創設メンバーの藤井勇、関西大先輩の西山知良が入閣。
藤井勇は東京の自宅を離れ単身赴任、虎風荘で田淵の隣部屋に住み込み、「師匠」となり指導した。

オフに江夏は盲腸、腹膜炎を併発し一か月入院、手術を受けた。

1970年(昭和45年)


この年から「虎風荘」寮長が警察畑出身の沼本喜久雄になった。 

1月7日

前年末、サンケイとヤクルトの業務提携が成立したが、会社名が「株式会社ヤクルト・アトムズ」に変わった。 

2月14日

安芸キャンプ(3.1まで)
この年から安芸には一軍要員のみとし、甲子園と併用。 

3月4日

第四十一回対阪急定期戦(西宮・西京極)が雨で中止。 

3月7日

第十九回対南海定期戦(甲子園)、阪神3勝。 

3月

藤本元監督が取締役辞任。 

4月1日

元西鉄の永易将之が「八百長試合に他の選手も関係している」と語ったテープがテレビで放映された。 

4月11日

コミッショナー委員会、永易から事情聴取。 

4月23日

大洋戦で上田二朗が延長10回で16奪三振、新人初の9回で15奪三振を記録し初勝利。 

5月2日

読売新聞が、葛城隆雄が中日在籍時にオートレースの八百長に参加したと報じた。 

5月19日

オートレースの八百長事件に関わった疑惑で葛城隆雄が逮捕された。
セ・リーグ会長は葛城に出場停止処分。 

5月25日

コミッショナー委員会が「黒い霧」事件につき疑惑を持たれる選手を喚問した結果、西鉄・与田順欣、増田昭雄、池永正明を永久失格、船田和英、村上公康を本年11月まで一切の野球活動禁止、基満男に厳重戒告の採決を発表。 

6月17日

「江夏の黒い交際」として、江夏が暴力団関係者から百万円相当の腕時計をもらった、と報道された。
鈴木龍二セ・リーグ会長の奔走で無実が証明され「戒告処分」で済み、江夏は球団から6月18日から6月30日まで謹慎を命じられた。 

6月18日

コミッショナー委員会が葛城を3か月の失格選手に指名。

6月26日

ヤクルト戦(神宮)で3回裏濃霧のため64分間試合中断、4対14で大敗。 

6月27日

ヤクルト戦(神宮)でセ・リーグ初の毎回安打、毎回得点を記録、14対0で勝利。
前日9回の得点を加算すると10イニング連続得点となり、セ・リーグ記録。
安藤統生がこの試合4四球のセ・リーグタイ記録。 

7月2日

大洋戦(川崎)で江夏が通算1000奪三振達成。 

7月7日

大洋戦(甲子園)で村山が1対0の完封勝利を挙げ、通算200勝達成。
大学出身の200勝投手は若林忠志、藤本英雄、杉下茂に次ぎ4人目で二リーグ分立後では初。 

7月14日

巨人戦でカークランドが6,7,9回に3打席連続本塁打。 

7月19日

オールスターゲーム第二戦(大阪)で江夏が8奪三振で勝利投手。 

7月20日

オールスターゲーム第三戦で遠井がランニングホームランを記録、MVP獲得。 

7月25日

広島戦(広島)で村山が通算50回目の完封勝利。 

7月29日

ヤクルト戦(甲子園)で延長13回、池田純一が史上三人目の代打満塁サヨナラ本塁打。 

8月6日

ヤクルト戦(神宮)で遠井が通算1000本安打達成。 

8月26日

広島戦(甲子園)で田淵が2回、外木場義郎の内角球を左肘に死球を受けた。さらに3回には投球を左側頭部に受けて昏倒し、救急車で西宮市の明和病院に搬送された。
東京から駆け付けた父・綾男の「幸一はグラウンドで死ねたら本望です」との言葉に監督・村山の膝はがくがく震えたという。
プロ野球に、耳当てのついたヘルメットが導入されるのはこれ以後であり、関係者に与えたショックは大きかった。 

9月1日

田淵、意識が戻らないまま大阪厚生年金病院に転院。
あごから電流を流すショックで意識が戻り、危機を脱した。
精密検査の結果「左側頭葉脳挫傷、頭蓋内出血」で全治三か月と診断された。 

9月13日

中日戦で若生智男が500試合登板達成。 

9月26日

中日戦(甲子園)、江夏が延長14回まで投げるも敗戦、江夏はベンチでめまいと吐き気を訴え、救急車で運ばれ「心室性期外収縮による頻脈状態」と診断され、以後ニトログリセリンを手放せなくなった。 

10月6日

大洋戦(甲子園)で鎌田実が1000本安打達成。 

10月10日

首位・巨人を激しく追い上げ10月7日にはゲーム差なしとなったが、この日からの甲子園での巨人3連戦で2敗し優勝を逃した。 

10月14日

田淵、退院。 

10月25日

広島戦(甲子園)で若生が通算100勝達成。

シーズンは77勝49敗4分け、勝率.611ながら巨人の力が頭抜けてい
たため優勝出来ず2ゲーム差で2位。
村山が14勝3敗、勝率.824で最優秀勝率、防御率0.98で戦後唯一の0点台を記録し最優秀防御率。

シーズンオフ、村山は社会勉強の意味で、江夏に阪神百貨店のスポーツ用品売り場で店員の仕事を命じた。
この年、小津正二郎、電鉄本社・取締役就任。

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