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阪神タイガース 詳細年表⑥

今回は1956(昭和31年)から1960年(昭和35年)を掲載したいと思います。
この時期の大きな事件としては「藤村監督排訴事件」が挙げられると思います。
またこの期間内に初代ミスター・タイガースと呼ばれる藤村が引退し、後に二代目ミスター・タイガースと村山実が入団します。

1956年(昭和31年)

この年は藤村富が正式に監督に就任、兼任監督として指揮を執った。 

1月5日

甲子園のナイター設備導入を決定。
それまでは主に大阪球場でナイターを開催していたがドサ回り、甲子園の観客増の改善が期待された。 

1月10日

甲子園でのキャンプに米田が参加。
しかしコミッショナー事務局の「裁定のあるまでの不参加」の指示により2日間で練習を取りやめた。 

2月7日

セ・リーグ理事会が従来東京、大阪、名古屋の三都市で開催していたトーナメント大会を、本年以降一大会にすることを決定。

2月13日

コミッショナー事務局が米田の「阪急との契約に不備はない」と見解を示し、阪急が勝訴。 

2月14日

セ・リーグは米田の登録、公示を取り消した。
これは「米田の二重契約」として有名になった。 

2月22日

甲子園キャンプを離れ、新設された奈良市の奈良球場で仕上げを行った。 

2月24日

甲子園球場にボックス席が完成。 

3月3日

第五回対毎日定期戦開催(甲子園)。
毎日が2勝。 

3月8日

第二十七回対阪急定期戦開催(西宮)。
1勝1敗で無勝負。 

3月10日

第五回対南海定期戦(甲子園、大阪)
阪神が2勝。 

3月13日

第十七回読売旗大会開催(神宮)。
阪神は3位、優勝は広島。
 

甲子園球場西側に合宿所「若竹荘」新設。
鉄筋二階建て十六室、現在跡地は甲子園テニスコートの一部になっている。
「若竹荘」以前の合宿所は「協和寮」と名付けていたが何もかも完備したものではなく昭和20年戦火で焼けていた。 

3月27日

広島戦で小山が初回先頭打者から7連続奪三振のプロ野球新記録。

4月25日

甲子園球場、ナイター設備完成。

4月29日

甲子園で阪神ナインによるナイター初練習。
中日戦で、徳永にセ・リーグ最少投球数68(8回)、2安打に抑えられるが、4安打の中日に勝利。

5月2日

大洋戦(甲子園)で藤村が代打出場し1500試合出場達成。

5月6日

国鉄戦で藤村隆2安打好投も宮地に1安打、セ・リーグ最少安打新記録、両チーム計3安打、0対1で敗戦。

5月9日

大洋戦(川崎)で金田正泰が内野安打を放ち1500本安打達成。 

5月12日

巨人戦、甲子園球場での初のナイターが行われ4対1で勝利。
内外野のスタンドが観衆で埋めつくされた。 

6月10日

国鉄との試合前、藤村監督と金田主将が選手の起用法を巡って、外まで聞こえる大声で罵り合う大ゲンカ、試合に入っても収まらなくなった。 

6月24日

広島戦(甲子園)で、0対1の9回裏二死満塁で藤村自ら「代打ワシ」と告げ、史上2人目となる代打満塁逆転サヨナラホームランをはなった。
藤村の224本目にして、野球人生最後の一発となった。 

6月27日

中日戦で甲子園ナイターがNHKにより初テレビ中継。
当初予定の5月13日の巨人戦が雨天のためこの日になった。 

7月27日

コミッショナー事務局、公認スカウト公表。 

7月31日

巨人戦、6回の田宮生還の判定に不服の巨人・水原監督が審判に暴行、退場となった。

8月上旬の甲子園の巨人戦ではナイター化の効果により三日間でプロ創立以来といわれる20万人を動員、年間動員数も増加した。

8月18日~19日

首位を走っていたがタイガースだったが、巨人に3連敗を喫し、首位を奪還された。 

8月20日

球団が大阪・梅田新道のレストラン「ヘンリー」で選手全員にフルコースディナーを振る舞う。
他にも東京から大阪まで移動に飛行機を使ったりしたが、これはこの頃水面下で渦巻いていた監督・藤村に対する批判からの内紛を解消するためのものだった。
藤村に対する選手の不満は給料問題も火種となった。
給料に関しての不満は本来下林良行常務に向けられるものであるが、藤村が金に対してさっぱりしており執着がないことがマイナスに作用し、矛先が藤村へと向けられてしまった。 

9月30日

広島戦(広島)後、宮島の「一茶苑」で慰労会。
これも内紛解消のためであった。
二軍はウエスタン・リーグで2位となり終了。 

10月

兵庫県で国体が行われ、甲子園球場に昭和天皇、皇后両陛下を迎えた。
シーズンは79勝50敗1分、勝率.612、優勝した巨人との4.5ゲーム差の2位。
渡辺省が22勝、防御率1.48で最優秀防御率投手、吉田が50盗塁で2度目の盗塁王となった。
小山正明が17勝、防御率1.66、大崎三男が25勝でチーム最多勝。
この年で梶岡が引退するが、通算12本塁打は球団史上、投手陣最多である。 

10月末

田中義一・専務取締役が高血圧のため病に臥した。

11月2日

大映のコーチから監督に就任した元監督・松木が「監督就任を祝う会」を開くが、主将・金田らが集まり、球団、監督への批判が噴出する。

11月上旬

金田ら13人は「金田派」、「反藤村派」と呼ばれ、スローガンに「藤村監督退陣」「チームの刷新・明朗化」を掲げた。
連判状「藤村監督退陣要求書」を作成し、オーナー・野田に提出した。
野田はこれを即時却下した。 

11月15日

田中・専務取締役(代表)解任、戸沢一隆が専務取締役(代表)就任。
田中は取締役に。
球団は田中が入院中のため、代表に就いた戸沢一隆が事態収拾にあたらせた。 

11月16日

戸沢は全選手を甲子園に集め、南海との帯同遠征中、事態を悪化させないよう自重を促した。 

11月28日

首脳会議(電鉄側=野田社長、前田常務、球団側=戸沢、下林)で藤村問題の方針を定めた。
戸沢はスカウトの青木一三に事態収束への協力を求めたが、拒否されてしまったため「黒幕」として青木を解雇、藤村留任を確認の上、「首謀者」として金田、真田の解雇を決定。 

12月1日

球団事務所に「金田派」であった田宮、渡辺、大崎、小山、吉田の5人を呼
びペナントレースの球団表彰を行ったが、戸沢が事情を聴くと「藤村監督の
下ではやっていけない」と退陣要求を行った。

12月4日

大阪・梅田の電鉄本社で藤村監督の留任を発表、同時に金田、真田を呼び出し来年の契約を行わないと言明。
しかし、火に油を注ぐことになり、金田は会見で「球団はクビを切ったが、
わたしの信念は切れない」とタンカを切り、金田派は「オレたちのクビを切れ」と電鉄本社に乗り込み、事態は深刻化した。
この事態に阪神ファンの大阪家裁上席判事・沢井種雄、大松紡績常務・山村孝太郎、大相撲解説の神風正一らも説得に当たった。
セ・リーグ会長・鈴木龍二が巨人・川上、千茂に仲介を依頼した。
川上、千葉は大阪の金田派の会合場所を訪れ「やり方が間違っている」といさめた。

12月20日

大阪・中之島の新大阪ホテルで藤村と金田が面会、藤村は「金田と協力して運営みあたりたい」と話し、和解への道が開けた。
リーダーの金田が降参したことで強硬な態度を示していた排訴派の態度は軟化した。

12月25日

球団は金田との再契約を発表。
金田は再契約後連判状撤回に応じた。

12月30日

戸沢代表、藤村監督、金田主将3者が声明文を発表、握手を交わした。
この騒動は53日間に及びようやく収拾、表面上は円満解決したが後々まで禍根を残した。 
この一連の騒動は「藤村監督排訴事件」と呼ばれる。
この「藤村排訴事件」によって、タイガースと選手の闘争の歴史が幕を開け、事件の顛末を連日詳細に報じたスポーツ紙が軒並み売り上げを伸ばしたことで今日に続く報道合戦が始まったともいわれている。
藤村排訴事件解決後、藤村兼任監督は選手を引退して監督に専任、真田は引退、藤村の弟・賢男は広島に放出、後から排訴派に合流した駒田桂二、日下章も解雇となった。
給与を含めた待遇面で改善され、戸沢が遠征に必ず同行するなど選手とコミュニケーションを密にした。
この暮れから翌年にかけて阪神は引退していた若林へ監督就任を打診していたとされる。

この年、実行委員会は次年度卒業生をプロ入りさせる場合の参稼報酬(年棒)の最高額を決めた。
この年、デイリースポーツ関西本社、国鉄・三ノ宮駅前に本社を移転。

1957年(昭和32年)


この年のシーズンから甲子園にボックス席が設置される。
当初は比較的規模の小さなものだったが、次々と拡大されて現在に至る。 

2月15日

甲子園でキャンプイン後、四国の徳島市、蔵本公園球場でキャンプ。 

3月9日

第二十八回対阪急定期戦(甲子園)、阪神優勝。 

この頃、元監督・岸一郎は故郷の福井県敦賀に帰ったとされる。
岸は監督辞任後も野田と仲は良く、敦賀に帰ってからもタイガースから給料が振り込まれ続けていたという。 

3月

第六回対南海定期戦(大阪)、阪神2勝1敗。
第六回対毎日定期戦(甲子園)、阪神2勝1敗。 

4月18日

大洋戦で田宮謙次郎が二、三、本盗を記録。
下林良行・常務取締役、辞任。 

5月28日

巨人戦(甲子園)で吉田が金田正一からサヨナラホームランを放ち勝利。
金田が初のサヨナラホームランを喫した。 

5月から6月

全国的にインフルエンザ(流行性感冒)が蔓延し、阪神が最も被害を受ける。 

6月4日

国鉄戦(川崎)で、初回表吉田、初回裏佐藤と両チーム先頭打者本塁打。
インフルエンザにより選手は15人となり、この日から7連敗を喫する。
故田辺宗英(後楽園スタヂアム社長)記念事業委員会が野球記念館(後の野球体
育博物館)の建設計画を公表。 

6月5日

流感で、コミッショナーが特別措置として、登録抹消から再登録までの間に設けられていた一か月間の制限期間を暫定的に撤廃。 

6月30日

中日とのダブルヘッダー(甲子園)第一試合、一塁走者・内司正弘の走塁が守
備妨害だったという判定に藤村監督が抗議したが受け付けなかった審判の
態度に怒ったスタンドのファン100余名がグラウンドに飛び降り、暴れ
回った。
制止しようとした警察官一人が負傷、藤村監督は抗議を諦めてファン説得にまわり、阪神ファンはかえって損となった。
試合は阪神がサヨナラ勝ちしたが、第二試合は0対2で負けとなった。 

7月15日

広島戦でチーム5併殺打のセ・リーグタイ記録。 

7月24日

広島市民球場の球場開き(ナイター)で広島に快勝。 

8月25日

甲子園球場の巨人戦で観衆がバックスクリーンに観衆が入り30分間中断して整理。 

8月30日

広島戦で大崎三男が73球のセ・リーグ最少投球記録で完投勝ち。 

9月1日

広島戦でサード・三宅秀史が14捕殺のタイ記録。 

9月26日

広島戦(甲子園)でサヨナラ勝ち、渡辺省が9回を最少投球記録となる70球で終えるが9回で決着がつかず参考記録となる。 

10月7日

大洋戦で白坂長永が1000試合出場達成。 

10月12日

中日戦(甲子園)で大矢根博臣にノーヒットノーランを喫した。

シーズンは73勝54敗1分け、勝率.573、最後まで巨人と首位争いを演じたが、終盤抜かれ僅差1ゲーム差で優勝を逃し2位。

11月24日

来季こそはと秋のオープン戦に臨んでいた藤村は広島でサヨナラ勝ちした試合後、宿舎で戸沢に呼び出され「新監督にカイザー田中を迎える」と通告された。
しかし藤村というタイガース稀代のスーパースターを〝最悪の退場〟に見せないため、藤村に現役復帰を要請。
藤村は監督退任は承諾したが、現役復帰は体調を見てからと要望を出した。 

11月25日

スポーツ紙に「阪神、藤村監督の更迭を考慮」という見出しが躍った。 

11月26日

戦前の名捕手「カイザー」田中義雄の監督就任会見が藤村同伴で行われた。
藤村は「来季は代打でやってくれ」と言われ現役復帰。
この時、若林も監督の候補ではなかったかとされる。 

11月28日

大映と毎日が対等合併を決定、株式会社毎日大映球団(球団名・大毎オリオンズ)発足。

この年二代目監督・石本が他界、タイガース監督退任後も金鯱、大洋、西鉄、大陽ロビンス、広島の監督、西鉄、中日、広島のコーチをつとめていた。 

1958年(昭和33年)


主将に白坂長栄が就いた。 

3月8日

第二十九回対阪急定期戦(西宮)、阪急優勝。 

3月

第七回対南海定期戦(甲子園)、南海2勝。
第七回対大毎定期戦(甲子園)、1勝1分け。

4月1日

甲子園球場に選抜高校野球塔建立。 

4月30日

巨人戦で藤本勝巳が左本塁打し、4試合連続本塁打を記録。 

6月25日

巨人戦(後楽園)で三宅秀が一回先頭打者で中堅左へ長打、中堅の岩本堯が打球を見失い、ランニングホームランを記録。 

8月19日

日本野球機構がアマチュア側にも呼びかけ野球にかかわる博物館建設の計画を進めることとなり設立委員会を発足。 

8月27日

広島戦で阪神2、広島0の両チーム計2残塁の最少残塁。

シーズンは72勝58敗、勝率.554で2位、優勝した巨人と5.5ゲーム差で終えた。
田宮が.320で首位打者獲得、これにより巨人の新人・長嶋茂雄のルーキー三冠を阻止した。
小山が10無四死球試合のセ・リーグ新記録。

11月3日

毎日新聞の招聘で来日したカージナルスを迎え、甲子園で日米野球開催。
小山が好投。 

11月10日

博物館設立委員会に財団法人野球体育博物館として法人の認可が下りた。
建設費のため、後楽園球場、セ・パ両リーグをはじめ各方面に寄付を要請。

11月11日

関西大の村山実と契約調印。
村山は昭和11年(1936年)生まれであり、背番号は後に永久欠番とな
る「11」にこだわった。 
近鉄が契約金1000万円、巨人の前年入団の長嶋の1800万円を上
回る2000万円を断り、500万円の阪神を選択した。

11月30日

藤村富、引退発表、球団顧問に就任。
藤村の功績を称え、オーナー・野田が入団以来の背番号「10」を球団初の永久欠番とした。 

12月27日

田宮が退団を決意、大毎入りの意思表示。
契約更改で参稼報酬額での折り合いがつかず「A級10年選手」の特権「移籍の自由」を行使してのものだった。

1959年(昭和34年) 

3月2日

巨人とのオープン戦(甲子園)で藤村の引退試合が行われた。
藤村は6回に代打で出場し、一塁邪飛となる。
この飛球を前年限りで引退し、友情出場していた好敵手・川上が補球。
この試合新人・村山実がデビュー登板、長嶋茂雄との初対決ではセンター前ヒットを喫した。

甲子園、ボックス席拡張のための改装工事に着手、ネット裏にあった記者席を中央スタンド中断に移した。 

3月12日

両リーグ合同代表者会議で新人選手の契約金の上限を一千万円他を決定。 

3月14日

第三十回対阪急定期戦(甲子園)、阪神優勝。 

3月

第八回対南海定期戦(大阪)、阪神2勝1敗。
第八回対大毎定期戦(甲子園)、大毎2勝。 

3月末

宮内庁、コミッショナーの相談で5月10日の巨人・阪神戦(後楽園)を天覧試合ときめたが、ナイター観戦にこだわった天皇の意向でとりやめ。
この後、数試合の候補を検討していった。

4月14日

国鉄戦(甲子園)で村山が、初登板・初先発・初完封勝利(球団3人目)。

4月18日

巨人戦の7回まで小山がパーフェクト、前回登板4.11、5回から12イニングパーフェクト(38人連続アウト)。 

4月25日

甲子園球場で初のテレビ放送。(巨人戦)

6月1日

ベースボール・マガジン社の雑誌「タイガース」創刊。

6月12日

後楽園球場前に野球体育博物館が完成、開場式が行われた。
アメリカ・ニューヨーク州にあるクーパースタウンの野球殿堂(ベースボー
ル・ホール・オブ・フェームズ)にならって建設されたもので、球界の功労
者のレリーフをつくって館内に飾り付けている。

6月25日

プロ野球の悲願であった史上初の「天覧試合」。
後楽園球場に昭和天皇、皇后両陛下を迎えてのナイター、巨人戦であった。
9回裏村山が長嶋に左翼席上段にサヨナラ本塁打を喫し4対5で敗れた。
村山はこの一打を「あれはファールだった」と終生言い続けた。
この後、村山は長嶋に対し終生のライバルとして立ち向かって行くことに
なる。 

8月16日

国鉄戦で小山が1000奪三振達成。 

9月27日

大洋戦で吉田が8回、10回、1試合2度のスクイズ成功。 

9月30日

二軍がウエスタン・リーグ優勝。

シーズンは62勝59敗9分け、勝率.512で中日と2位を共有、ペナントレースは巨人の独走、2位ながら13ゲームの大差をつけられた。
村山は18勝、防御率1.19で最優秀防御率の成績で沢村賞を受賞。

11月7日

オールスター東西対抗戦(平和台、広島)
野球博物館の建設費捻出のため開催。

11月25日

田中が監督辞任、コーチだった金田正泰が監督就任。

1960年(昭和35年)


野球協約上、トレード可能期間が4月30日までから6月30日まで、となった。
また4年後に開催される東京オリンピック成功のため、両リーグから250万円を拠出、協力金として寄付することが決められた。
球団初の外人選手、マイケル・ソロムコ入団。
白坂の引退で吉田が主将に。

2月1日

藤村定義、コーチ就任。
巨人草創期の監督であり、阪急を退団した藤本をヘッド格の投手コーチに
迎えた。
異例であるが、既に幾度か招聘に乗り出した前例があり、藤本は球団代表・
戸沢とウマが合い、市川忠男、セ・リーグ会長・鈴木龍二と相談したのちに
タイガース入りを受諾した。 

3月11日

第三十一回対阪急定期戦(西宮)、阪神優勝。 

3月

第九回対南海定期戦(甲子園)、阪神2勝1敗。

4月3日

広島戦(広島)を5対3で勝利、小山が100勝達成。

4月16日

巨人戦で村山が7人連続奪三振のセ・リーグタイ記録。

4月19日

中日戦で中日・井上登の打球を二塁打と判定、その後本塁打と変更したため揉め54分間中断、このとき投手交代のことでも揉める。

4月

村山が急性胃腸炎となる、村山はこのシーズンは8勝15敗と不調に終わる。

5月28日

初めて社長制がとられ戸沢が初代球団社長に就任。

7月6日

巨人戦(後楽園)でソロムコが二日連続先頭打者本塁打を記録。 

8月11日

大洋戦(川崎)で島田源太郎に完全試合を喫した。

大洋戦で藤本勝巳、三宅、横山が三重盗を記録。 

8月31日

広島戦で吉田が1000本安打達成。 

9月19日

大洋戦、大洋・三原監督が、規則の盲点をついて26選手を起用した。 

9月26日

国鉄戦(後楽園)を2対0で勝利、渡辺省が100勝達成。 

9月29日

資金調達の手段として、オリンピック組織委員会がプロ野球人気に目をつけて企画したトトカルチョ(スポーツくじ)について、球界はこぞって反対、セ・リーグは理事会で「プロ野球の性格上好ましくない」との結論を出した。

シーズン64勝62敗4分け、勝率.508で3位、大洋が球団創立以来初優勝。
 藤本勝巳が22本で本塁打王、76点で打点王の二冠のタイトルを獲得。

10月31日

井上コミッショナーが新入団選手の契約金制限実行に関し、両リーグ会長、12球団に対し書簡で警告。

11月18日

二リーグ制の導火線ともなった毎日新聞社がプロ野球経営から手を引き、大毎オリオンズの経営権一切を大映に任せることを決定。 


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