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阪神タイガース 詳細年表⑤

少し前回から期間が開いてしまいました。
今回は1951年(昭和26年)から1955年(昭和30年)までを掲載したいと思います。

1951年(昭和26年)

1月26日

セ・リーグ会長・安田庄司辞任、後任に松島鹿夫が就任。
松島は一年で辞任し、常任顧問の鈴木龍二が継ぐことになる。 

1月30日

西日本パイレーツがセ・リーグを脱退、パ・リーグの西鉄クリッパーズと合併し西鉄ライオンズとなった。 

2月24日

連合国総司令部マッカート少将がプロ野球機構の確率、コミッショナー制樹立につき勧告。 

2月25日

フランク”レフティ”オドールの招待で藤村が川上哲治(巨人)、小鶴誠(松竹)、杉下茂(名古屋)と共に米カリフォルニア州モデストでの3A球団サンフランシスコ・シールズのキャンプ参加のため渡米。
帰国は開幕後の3月31日。  

2月27日

セ・パ両リーグが緊急協議会を開き、プロ野球機構をつくること、コミッショナー制を敷くことを決定。  

3月11日

第二十二回対阪急定期戦(甲子園)。
2勝1敗で優勝。 

3月16日

春の野球祭(セ・リーグ、トーナメント大会)開幕。
大阪大会(甲子園)は準優勝、優勝は巨人。
名古屋大会(中日)で阪神が優勝、優勝賞金2万円を当時資金難だった広島
に贈った。
東京大会(後楽園)は準優勝、優勝は国鉄。

4月5日

初代コミッショナーに元検事総長・福井盛太が就任。 

5月

富樫が上京中2リーグ分立時の心労の影響か、脳溢血で倒れた。 

5月29日

名古屋戦(日生)で藤村富が満塁を含む3本塁打で、9打点のセ・リーグ新記
録。
昭和60年、大洋・レオンに破られるまで34年間セ・リーグ記録。 

6月21日

野球協約発効。
野球機構の組織、コミッショナー制度と野球界の規制に関する部分等が発効した。 

7月4日

甲子園でプロ野球初のオールスター戦開催。
それまでの「東西対抗戦」に替わるもので、初めてセ・パ対抗で開催された。 

7月21日

富樫、球団専務取締役辞任。
いまなお、富樫のセ・リーグ所属への行動は「二十四年にとった富樫の英断はタイガースの将来を明るいものにした…」と言われる。 

7月23日

マーカット少将、プロ野球機構名誉顧問就任を受諾。 

8月1日

松竹戦で被本塁打9、被安打22で17点を許すが、9回裏、1イニング9安打で9点返し9回裏の最多得点記録。 

8月10日

大洋戦(大阪)で1回に全員安打(四球を挟んで8打数連続安打)、代走坂田を除く全員安打、全員打点、全員得点で16対1の大勝。 

8月11日

戦時中供出した鉄傘に代わり、甲子園内野スタンドにジュラルミン製の銀傘が設置された。 

9月5日

国鉄戦で金田正一にノーヒット・ノーランを喫す。 

10月3日

名古屋戦(刈谷)で藤村富が球団初、プロ野球9人目の1000試合出場。
自ら左翼席本塁打を放ち8対2で勝利。 

10月7日

大洋戦(甲子園)で兄・藤村富美男、弟・藤村隆男が、間に西村修が挟まっているが藤村兄弟継投が見られた。

シーズンは61勝52敗3分けの3位、優勝は巨人。
金田正泰がシーズン最多の18三塁打の新記録。 

11月4日

二代目会長、小曽根貞松死去。 

11月24日

統一契約書が可決成立。
実行委員会、両リーグ経営者、選手委員が集まり、米大リーグの標準契約書を参考に野球機構が契約様式を定めた。
12月1日に発効、その後修正が行われて現在に至る。 

12月19日

プロ野球機構と日本社会人野球協会との間に、登録選手に関する協約が結ばれた。
日本野球機構と社会人野球協会の関係は修復され、正常となった。

1950年(昭和25年)~1951年(昭和26年)に女子プロ野球、「大阪ダイヤモンズ」というチームが存在していたが、阪神二軍はこのチームと甲子園での練習を一緒に行うことが
あった。

1952年(昭和27年)


プロ野球地域保護権(地域フランチャイズ)が制定され、各球団はフランチャイズ制を敷くことになり、公式戦の半数以上を本拠地球場で行うこと義務付けけられた。
阪神は甲子園球場のある西宮市をフランチャイズとせず大阪市とした。

2月29日

野田誠三、大阪野球倶楽部・取締役会長(オーナー)に就任。
常務取締役・田中義一、専務取締役に就任。

3月2日

第一回対毎日定期戦開催。
1勝1敗。

3月8日

第二十三回対阪急定期戦開催。 
阪神優勝。

3月12日

第一回対南海定期戦開催。
1勝1敗。 

3月15日

読売優勝大会開催(後楽園)。
決勝で巨人に0対7で完敗。

3月20日

開幕戦の中日戦(甲子園)で三船正俊が完封勝利、初登板完封勝利は通算11人目、セ・リーグ初の記録となった。 

4月15日

阪神、南海、阪急、松竹、名古屋、西鉄、山陽で関西ファーム・リーグ結成。

5月7日

広島戦(甲子園)で真田重蔵がノーヒットノーラン達成。
真田はこの年阪神に移籍してきたが大陽時代を含め二度目の記録達成。 

6月19日

大洋戦(甲子園)で金田がプロ野球10人目の1000本安打達成。
阪神では藤村富に次いで二人目。 

8月3日

大洋戦(甲子園)で梶岡がプロ入り100勝達成。
阪神では若林、御園生に次いで三人目。 

8月31日

名古屋戦(鳴海)で真田がプロ野球七人目の1000奪三振達成。 

9月11日

国鉄戦(日生)で金田がプロ野球十三人目の1000試合出場達成。 

9月13日

国鉄戦(甲子園)で勝利、球団1000勝達成。
 
シーズンは79勝40敗1分け、勝率.665で首位、巨人に3.5ゲーム差の2位。
梶岡が防御率1.71で最優秀防御率、藤村富美男の弟・藤村隆男が25勝6敗、勝率.806で最優秀勝率。

晩秋

吉田義男が立命館を中退してタイガースに入団。
慶応大学ショート・松本豊が契約寸前で入団がご破算となったため守備要員として獲得。

12月14日

野球協約発効。
選手契約、球団の保有する選手の数、選手の参稼報酬等の中核部分、十年選手制度が発効した。
しかし肝心のフランチャイズについては意見が分かれ審議が先送りされていた。
   
この年、初めて25万2782人と観客動員が発表された。
この年、野田誠三は日本高等学校野球連盟から野球功労者として表彰を受けた。

1953年(昭和28年)


この年、小山正明、三宅秀史、山本哲也、与儀真助ら後年の名選手が入団。
二軍監督は森田が退団、コーチの御園生が監督就任、河西が助監督に就任。 

2月

初めて甲子園を離れ、鹿児島市の鴻池球場でキャンプを張った。
米国カリフォルニア州サンタマリアでキャンプを張る巨人に対抗するには合宿して猛練習するという松木の考えだった。 

2月5日

松竹が大洋に併合され、「株式会社大洋松竹球団」(洋松)としてスタート、ニックネームは「ロビンス」となった。
大阪球場をも本拠にする方針を決定するが、阪神は同一リーグの大阪球場へののりだしに反対した。 

3月10日

第二十四回対阪急定期戦開催(甲子園)。
阪神優勝。 

3月

第二回対南海定期戦開催(大阪)。
南海2勝。
第二回対毎日定期戦開催(甲子園)。
阪神2勝1敗。 

3月20日

大阪読売新聞社が創刊記念のセ・リーグ優勝大会を企画、第一回大会を甲子園で開催。
巨人は渡米中で不参加、阪神は3位、名古屋が優勝。 

4月24日

福井コミッショナーが、続出する球場内不祥事について両リーグへ勧告。 

4月29日

国鉄戦(福井、金沢)で藤村が史上初の2日連続満塁本塁打を記録。 

5月9日

巨人戦(後楽園)で金田が藤本から初球初回先頭打者本塁打。
「初球」という制約がつくと例は少ない。 

5月10日

巨人戦で徳網茂が捕逸3のプロ野球新記録。 

5月19日

広島戦で藤村隆男が100勝達成。 

7月6日

甲子園でオールスターが行われ、藤村兄弟が三年連続でオールスター出場の記録。 

7月23日

巨人戦(大阪)で九回の代打田宮の飛球の巨人中堅・与那嶺の捕球が「直接捕球」か「間接捕球」かを巡り1時間余り中断、観客が騒ぎ警官隊導入。 

7月24日

阪神が前日の判定につき文書で無効試合の提訴。 

8月1日

連盟会長が阪神の提訴を却下。 

8月13日

第35回夏の中等野球大会で甲子園大会のテレビ初中継が行われた。 

8月29日

巨人戦(後楽園)が日本テレビによりプロ野球初のテレビ中継。 

9月13日

国鉄戦を7対0で勝利、球団1000勝達成。 

9月17日

洋松戦で吉田が一死一、三塁のとき、一塁走者が挟まれる間に三塁を回り一挙生還、1球で三盗、本盗という珍記録。

シーズンは74勝56敗、勝率.569で2位、首位は巨人。
藤村が27本で本塁打王、打点98で2度目の打点王で打撃2冠に。 

11月7日

来日したニューヨーク・ジャイアンツと対戦。(甲子園)
米チームと単独で戦った記念すべき試合だったが0対12で大敗。

12月

巨人・別所、タイガース・藤村などプロ野球のスター7総出演のミュージカルショー「熱球の祭典」が上演された。

この年、三好一彦、阪神電鉄入社。


1954年(昭和29年)


杣田登が二軍マネージャーに就任。
この年のシーズンから、東急フライヤーズが東映フライヤーズに改称。

1月14日

中日新聞社が経営となり「名古屋ドラゴンズ」が「中日ドラゴンズ」となった。 

1月17日

セ・リーグ理事会、所属六球団のファームチームによる新日本リーグ結成を決定。
阪神はリーグ参加に当たって、「阪神ジャガーズ」というニックネームを付けた。

2月

前年、鹿児島でキャンプを行ったが、甲子園に戻った。

2月5日

福井コミッショナー、米軍勤務中の選手との契約を自粛するよう両リーグに
通達。

2月15日

 
開幕前、セ・リーグの共同コーチとして来日したレフティ・オドール、ジョー・ディマジオに実技指導を受けた。(甲子園) 

3月16日

第二十五回対阪急定期戦開催(西宮)。
阪神優勝。

3月

第三回対南海定期戦(甲子園)、第三回対毎日定期戦(甲子園)開催。
毎日、南海、阪急との定期戦。
南海が2勝、毎日が2勝。
阪急には勝ち越す。 

3月20日

第二回読売杯開催(甲子園)。 

3月21日

読売杯準決勝の中日戦で小山がノーヒットノーランを達成し4対0で勝利。
小山の生涯記録にノーヒットノーランは無く、オープンゲームとはいいながら小山にとって大きな思い出になった。
前日の1回戦に続き、決勝で巨人を連破し優勝。 

3月23日

第九回中日旗大会開催(中日)。
1回戦で広島に5対6で敗退、巨人が優勝。 

3月26日

第十五回読売旗大会開催(後楽園)。
決勝で巨人を9対2で破り優勝。 

3月28日

神戸市民球場で阪神ジャガーズの披露試合が行われ、巨人に2対0、中日に5対3で連勝。 

3月31日

接収されていた甲子園球場は終戦後逐次接収解除になっていたが、この     
日外野スタンド下が解除され、全面的に接収解除され完全に阪神電鉄の手に戻った。

4月4日

洋松戦(下関)の5回裏打者14人を送り、10安打11点をあげ「1イニン
グ全員得点、連続10得点」のセ・リーグ記録、「1イニング5盗塁」の記録をつくった。 

4月11日

中日戦(中日)で1回に「1イニング5盗塁」を決め、同時に「1ゲーム10盗塁」のセ・リーグタイ記録。 

4月17日

巨人戦でNHK(大阪)による甲子園球場での初のプロ野球テレビ放映。

5月22日

「デイリースポーツ」がセ・リーグの読売中心主義を「独裁」的と批判。

5月26日

中日戦で渡辺博之が「6打席連続安打」のセ・リーグタイ記録。

5月27日

渡辺が8打席連続安打まで記録を伸ばした。

6月5日

巨人戦で藤村富が1500本安打達成。

6月27日

巨人戦(甲子園)で藤村が2本の本塁打を放ち、巨人・川上に次ぐ二人目の「1000打点」達成。 

7月25日

大阪球場事件
大阪球場での中日戦で松木、藤村の退場を判定を巡り、松木、藤村が退場、ファンが球場内になだれ込み、警官200人、機動隊1個中隊も出動。
試合続行不可能と判断した田中専務の判断で阪神の放棄試合(0対9で敗
戦)となった。

7月27日

大阪球場での巨人戦で主催ゲーム初のテレビ中継。

7月31日

大阪球場事件の連盟裁定が下り、罰金のうえ、松木5日間、藤村20日間出場停止、監督代行を務めた金田が戒告処分となった。
これにより藤村の連続試合出場は1014試合で途切れ、松木はこの時辞任を決心した。 

10月31日

松木監督辞任。

11月10日

新日本リーグ(2軍)優勝。
前期が巨人、後期は阪神が優勝、王座決定戦で巨人を2勝1敗で破り、翌年
消滅する新日本リーグに関しては唯一の優勝を果たした。

シーズンは71勝57敗2分け、勝率.555で3位、中日が初優勝。
渡辺が打点91で打点王、
吉田が51盗塁で盗塁王獲得。 

11月24日

岸一郎の監督就任の指示が球団に伝えられる。
松木は退団時、助監督を5年間務めた藤村を後任監督に推挙するも、オーナー(電鉄本社社長)・野田の独断でプロ野球経験は無く、早稲田から満鉄を経たという経歴がある無名の岸が就任したとされる。

12月11日

松竹が洋松球団の経営から手を引き、大洋ホエールズが誕生、川崎への進
出が認められた。

1955年(昭和30年)

2月22日

取締役・田坂岩男退任、摩耶索道鉄道株式会社へ転出。 

2月28日

下林良行、常務取締役就任。 

3月1日

セ・リーグが理事会で「スカウトの登録制」を決定。
この決定に基づいて阪神は浅野秀夫、青木一三を登録。
プロ野球ファーム組織としてのウエスタン・リーグ発足。 

3月16日

第二十六回対阪急定期戦開催(甲子園)。
阪神優勝。 

3月

第四回対南海定期戦開催(大阪)。
2勝1敗。
第四回対毎日定期戦開催(甲子園)。 
1勝1敗1分け。 

3月19日

第三回読売杯大会開催(甲子園)。
準決勝で敗退、優勝は広島。 

3月22日

第十回中日旗大会開催(中日)。
2日目雨により1回戦で打ち切り。 

3月25日

第十六回読売旗大会開催(後楽園)。
3位、優勝は中日。 

4月5日

大洋との開幕戦の初回表、金田が先頭打者本塁打を放った。 

4月7日

洋松戦で権藤投手に3イニング連続でけん制アウトを喫する。

4月12日

国鉄戦(甲子園)で藤村富、金田から本塁打を放ち、史上初の200本塁打達      成。 

5月21日

岸、「痔の手術のため」休養、藤村富兼任助監督が指揮を執る、と発表。
岸は実際には手術も入院もおらず、名目上は技術顧問となった。 

6月22日

大洋戦(川崎)の5回裏2対2の時、照明塔の明かりが消え、53分間待った末「ノーゲーム」となり、照明の故障でゲームの流れた最初の例となった。 

7月2日

オールスター・ゲーム(大阪、甲子園)
投票で阪神の7選手が選ばれ、組織票だと物議をかもした。

9月16日

高野連会長・佐伯達夫がハワイに渡った高校選抜チームの各選手の学校長あてに、関係者の自粛自戒を要望した書面、世にいう「佐伯通達」を送り、高校野球選手・部員のプロ野球球団との関係についての規定をつくった。 

9月24日

中日戦で吉田が1試合に二盗、三盗、本盗を記録。 

9月30日

ジャガース、ウエスタン・リーグ優勝。 

10月7日

中日戦(大阪)で渡辺省がセ・リーグ最少投球記録(当時)となる75球で完封勝利。
 
シーズンは71勝57敗2分け、勝率.555で3位、優勝は巨人。
西村一孔が22勝17敗、防御率2.01で球団初の新人王に輝いた。
奪三振302は球団記録(当時)。
藤村は21本塁打で「7年連続20本塁打」を記録。
オフにニューヨーク・ヤンキースが来日、全日程終了後、ヤンキース全ナインにより投票が行われ、日本の選手で最も傑出した選手「アウトスタンディング・プレーヤー」に吉田が選ばれ、ヤンキースからトロフィーが贈られた。 

12月14日

実行委員会、契約金の最高限度、新人の研修などを決定。 

12月22日

鳥取県境高校の米田哲也と契約、連盟に登録。 

12月27日

阪急が「阪神より先に米田と契約をかわしている」とコミッショナーに提訴。

新日本リーグはイースタン、ウエスタンと並行して運営することになったため、充分な試合数を出来ず、優勝チームを決められなく終わり、大幅な支出増から消滅した。
この年、「デイリースポーツ」が東京進出、しかし前年の「独裁リーグ」論が原因か、読売は「取材拒否」という報道管制をデイリーへ行使した。


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