【ブルアカ】パヴァーヌ・カルバノグに係る共感帯の断絶についての小論

はじめに

 本noteは「ブルーアーカイブにおけるユーザー間の共感帯の断絶問題」をシナリオ面から扱ったものです。この問題を提起したのはパブリッシャであるYostarであり、以下の記事にて確認することができます。

 共感帯とは日本では耳慣れない言葉です。「コンセンサス(合意)を共有する連帯感」と理解するのが当面よいでしょう。Yostarはこの共感帯が現在上手く形成されておらず、異なる共感帯に属する人々が互いの意見に対し攻撃的になっている場面が散見され、心を痛めているとのことです。その上で、同じゲームを愛する人同士が平和に和合するコミュニティを形成できればと願っています。
 これは「対立する議論の放棄」を願っているという意味ではおそらくないことに注意が必要です。このことはメインシナリオライターisakusanが常々言及しており、最新のインタビューでも確認することができます。

 isakusanはテクストが各々により異なる解釈をされることで有意義なものとなり、「異端を燃やし無残な一冊のカノン(聖典)」が残ることについて強く否定的な態度を示しています。

 以上を踏まえるに運営・開発を包括した懸念としては対立する解釈が複数存在するとき、そこに他者への「攻撃性」が発露してしまうことが特に問題であると理解することができるでしょう。

 結論から述べるならば、本noteはこの「攻撃性」の排除そのものについては難しいという態度です。では、本noteで何を提案するかというと「戦争」の排除です。つまり「攻撃」に対し「攻撃」で応報しないことです。これは議論を行わない、という意味ではありません。

 上のインタビューにおいてisakusanは解釈と反論が続く状態をむしろテクストが生きている状態であり、望ましいものであるとしています。しかし、これは条件付きものもので、その議論は「建設的で有意義」でなければならないとしています。

 私は以上の態度を容認した上で議論を進行します。もちろん、「そもそもこのような要求には従わない」という意志決定が可能であることに注意ください。「運営・開発が建設的に議論をしろと言っているのだから攻撃性を顕わにするな」というのは無理筋の主張です。その主張は「運営・開発の考えに寄り添いたい」という共感帯において有効なのであって、そうでない共感帯に対して何の意味もなしません。つまり「そのような指摘を共感帯の外部に対して投げかけるのであれば建設的であり得ず、よってこの場合その発言は運営・開発の意図に寄り添うという自身の属する共感帯への矛盾発言」になります。

 よって、私の提案は次になります。「少なくとも私の属する共感帯における者は、自身または自身の解釈に対し攻撃性を示されたとしても攻撃性をもっては応報しない」という片務を担うことです。端的に換言すれば殴られても殴り返すな、一方的に殴られ続けろということになります。しかし、一見単純に見えるこの主張は心理的にではなく理論的になかなか困難であることを私たちは概観することになります。

 本論に入る前に私の立場を明らかにしましょう。
「考察好き/二次創作者/全ストーリーに好意的/解釈に文芸批評・哲学的手法等を用いる」

 それらの姿勢による読解は以下一群のnoteで確認できるでしょう。

 以上をもって、本noteの前提を終え本論に入っていくことになります。


「我々」は攻撃を受けているか?

 まず状況の整理です。「攻撃」が直接的な個人へのそれとして発露することは珍しいというのが私の考えです。「エコーチェンバー」という言葉で表現されがちですが、XなどのSNSにおいては概ねゆるく共感帯を形成する一群が形成されがちです。つまり、ある程度の棲み分けがなされています。たとえば私のXアカウント(@yokitimeira)は積極的に感想の発信を行っていますが、シナリオ解釈において「建設的な疑義の提出」や「質疑を受ける」ことはあっても「攻撃」を受けた記憶はありません。誰もが皆紳士的で知的な方々でした。

 「パヴァーヌ」「カルバノグ」などで検索すれば好意的な感想を顕わにする私とは異なる意見を簡単に見つけることができますが感情的な「攻撃」と「反撃」が繰り返される「戦争状態」の発見は私の観察範囲内ではそう多くはありません。

 そもそも、否定的な意見を見ることを不快に思う人のために「検索避け」の努力を行ってpostをなす方々もいらっしゃいます。

 このことは既に互いがなるべく「戦争状態」に陥らないようにとの努力がなされていることとして理解してよいものと思います。

 これにはメリットもあればデメリットもあります。メリットはもちろん「戦争状態」の回避です。互いに異なる共感帯に属するのであるから、無用な衝突は避けようとする努力の発露です。これはたとえば「棲み分け」などとして語られます。デメリットは「共感帯の断絶の加速」です。「棲み分け」るのですから、わかたれた共感帯の断絶はむしろ深まるよう動機づけられるでしょう。互いの共感帯が接触する可能性のある場所、つまりそこは「火薬庫」です。私たちは共感帯を形成する努力ではなく、むしろ分断する努力をしていると言えるかもしれません。

 このような「分断」が機能しにくい場もあります。明言は避けますがある種の匿名掲示板などがそうです。「ブルーアーカイブ」は概ね好意的に受け止められている作品ですから、基本的に「好意的」な形でレスが続きます。しかし、否定的な意見が散見されるようになるとスレは途端に「戦争状態」――あるいは「荒れ」ます。「肯定的」な人、「否定的」な人、「単なる愉快犯」などが入り混じり状況は混沌とします。ごく稀に該当シナリオ明示などによる設定議論などが行われると「珍しいスレだった」という感想がスレが落ちるまえになされるほどです。こういった場所では「戦争状態」は珍しいものではありませんが、マイナーケースと言えるでしょう。

 ただ、これはあくまで個人の観察範囲に過ぎませんので私の見えないところで「戦争」は多発しているかもしれません。私自身が極めて「戦争」を厭う質のため、意識的・無意識的に見落としている可能性はおおいにあります。また、以上は否定側から肯定側への個人への攻撃が私の観察した限りだとそう見られなかったということですが、逆については概観できていない部分があります。もし逆が散見されるようでしたらこれは是非とも改められるべきでしょう。ただし「シナリオに対し肯定的感情を有するが運営・開発の思想には関与しない」立場であれば無矛盾に攻撃することが可能です。



そもそも「攻撃」とはなにか?

 より本質的な問題は、何が「建設的な意見」で「何が攻撃」なのか自明ではないということです。おそらくこの二者は1か0かの問題ではなくグラデーションを持つでしょう。つまり、「やや建設よりの発言」や「やや攻撃よりの発言」などがあり、しかもその程度をはかる尺度は一般的ではなく個々人が心中に持つはずです。

 さらには「建設的な意見でも攻撃でもない単なる愚痴」が可能だという立場もあります。

 可能な架空の一例を見てみましょう。

パヴァーヌやカルバノグを哲学的術語を弄して擁護するのは無理がある。

 これは「意見」でしょうか「攻撃」でしょうか「愚痴」でしょうか。

パヴァーヌやカルバノグを哲学的術語を弄して擁護するのを見ると辟易する。

 こう書くと「意見」か「攻撃」か「愚痴」かの解釈は更にかわるでしょう。

 さらにこれが@を付して個人に投げられたか、あるいは単に「散見される解釈」に対してなされたpostに過ぎないのかでも解釈は変わるでしょう。

 ただしこれは「線引き問題」です。以下の類は基本的に「攻撃」として「合意」されるでしょう。

@xxxx 学がないから読めないんだよバカ、般教レベルでこのくらい読めるわ

 さらに悲劇的な例もあります。「辟易」しているに過ぎない人に対して

@xxxx なぜ哲学的言辞を弄して解釈してはならないのですか?

 などと問おうものなら、「ただ辟易しているだけで"そういうことするな"とは言っていないのですが……」と困惑されることでしょう。

 何を述べたいのかというと「ブルーアーカイブに関する共感帯」以前に「攻撃」「意見」「愚痴」等の概念に関する概ねの合意抜きにして「建設的な議論」は成り立たないように見えるということです。

 しかし以上は簡易的な言語の概念分析を経て辿り着いた意見です。つまり、以上のような態度が既に「分析哲学」的な立場にコミットしています。この立場に合意してしまうことは哲学へのコミットを含意し、反哲学的読解を行いたい人を排除してしまいます。


素直な読解について

 「素直な読解」「素朴な読み」という概念が存在します。「ごちゃごちゃしたものを持ち込まずに普通に読めばこうなるだろ」という意味です。これは学術的には「素朴倫理」に倣い「素朴文芸批評理論」と呼ぶことができるでしょう。そして「ごちゃごちゃしたものを持ち込む読み」は「素朴文芸批評理論」に劣るという判断は「素朴メタ倫理」に倣い「素朴メタ文芸批評理論」によるとすることができるでしょう。

 「素朴」概念の把握は端的に表現してやや混迷しているところです。これについての実験的な把握は研究途上であり全容を掴みきれていません。たとえば質問紙調査による「素朴」性調査によると、簡単に「素朴」理論内部の矛盾を発見することができ、また質問の仕方を少し変えるだけで「素朴」な回答は大きく傾向を変えます。

 つまり現状の調査によると「素朴」は一貫性がなく、さまざまに形を変え、矛盾を孕み、「素朴」性の把握は極めて難航しています。

 以上が実証研究上の「素朴」の現状ですが「批評理論」を学んだ人の中には当然に「素朴」な読みにたとえばロラン・バルトらの「テクスト論」やたとえばヴォルフガング・イーザーらの「受容理論」といったある程度理論化された批評技法の優越を唱える人がいますが、これは自明ではありません

 また「素朴」概念を相手にするのは別の意味でも非常に難しいです。たとえば古典を現代的感覚で受容し批評を行うことを、批評理論を学んだ者は一技法として特段問題視しないでしょうが「素朴」な立場から「時代性を考慮しないこの批評の仕方はけしからん」と攻撃を受ける可能性があります。「素朴」に読んだはずなのに「素朴メタ文芸批評理論」により殴られるのです。これはフランスの悲劇作家ラシーヌをロラン・バルトが現代的に読解し、徹底的に痛罵され、「作者の死」を唱え「テクスト論」への潮流を作ったあの流れの端緒と似ていますが、数十年前の事件は現代も再生産されつづけています。

 「素朴」の変形概念に「直観」があります。これはヒトの「素朴」な理論が未熟であることは認めるが、一定の習熟を経た人間による、論理的推論を経由しない判断のことです。つまり「素朴」な態度を拒否しつつ「ごちゃごちゃした理屈」へのコミットメントも拒否して「「普通に読む力」のある人間が読めばこうなるだろう」と判断するわけです。

 しかし「直観」の支持もブルーアーカイブの読解の場合困難をきたします。たとえば「直観」を支持して「パヴァーヌ2章」を読むと「リオの否定」に繋がりかねません。これは「直観」による正義がイマヌエル・カントらの「義務論」でありこれと敵対する「ごちゃごちゃした理論」である「功利主義」をリオが標榜しているためです。整理としては以下などが参考になるでしょう。

 「直観」により「功利主義」を支持するなどと言い出してしまえばいよいよ、現代的なメタ倫理的議論に突入しかねません。

 以上により「素朴」の位置づけは極めて困難です。「素朴」な読みを特権化することも逆に下に見ることもどうしても複雑な文学・哲学的理論へのコミットを回避できません。

 ただし「ある時代のある地域の素朴な読み」を定量的に集めることはできます。その結果としてたとえば「素朴に読んでパヴァーヌやカルバノグは比較的低く見られている」という結論を導出することは可能です。ここで注意すべきなのが「ある時代のある地域の素朴な読み」により得られた「素朴な評価」からは「作品の一般的価値」を導出できないことです。数多くの絵画・クラシック・文学作品等の「価値が再発見」された事実が現に存在します。しかもそれらのほとんどは「素朴」を相手にした実証調査の結果なされたものではありません。

 「価値一般」とは非常に難解な概念であり、そもそも作品に内在する「価値一般」が存在するのか否かの判断すらやはり美学・文学・哲学へのコミットメントを回避できません。


すれ違いについて

 以上のような議論を私は「ある意図」をもって行ってきました。それは「パヴァーヌやカルバノグはつまらないだろう」という立場と「このように読めて面白い」という立場の決定的なすれ違いについて明示する意図です。

 私見ですが「パヴァーヌやカルバノグがつまらない」という主張は「単なる素朴や直観」のみならず「5段階などで素朴読解の価値が定量化されればそのような結果が出るだろう」という「大衆化された感想の事実」にもコミットしているように見えます。つまり「売れないシナリオだ」というわけです。

 対してたとえば私のような読解者はそのような立場にそもそもコミットしていません。わかりやすいように例を挙げましょう。ヨハン・ゼバスティアン・バッハによる「無伴奏チェロ組曲」は著名なチェリスト達を魅了し続けてきましたが、たとえばブルーアーカイブのメインシナリオライターisakusanを魅了し考察オタクとして没頭させた「新世紀エヴァンゲリオン」において碇シンジが演奏する第一番ト長調前奏曲が誰もが知る「大衆化された名曲」になるほどの「再発見」に至るには1890年以降のパブロ・カザルスの登場を待たねばなりませんでした。

 あるいはオタク作品に幾度も引用されているフリードリヒ・ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」はほぼ反響がなく、第四部は当初私家版40部が刷られるばかりでした。当初全く省みられなかったこの書籍は現在学術的にもエンタメ的にも膨大な引用がなされ、「ブルーアーカイブ」においても「不知火カヤ」の「超人」思想を知るためのひとつの書として必読です(もちろんこれだけでなく「善悪の彼岸」や「偶像の黄昏」といった諸々に丁寧にあたっていく必要があるでしょう)。

 あるいは日本において現在に至っても大衆的には完全に省みられていない名著であるデイヴィド・ヒュームの「人間本性論」は「印刷所から死産した」と言われるほど当時省みられなかっただけでなく、ヒュームは自身の懐疑的な哲学的議論により無神論者との誹りを受けて望んだアカデミアのポストにつくことがかないませんでした。日本において本書の邦訳にアクセスするためには、2010年代の進んだ研究を含んだ高価な新訳を待つまでは岩波の旧字体版に依らねばなりませんでした。

 バッハが私のようなチェリストにおいてまるで神のように崇め奉られているのと同様、分析哲学徒にとってデイヴィド・ヒュームとは絶対に避けて通ることのできない偉大な碩学です。しかし少なくとも日本においてはニーチェほどの人気はまずありません。

 以上をもって誤解してほしくないのは「私たちは大衆化されていない作品の真の価値にアプローチしているのだ」と言いたいのではないのです。細々とチェリストによって愛好されてきたり、40部の私家版として出版されたり、印刷所から死産した上日本でも誰それ扱いだったりするような作品であっても「何かがぶっささってはしゃいでいる人がいて、何がぶっささっているのかまくしたてている」に過ぎないのです。「売れていない」ことはこのような形でハマっている人にとってほぼ関心の外と言ってよいでしょう。

 たとえばisakusanが先述のインタビューでプレナパテスの在り方を評価するに際してスピノザの「エチカ - 幾何学的秩序に従って論証された」をひいてきたのを見て、嬉々として本棚に向かい、「エチカ」に併置されたユークリッドの「原論」を見てウッ……と唸っているような私の興味関心の持ち方と「どれだけの人にアプローチできたか」に着目する人とではほぼものの見方が違うはずです。

 「ウケ」なかったらサ終するぞ、というもっともな意見があります。そして実際「ウケ」ずにサ終したあるソシャゲのシナリオに熱狂していた事実が私にはあります。そのソシャゲでの体験は私に最終編4章をより素晴らしいものとして体感させてくれました。以下noteの「蛇足:そして傷跡。拡張少女系トライナリー」の項を一読いただければ、その意図を理解いただけると思います。「ウケ」るかどうかは本当に基本的に私の関心の外なのです。



間テクスト性について

 また、私の読み方は「ブルーアーカイブのテクスト内部」だけでなく外部テクストにも強く依存しています。インタビューもそうですし、上のインタビューで語られたスピノザの「エチカ」もそうでしょう。フィリッパ・フットの「トロッコ問題」を巡る哲学・倫理学的議論や、科学における立証責任問題、作中でより厳密に語られた「囚人のジレンマ」、先述の不知火カヤに係る「超人」概念の把握など、私の読解noteは多数の外部資料に依存しています。

 isakusanの「モチーフはモチーフに過ぎない」という言葉により「第一回公会議とニカイア公会議」を結びつけることはしませんし、「10の戒律」を「モーセの十戒」と結びつけることもしません。せいぜい「アンブロジウス、ヒエロニムス、グレゴリオときたら次はアウグスティヌスだろうなあ」と予見するくらいです。そしてそもそも「モチーフはモチーフに過ぎない」という読み方をしている理由が「isakusanの指示に従う」という形でインタビューにコミットしています(逆に、isakusanの「先生」は「プレイヤー自身」として読んで欲しいという要請については私は必死に抵抗を続けた結果最終編4章で刺し殺されました)。

 このような大量の外部資料に依存した読み方は少なくともisakusanによって決して特権化されていません。isakusan自身エヴァ考察畑出身ですが、「自分の好みに合わせて」ブルーアーカイブを読むことを推奨しています。

 一口に「考察を好む」といってもその切り口さえ様々です。たとえばキヴォトスの広さを議論するとき「空港がある」「自転車で道に沿って移動して4000キロある」といった作中情報のみに依拠する人もいれば、インタビューで「大陸」と明言されたことを引用する人もいます。デカグラマトンの光輪について本人はヘイローと言っているが本当にヘイローだろうかと作中で確定情報がないことから懐疑を持つ人もいれば「デカグラマトンのアレはヘイローだとisakusanが明言済だ」で片付ける人もいるでしょう。

 外部テクスト引用型の読解については「牽強付会」「我田引水」であるという批判に対して常に開かれているべきです。ただ、この批判の正当性も所与ではありません。ロラン・バルトによる作者の死によりテクストそれ自体や読者により焦点が当たった結果として「文学界では」多様な読みが許容されています。「マルクス主義」「ジェンダー」「クィア」「ポストコロニアル」「カルチュラルスタディーズ」……等々、様々な観点からテクストを解剖しようという試みが存在し、こういった読解は現状学術的に価値があると許容されているようです(たとえば日本において科研費の補助事業とされているように)。また「計量文献学」などの統計学的手法によれば、ある部分においては作者以上に作者の癖を知ることができるかもしれません。

 「テクスト論」等における「読者はどこまで自由か」という線引き問題については、驚くほどの自由が私たちに許容されています。そしてこれらの読みにおいて重要なことは「作者の持つ一つの答えにアプローチすることを目的としていない」ことです。換言すれば「何が正確なテクストの読みなのか」を全く問題としていないと言えるでしょう。

 文学界によるこのような、作者や単一解へのアプローチへのかなり強い忌避感についてはisakusanによる先述の「異端を燃やして無残な一冊のカノン(聖典)が残ること」は「ブルーアーカイブ」にとって有意義でないという主張からもうかがい知ることができます。この強烈な拒絶反応は実際に文学研究界に浸っていないとなかなか実感しにくいかもしれません。

 また、「トロッコ問題」や「囚人のジレンマ」の際のようにブルーアーカイブにおいて先生は思考実験を現実に素朴に適用することにかなり強い拒絶反応を示しますが、この忌避感もやはり哲学界に身を置かないと実感しにくい部分があるかもしれません。それはたとえば次のように表現されます。

「哲学的思考実験は、哲学の考察ツールであり他の用法は誤用である」
と一蹴する意見が存在する。
つまり、哲学問題を現実と絡めて論じること自体に忌避感がある。

南山大学「社会と倫理」第35号 2020年 より
大庭 弘継「思考実験の社会実装―必要性、批判、展望についての試論」
※ ある種の哲学徒の「心情」の説明のため、極めて端的な説明がなされていたため引用。
この試論はこの「心情」を正当化する目的のものではないことに注意

 実験心理学の「再現性危機」や「一般化可能性危機」、「行動経済学の死」といった事件と哲学は無縁ではありません。ダニエル・デネットが述べているように哲学における「トロッコ問題」のような「思考実験」は「自身の直観を汲み出すポンプ」に過ぎません。たとえばリオが「トロッコ問題」から功利主義を汲み出したように、「トロッコ問題」からは義務論やコミュニタリアニズムなども任意にくみだすことができ、そして「トロッコ問題」それ自体はそれらどの対立する正義も正当化し得ないのです。
 「囚人のジレンマ」はオトギが条件を限定した上でAll-Dを推奨し、実際あの状況を受け入れるのであればAll-Dの採用がモデル上有用と思われますが、先生が採用しているのはエデン条約編3章でも明言されているとおりAll-Cです。その理由は対策委員会編2章から語られているとおり「大人の責任」「先生の義務」からの導出であり、哲学徒は「思考実験」によってはこのような先生の態度を論駁しえないことを数十年前に通過済の常識として了解しています。

 先に「功利」と「直観」を挙げましたが、それぞれの立場はそれぞれの前提において合理的であり互いの棄却には至れません。非哲学徒にも有名な一冊であるサンデルの「これからの「正義」の話をしよう」のように「トロッコ問題」はしょせん様々な正義に関する立場の紹介という意味で、せいぜい学習教材的な意義を持つに過ぎず、なにものも支持し得ないでしょう。

 isakusanが(先生はプレイヤー自身であるという強い要求を除いて)テクスト解釈は読者の自由であるとして、どのようなインタビューにおいても単一の答えを示そうとせず、「正統解釈」を拒否し「思考実験」をあくまで「思考実験」に過ぎないとして扱うような態度は、極めて私のようなタイプのオタクにとって居心地のよいものです。

 「カノンへのアプローチ」が要求されない以上、テクストは好き放題読んで良いものとなります。

 パヴァーヌやカルバノグを批判する方々の意見の中に、「そのような読み方で読もうとすればなんでも面白いと言ってしまえる」というものがありましたが、先述のとおり批評理論を援用した読解は「作品の価値一般」にアプローチしておらず、「特定の一視座」で「特定の一個人が見た場合」の「一感想」に過ぎないものです。

 ゆえに、その批判はむしろ当然の前提と言えるでしょう。そして「文芸批評」もまた「作品」であるがゆえに評価に対して開かれるべきでしょう。その私の「読み」に「♡50以上ついてるから価値ある読解」とする「♡量主義」による評価を行ってもよいですし、実際に内容を吟味して「あの外部資料への依存に気づいていないのか」とほくそえんだり逆に「もっと内部に閉じて読んで欲しい」と評価したりするのも自由なわけです。タカネさんの文芸批評に関する主張に以下がありますが、幾つか「この視点は面白かった」との評価をいただいたことがあるのでタカネさん的視点においては私のnoteは一部成功しているのでしょう。面映ゆいことです。


共感帯の断絶について

 以上をもって、私は「共感帯の断絶」に対する根本的に有効なアプローチが見いだせないことを述べました。私が行っている読みは先述のとおり「一個人が一視座で見た一感想」に過ぎません。同じ場所に立ってみた人が全員私と同じ結論に至るはずがありません。読解は「提案」に過ぎず、むしろ逆に「なんとおもしろくないものの見方だ……」と判ずることさえ許されるのです。

 ゆえに私は面白く感じたシナリオに直面するたびに「このように面白かった」と読みを暗闇の中で呈示して手を伸ばして「確かにその見方は面白かった」と手をとる人が偶然あらわれたならそれで満足する、という消極的な立場をとっています。最悪の場合内輪受けしかせず、共感帯形成になんらの寄与もしないことも覚悟しています。

 「どう見ても面白くない」という人に無理矢理「面白い」と言わせて同じ共感帯に押し込もうとするのは許されることではないはずですから、決して共感帯の断絶を埋めようという営為は強引であってはならないと思っています。

 百合園セイアの言うとおり、暗闇の中で一歩一歩歩いて手を伸ばすしかないのだと思います。それがどこに到達することがなくとも、です。


片務的なお願い

 ゆえに、私は私と同じ場所に立つ人に「片務的」なお願いをします。つまり、断絶した共感帯において「私たちだけが負うべき義務」を背負いたいのです。

 その片務的な義務は「攻撃をしないこと」です。そして「できるかぎり苦痛を与えないこと」です。

 「攻撃をしないこと」も「攻撃」の定義が難しいことは先述のとおりです。けれど、各々が自覚する「攻撃」の定義に従い「攻撃」を控えていただきたいのです。それは「パヴァーヌやカルバノグといった作品自体が攻撃された場合」も「それらの作品への読解が攻撃された場合」も「読解をする個人」が攻撃された場合も、そうです。どうか「その攻撃者の人格を論う」などのことはせぬようお願いしたいのです。

 また、そのように「攻撃」をする人となんとか「建設的な議論」を成立させようとする努力もまた望ましくない可能性があります。それはただ相手にとって「鬱陶しく、苦痛である」可能性があるからです。人を苦しめることは望ましいことではありません。共感帯の溝は深まるかもしれませんが、紳士的に、温和に、静かに、距離を置くのがよいと思います。

 このような場合、たとえば「パヴァーヌやカルバノグ」が叩かれ続ける状況に根本的に何もできないじゃないか、という意見があると思います。私の立場は、それを甘受することです。無伴奏は長らくチェリストの間でのみ愛好されました。ツァラトゥストラ4部は40部、しかも私家版としてしか出版されませんでした。人間本性論は死産しました。そのことと私がそれを愛好することの間には特に関係性がありません。だから、「根本的に何もできないこと」は「根本的に何の問題もない」のです。

 もちろん、気分としては「誰か好きになってくれるといいなあ」という思いはあります。ただそれはただの「思い」に過ぎず、シナリオを読んだ果ての「感想」として発露するに過ぎません。

 私は「楽しくなかった」という人を守りたいです。守りながら、楽しんでいたいです。


補遺:建設的な議論の可能性について

 このように概観するとisakusanの述べる「建設的な議論」がまるで奇跡のように見えます。しかし、事実としてこれが成立することを私は知っています。

 上のnoteにおいて、「トロッコ問題」について語るくだりが存在します。そこにおいて「持論を極めて合理的とするリオの仮説に対する、科学哲学的検証者」として私は先生を描き、なぜ「日常会話のような説得の手法」ではなく「科学的な仮説の検証」を行ったのか記載しています。この箇所について、特に面白かったという感想をいただきました。

 しかし、実のところその箇所は本note投稿当時には存在しなかったのです。丁寧に本noteを読解くださった方より「それでもやはり先生とリオは話しているとは思えない」とご指摘いただき「日常会話の枠組みにおいては先生とリオはあのとき対話しているとは言えない」という点で私たちは合意しました。また、先生の指摘が過度に「科学的・哲学的」に偏っていることも合意しました。

 その上で行われた追補が「先生はリオとの対決において日常会話レベルの説得ではなく検証の手法を選んだ。先生は科学者でも哲学者でもないのになぜか。それはリオがミレニアムサイエンススクールのセミナーの頂点に立つほどの科学の徒であり、最終編でリオ自身が認めた「前提の誤り」をリオにわかりやすく伝えるためには日常会話ではなくリオの常日頃浸っている科学の場で会話した方がわかりやすいから先生は教育者としてそうした。先生の説明はわかりやすいとコトリの絆などで語られており、またエデン条約編冒頭における「先生像が報告書によってバラバラだ」というティーパーティーの調査結果がこれを支持する」というものでした。

 この追補は対話によってはじめて完成されたものであり、そしてその追補部分を面白く読んでくださった方が少なくともひとりいらっしゃったという事実は、行われた議論がごく小さな意味であっても建設的であり得たと私は考えています。

 isakusanの述べる建設的な議論はなかなか難しいものです。それでも共感帯の内部において、時には共感帯を形成できていない相手とも建設的な議論が成立することがあるかもしれない――と私は少しだけ信じています。


追補:生徒等へのアンチについて

いただいたコメントをもとにした追補記載です、こういったコメントをいただけることはたいへんありがたいことです。

 私は「「我々」は攻撃を受けているか」においてそれほどでもないように見えると記載しましたが、一部生徒へのキャラアンチが激しく確認できるというご意見をいただきました。たとえば「不知火カヤ」がそうです。

 彼女への攻撃あるいは意見を幾つか挙げるならば以下などです。「キャラクター性が浅薄」「ストーリー上の単なる擁護不能な小悪党」「キャラクターの拡張可能性に欠ける」「超人(笑)」などです。

 ニーチェの「超人」思想を注意深くひもとけば、むしろカヤはある部分ではそれを満たし、ある部分では「超人」思想に逆行し、むしろ「超人」という窓から彼女を見た際の彼女の性質はやや複雑です。以下「補遺:不知火カヤ学入門」でより詳細に述べていますので詳論はおきます。興味があれば一読くださいませ。

 いずれにせよ、私は幸いにしてX上では安易なカヤの論いを見ることはありませんでしたが、匿名掲示板上などでの扱いはややひどいものがありました。

 不知火カヤが攻撃される、あるいは不知火カヤを通して個人攻撃がなされるのを見ている、といった意見をいただきました。とても残念なことです。

 残念なことですが、本論で述べてきたとおり根本的な解決策はありません。たとえば私の上のnoteは「不知火カヤが至っていた点」「不知火カヤが至らなかった点」「不知火カヤがやりたかったこと」を述べた上で、今後彼女が「超人」となるのか現在の「超人」以前として動くのか、「超人」性を放棄し「キヴォトスの正常化」という彼女の理想を目指すのか――など全く先が読めず、非常に気になる生徒だと論じています。ですが、このnoteは万単位でいらっしゃる先生に対してさほどの効果を与えないでしょう。

 つまり「不知火カヤ」をよく理解しようとせず弄られる状況は改善しないだろうというのが私の考えです。

 isakusanは「テクストが読者に対し開かれる」とともに「(建設的で有意義であることを条件に)論争的」となることも望んでいらっしゃいます。また「倫理」を主要な問題として取り扱うことも明言している上に、評価に一喜一憂せず書くべきことを書くと宣言しています。

 つまり「不知火カヤ」や、意見をくださった方は述べませんでしたがたとえば「調月リオ」のような生徒は今後も躊躇なく投入されていくだろうというのが私の予見です。もちろん私にとってはこんなに嬉しいことはありません。向き合いがいがあってたいへん嬉しいことです。

 しかし、そのたびにアンチが暴れ回るのかと暗澹たる気持ちになる方がいらっしゃるかもしれません。私の結論としては、その場合そうであろうし、根本的に解決できないであろうから諦めるほかない、というものです。「攻撃」はもってのほかですし「建設的な議論」の持ちかけも、相手にとっては不愉快で苦痛を与えるだけのものに過ぎない可能性があります。

 以上から、私の実践を述べるならば「こう読めるんだよ……こう書いてあるんだよ……」と魅力をnoteを書き連ねることしかないのですが、先述のとおりその効力はたいしたものではないでしょう。

 大勢を変えられるかという問いについては、先述してきたとおり「無理だだろう」というのが私の結論です。「少なくとも私の共感帯に属する人はただ殴られ続けることを甘受することで戦争を回避する」くらいしかできないだろうと考えています。先述のとおり私はnoteを書いていますが、その効力についてそもそも懐疑的です。

追補2:建設的な議論の可能性について

こちらもいただいたご意見による本論の拡張となります。

 isakusanは「建設的な議論」を要求しているし、それは確かに理想論だがそんな議論は存在していないというご意見をいただきました。これにはふたつの観点から回答します。

 まず、ひとつめ。ご意見を単に字義通りに解釈した場合その主張は偽でしょう。先述のとおり私の過去のnoteを巡る「トロッコ問題」の扱いについて、議論の拡充とその拡充箇所への好ましい感想の表出という形で建設的な議論が成立しているように見えます。論理上、全称命題の否定は1例を挙げれば済みますからこれで反駁は終わります。この1例だけでなく、たとえば先日の私のTLでは「キヴォトスの生徒が極めて強い自由を持つことについて」の議論が法的・経済的観点から行われました。端緒は「小鳥遊ホシノは17歳であり日本であれば制限行為能力者であるが、日本において成人ですら自己奴隷化契約を憲法18条や強行規定である民法90条により当然に拒絶できるのに、子供のホシノが先生による瑕疵の指摘によるまでは契約に縛られていたのはキヴォトスの生徒の法的な自由が強すぎるよね」というものでした。また、この点から「生徒の強すぎる法的な自由を大人がハックして悪事を働いている例はロシア・フォルマリズムの言うところの「異化」効果を発している」という文学的な議論もなされました。以上のように、私にとっては「建設的な議論」は日常的に見られるものです。

 ただし、これを字義通りに解釈せず「大局を見た場合そういった議論がなりたっているようにみえる場面がほぼ見られない」と解釈した場合、その可能性はあり得ます。私が「そういった話をしたいのでそういった集団に属している」からそのような話が頻発しているのであって、界隈一般にそのような話が頻発していると素朴に考えることは無理があるでしょう。

 またそもそもそのような状況が支配的になることをisakusanは望んでいません。キャラクターの可愛らしさや関係性や物語の大筋に着目して楽しむ姿勢をisakusanはひとつの姿勢として勧めています。どこもかしこもキヴォトスの謎を探っていては、私たちは皆ゲマトリア同然になってしまいます。

 ゆえに、この解釈に対する回答としては「大局を変えるのは無理だろう」「もし何らかの形の建設的な議論を行いたいのであればそういった集団を探して属するしかないだろう」という、大きな問題についての諦めと小さな問題についての解決が挙げられるでしょう。

 ただ、「無意味であることは最善を尽くさない理由にはならない」ことはアズサが指摘済です。ゆえに、ほとんど効果のないnoteを書くという抵抗を私は続けているということになります。

 大局を何ら変えられず、内輪以外に届いているのかすらもわからないシナリオ感想という手を暗闇から伸ばして、たまに誰かが面白かったと言ってくれる、それを繰り返す。たぶんそのほぼ効果のない努力を私は繰り返すことになるでしょう。

 ただ、少しでも「攻撃」がなくなれば嬉しいというこれは弱々しすぎる祈りです。何ら根本的な解決策になっていません。ただ、こうして暗闇の中で宿題を背負うというほとんどどこにも到達しないようなことをするほか、私にはできることがないのでした。

 また。楽しかった、好きだと語ること。それ自体がそもそも楽しいということ。そのことは、本論とは関係のない部分で、私にとって小さな救いになるでしょう。

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