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8月15日の終戦記念日に想う

長 峯 良 斉

= 百年後の神風評価 =

 もう1年半くらいにもなるのだが、テレビのあるクイズ番組のシーンで、今もなお強烈な印象として残っていることがある。

 それは「日露戦争における日本海海戦の日本の連合艦隊の司令長官はだれ!?」という問題であった。5〜6名の解答者はみな20歳代から30歳代前半と思える秀才タイプの青年たちばかりである。その1人がパッとボタンを押して「山本五十六!」と答えた。
 司会者が「明治時代の日本海海戦ですよ・・・。次に(ボタンを)押している方・・・はい、女性の○○さん」と指名すると、彼女は「東條英機」と答えた。
 音楽・化学・スポーツ・社会等、何でもパンパン答えていくこの秀才型の青年たちに私は唖然とするより、一瞬身におそろしさにも似たものが走るのを覚えた。

 そのショックを受けて間もない頃、私は神奈川県警察学校(生徒は大卒・高卒合せて約450名、うち婦警さん約35名)へ招かれて「私のなかの青春」と題して講演を行なった。興味があったので冒頭に、「日本海海戦のわが連合艦隊の司令長官の名を知っている方は!?」と訊ねてみた。元気よく手を挙げ東郷平八郎と答えてくれたのは30名くらいにすぎなかった。
 私は、やっぱり、と思うと同時にゼロではなかったことに愁眉を聞く思いで、さすが警察学校の生徒さんたち、と喜びを感じ、続いてもうひとつ「神風という言葉で何を連想されますか」と訊ねてみた。これには殆んど全員が「特別攻撃隊」であると答えてくれた。そしてある生徒が「神風タクシー、神風運転」と答えたら爆笑があがった。

 そこで、時代の流れを感じつつ思うのは、百年の後、太平洋戦争で残るものは(一部専門家においては別として)ハワイ攻撃と神風特攻、それに原爆の3点ぐらいのものであるに違いないと、日頃の考えの間違っていないことに証明を得た思いであった。

 同時に、後世の史家が、日本民族の歴史をたどり太平洋戦争史をひもとくとき、真っ先に取り組むのが、神風特攻の思想であろうと思われるのである。
 なぜなら、戦後日本が経済大国に発展して未曽有の平和を享受するに至った。その礎はなんであったかに大きなかかわりあいを持つと思うからである。
 祖国の危急にさいし、青年たちが苦悩をのり越えわが身を弾にかえ、敢然と国難にあたっていった事実は長い歴史につちかわれてきた日本民族の魂の凝結に他ならない。この不僥不屈の精神が戦後、焼土と化した日本をこのように見事に繁栄させ開花せしめたものと信ずるからである。

 ここで神風特攻で散華した英霊の数と年齢について考察しておこう。
 その数、海軍は2千535名、陸軍は千844名となっている。では年齢は何歳くらいであったか。海軍の場合、海兵出身者114名、予備学生出身者約600名その他約千800名が予科練及海兵団出身者である。海兵・予備学生出身者はほぼ同年齢で、平均22歳くらいであったと思われる。
 特攻隊員の中に実に72%にあたる予科練出身者の年齢はどうか甲飛は九期以降、乙飛は十五期生以降が主で、それ以前のクラスから神風特攻戦死者は数えるほどに過ぎない。(古いクラスから少ないのはこの頃すでに7割以上が戦死しており、生存者が少なかった)
 丙飛予科練、特乙飛の場合もほぼ同クラスにあたる。そのために、年齢は最低17歳から20余歳までが多い。つまり、陸軍は詳しくないので省略するとしても特攻全体の英霊の平均はほぼ加歳くらいであったと思われる。

= アンドレ・マルロー特攻感 =

 一昨年、20世紀が生んだフランスの偉大な作家、アンドレ・マルローが亡くなり、その追悼文が、長塚隆二先生(フランス文学者、日大教授)の寄稿で読売にこう書かれている。

 「彼が日本および日本人の比類なき理解者であった事実をもうひとつ披露しておこう1974年6月、パリ南方郊外の彼の家を訪れたときのことである。話が特別攻撃隊におよぶとかすれがちな声がにわかにきびきびしてきた。そして『確かに日本は太平洋戦争で敗れた。だがその代わりに何ものにもかえ難いものを得たことを忘れてはならない。それは世界のどの国にも真似のできない特別攻撃隊である。戦後、フランスの大臣として日本を訪れたのは私が最初だが、そのときも陛下にとくとそれを申し上げておいた。スターリン主義者たちにせよナチ党員にせよ、結局は権力を手に入れるための行動にすぎなかった。日本の純真な若い特別攻撃隊員たちはファナチックだったとよくいわれる。それは違う。彼らに権勢欲とか名誉欲など露ほどにもなかったし、ひたすらに祖国を憂える貴い熱情があるばかりだった。代償を求めない純粋な行為、そこに真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチスムとは根本的に異質である。人間はいつでも偉大さえの志向を失ってはならないのだ』と、しばし瞑黙した。―略― 真に日本を愛し、高度な思想を行動に密着させた稀有の人ならではの持別攻撃隊観である。特別攻撃隊員までとやかく批判するわが国の進歩主義者たちに、とくと聞かせてやりたい言葉だった。―略―」と述べられている。

= 大西中将と宇垣中将 =

 しからば、特攻誕生の背景は何か。大西滝治郎中将が、比島に展開していた第一航空艦隊の司令長官に着任と時を同じくして発生した捷二号作戦に呼応し決断実施されたことは周知の通りてある。
 その、よってもって来たる理由中将の思想等について私は未だ勉強不足であるが、当時、戦術としてそうするより他にうつ手が見い出せなかったものであろうし、中将がごく親しいまわりの人々に語った言葉の断片をつなぎ合せてみると、「特攻は統率の外道である」と自らそういいながら「今の日本の危機を救いうる者は大臣でも大将でもない。若い人々の体当り精神である。この戦争は勝てないかも知らんが、青年たちが国難に殉じたという歴史が日本民族を滅ぼさないのであり、日本が敗けないためてある」と語っている。そして「やっぱりわかってもらえないだろうな」といって「わが声価、棺を覆って定らず、百年の後、また知己なからんとす」とつぶやき終戦とともに特攻の英霊を追って自刃したのであった。

 その遺書に「特攻の英霊に日す。善く戦ひたり」と謝し生き残った青年に対し「―日本人たるの衿持を失う勿れ。諸子は国の宝なり。平時に処し、猶ほ克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の平和の為最善を尽せよ」と述べている。

 そして、同じ終戦の日、最後の特攻として第五航空艦隊司令長官、宇垣纒中将が大分基地よりわずか11機の彗星艦爆を直率して沖繩の敵艦隊に突入散華したのであった。(途中3機不時着し8機が突入)中将が開戦直前より終戦の日まで書きつづけた戦闘記録日記、題して戦藻録の最後の8月晦日には次のように書かれている。

―略― 午後君が代に続いて天皇陛下御自ら御放送遊ばさる。ラジオの状態悪く、畏れ多くもその後の内容を明らかにするを得ざりしも大体は拝察して誠に恐催之以上の事なし。親任を受けたる股肱の軍人として本日此の悲運に会す。噺塊之に過ぐるものなし。嶋呼!

 参謀長に続いて城島十二航空司令官に再考を求められたるも後任者は本夕刻到着する事明にして爾後の収拾に何等支障無し未だ停戦命令にも接せず、多数殉忠の将士の跡を追い特攻精神に生きんとするに於て考慮の余地なし。顧みれば大命を拝してより、ここに6ヵ月、直接魔下及指揮下各部隊の血戦努力に就ては今更啜々を要せず指揮官として誠に感謝の外無し――(以下略)と、陛下にお詫びをし、部下の血戦努力に感謝を述べて英霊の跡を追っている。

 ごく大要に過ぎないがこの二指揮官の遺書日記により指揮発令者側の思想はほぼ了とされる――無論、その思想を深く探究するには、当時戦勢の挽回をはかるための体当りをする以外に方策なしとする、例えば桜花の開発有馬少将の行動など多岐にわたって研究すると同時に、二提督について深く研究する必要があろう。

 大西中将は、特攻を誕生させ発令した時点ですでに自らも時機至るを以て自刃する覚悟を定めていたに違いない。宇垣中将もまた、特攻の継続を決意したその時点で、自らもまた最後の特攻を覚悟したものと推察できる。この間の消息は、「大西滝治郎伝、戦藻録」等によって窮い知るのである。

= 英霊に真の慰めを! =

 毎年めぐりくる8月妬日に想うことは散華した全英霊たちの真実の声である。彼らの声を聞くことであり、その声を後世に伝えることこそ、生き残った者のつとめであると思う。

 日露戦争と太平洋戦争がごっちゃになってしまうようではこまるのである。

 英霊に、心からの感謝を捧げるときにこそ、真に戦後の有難さが理解できるのである、そして子々孫々にいたるまで平和が続いてくれることであろう。

 ゆえに、ひとり特攻に限らず戦病没された全英霊にとって、われわれが平和の有難さを正しく理解し慰霊顕彰の実をあげ、後世へ語りついでいくことを誓ってこそ、真の慰めであるに違いないと拝察するのである。

(海原会会長(当時))

(海原会機関誌「予科練」27号 昭和53年9月1日より)


 予科練の所在した陸上自衛隊土浦駐屯地にある碑には以下の碑文が残されている。

「予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。

太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。

昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争に於ては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。

創設以来終戦まで予科続の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈って、ここに予科練の碑を建つ。」


昭和四十一年五月二十七日

海軍飛行予科練習生出身生存者一同

撰文    海軍教授 倉町歌次


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