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何になるかではなくどう生きるか

私が勤務する学校に認定NPO法人CFFジャパンの青年たちが来てくれるのも、今年で3回目。今回も、熱く語る大学生たちの姿に私自身が何より励まされ勇気をもらいました。

依頼していた企画が終わっての振り返りでは、大学生が1人ずつ、出逢った高校生たちのことを丁寧に話してくれました。とても謙虚で真摯で、一生懸命に語る姿に、私は静かに感動していました。

私自身がCFFで活動をしていた頃から、仲間と互いに問いかけ合い大事にしていた言葉があります。その1つ、「何になるかではなく、どう生きるか」という言葉は、今でも時折心に浮かんでは初心を思い起こさせ、目の前の現実を違った角度から見せてくれます。職業という「名前」ではなく、自分自身が心底納得して選ぶ生き方や在り方。そんなことばかりを、学生の頃の私は仲間と一緒に探し求めていたような気がします。

私自身が選んだのは「教師」という職業ですが、その選択までには、自分がどう生きたいか、何を表現したいのか、どんな未来を創りたいか・・・そんな問いが多々ありました。「教師になる」は、いわばスタートで、ゴールではない。私が「ゴール」というイメージに似て夢見ているのは、簡単に言ってしまうと「平和な社会を創る」なんだと思います。「平和」というのは「戦争がない」ということだけではなく、誰もが安心してそこにいられる、とか、お互いの自由が承認され権利が尊重される、とか、日常に当たり前にあって欲しいけれど時として見過ごされたり投げ出されたりしがちなこと、そんなことも全部です。だから、いつまでたっても試行錯誤と学びが続きます。「達成できたかな」という感覚はいつも一瞬で、常に自分が大事にしたいイメージにフォーカスしておかないと、いろんなことを見過ごしてしまう。

「何になるか」だけを考えてきた教師と、「どう生きるか」を考えてきた教師では、視点が全然違うような気がします。「何になるか」で教師になった人は、教師になったことで「達成」してしまうのかも知れません。既存の枠組みに沿って、そこに自分を当てはめていくことが自分の立場に求められていることだと思ってしまう。違和感を持っても、問いかけることをしないまま「どうせこんなもんでしょ」に甘んじてしまう。そしてどんどん教師という仕事の本質的なところから遠ざかってしまう。自分自身がどんな在り方でいたいのか、子どもたちの中に何を育みたいのか、自分の働きを通じてどんな社会を創りたいのか。そんなこんなを思いめぐらせ迷い悩んで伸ばした根っこは、結局職業として何を選ぼうとも、職業の名前以上の何かの支えになるような気がします。そしてその根っこは、地中にぐんぐん根を張って、同じような問いを持っている人たちと深いところでつながっていくような気がします。地上に咲く表現は違っても、そのつながりが見えないところで、誰も知らないところで、共に社会を支える礎になるような気がするのです。

「どう生きるか」を散々問うた若者たちが、自分なりの表現を見つけて社会に出ていく。それぞれ違ったように存在しているけれど、見えないところで手を携え合いながら社会に少しずつポジティブな働きかけをしていく。そんなイメージを、私はいつもCFFの若者たちに見ています。私も今持っている「名前」にとらわれずに、必要な人たちと手を携えてできることを探していきたいと改めて思いました。


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