感覚で世界を見る

友人による、ヨーガを巡る座談。

今日の話は、思考よりも感覚を使って世界を見るということ。思考は、物事に良しあしをつけてしまう。排他や否定が生まれてしまう。一方で感覚を見ていくと、これを表す形容詞は、「心地よい」とか「狭い」とか、自分が感じる事実であって良しあしをつける必要がない。

「分別がある」とは良い意味でつかわれる印象だが、サンスクリット語で「分別」は「ヴィカルパ」、意味としては「実態のないものをあるかのようにして見る」ということ。これは、暴走すると相手や自己を否定する。

思考で生きていると、気づきたくないものには気づかないようになってしまう。感覚で知っていくと、推論ができるようになる。道理に即して予測が立てられるようになる。それが自分の求めるものでなくても、その経験が自分に与えたいものは何かに意識が向く。感覚で見る練習を重ねていくと、推論に間違いが減っていく。見たくないものも見えてくる。困難にあっても、それを克服していずれたどり着く豊かさを、感覚を使うことで今ここで見ることができるようになる。自分で引き受けたくないことが起きたときでも、推論をつかって今ここで納得する。リラックスしないと感覚で物事をとらえることはできない。偏っていてはだめ。自分の態度や環境を、一番良く見える条件に整えていく。

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何かが叶わなかったとしてもその経験が自分に与えたいものは何なのかを探してみる・・・そうしてみることで、まったく違う視点で事象をとらえなおすことができる。時間軸と空間軸がぐっと広がり、おのずと俯瞰した心持ちになる。思考で何かに執着しすぎると、それ以外の可能性から切り離されて閉じ込められて窮屈になる。きっと私たちは、様々な思考的囚われからもっと自由になっていい。

ヨーガをしながらいつも当たり前の呼吸や体の動きを意識して、感覚を研ぎ澄ます。緊張をほぐして視界を広げる。回を重ねて、もう少し自分の中に落とし込んでいきたい。

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