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本当に大切なものだけを

クリスマスには「プレゼントペット」が欲しいと娘が言うので、きっとそれほど遊ばないだろうになあと思いながら仕方なく承諾した。だってこの人形、自分で箱を破って出てくるというのが最大の売りで、そこがピーク。箱から出てきた段階で、もはやトキメキの8割は終わっているだろうと推測できるのだ。

そんな予測の元でのクリスマス。娘が箱についたタグを緊張の面持ちで引っ張ると、犬の鳴き声と共に箱が揺れ、なるほどそこそこのワクワク感。でもしばらくして、中身が出てこないまま動きが止まってしまった。同梱してある注意書きには、中身が出てこない場合は必ず連絡するようにと赤字で書かれている。泣き出しそうな娘に言い聞かせて電話を入れてみると、すぐに代わりのものを発送してくれるという。なにせ、箱から出てくる瞬間が一番の売りなのだから、そりゃあそういう対応なのだろう。

・・・ということが、2回続いた。交換してもらったものも、同じように箱から出てこなかったのだ。

「これって、次も出てこなかったらお電話した方がいいんですかね?」とオペレーターに尋ねると、「はい、そうしてください」と恐縮した口調での返答。私はちょっと気の毒になってしまい、思わずねぎらいの言葉をかけてしまった。電話で丁寧な受け答えをするこの方も、荷物を何度も運んでくれる運送会社の方も、それを仕事として誠実にやっているのだけれど、何にこれほどむなしさを感じるのだろう。

おそらく、私たちが日々翻弄されている「経済活動」は残念ながらこれなんだと思う。今や人生を満たしてくれる「もの」はある程度飽和状態になって、ではこの先どのような戦略で経済を回すかと言ったら、「体験」や「感情」に係るものがキーになるのではないかと予想される。私たちの日常には、身近にだっていくらでも感情を揺さぶられる美しさや驚きがあるはずなのに、あえてその「感覚」を経済活動に巻き込み、名前を付けて商品化する。驚きや感動も、お金を出して買うようになる。自力では見つけられなくなってしまう。そうして私たちは、自分では何もできないような気になって、誰かや何かに依存的になる。

こんな感じの本末転倒が、経済活動という名のもとに忙しく行われている。

それは、基本的には誰かの「悪意」ではないのだ思う。その商品を開発した人も、「驚きを伴う喜び」を子どもに提供したいという率直な夢やひらめきがスタートだったかも知れないし、オペレーターの人もがっかりしたであろう子どもの顔を思えば「箱から出なければ何度でもお電話ください」が誠意であって会社への忠誠心なんだと思う。荷物を運んでくれる方も、少しでも早く大切なお荷物を、という思いで足を進めるのだろう。

そこかしこに人の善意があるのに、なぜ私たちは本当に大切なものから遠ざかってしまうのか。一体どこの歯車がかみ合っていないのか。もしかしたらそこには何か別の戦略的悪意があるのだろうか、なんてことまでややもすると想像してしまう。

あるいは経済活動のベースには、「不足」の感覚があるからだろうか。何かを生み出さなければ遅れをとってしまうような危機感。自分が何に満足するのかを知らないままに与えられ続け麻痺してしまう消費者。実は十分に足りているにもかかわらず周りを見渡して足りないと錯覚してしまう。経済に係る様々な活動は、善意をまとって利便性や快適さを語りながら、よかれと思って近づいてきては人を本質から遠ざけるものなのかも知れない。

経済活動のみならず、それはあらゆる側面に潜んでいる。誰かが掲げた聞こえのいい言葉があるとしたら、頭を空っぽにしてただそれになびくだけでなく、その言葉をちゃんと自分のものにするために時間をかけなければならない。その本質は何なのか、自分に社会に世界全体に本当にそれが必要なのかどうなのか。よかれと思ってやっていることが、私たちをどこか別の場所に連れていってしまうこともあるのだと、大げさなようだけれど結構リアルな恐怖感を伴って感じている。

善意に見えていたものや、正義の仮面をかぶったものが、突如いろんな人を傷つけたり分断を進めてしまったり、今年はそんなことがにわかに感じられた1年だったのではないだろうか。その裏側になにがあるのか、良かれと思うこれを選ぶその先に何があるのか、自分の感覚を大切にしながら心を開いて世界を見つめていたいし、思考をとめずに情報の波をうまくわたっていきたいと、来年以降はますますそれが大事になるだろうと、そんなことを思う年の瀬です。


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