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おまもり

大学時代、東京で1人暮らしをしていた時のこと。

あれは、なんの集金だったのだろう。電気かガスか、もしかしたら新聞だったかもしれない。大学の先生に「新聞くらい読まないとダメだ」と言われ、無理をして新聞をとって気になる記事をスクラップしていた時があった。インターネットもない時代。地味に新聞を読み比べることでしかリテラシーを鍛えることができなかった時代。

毎月集金に来るそのおばさんは、いつもニコニコ笑っていて、ちょっとした物を差し入れてくれた。袋菓子とか、コンビニのケーキをもらったこともあった。私も実家から荷物が届いた時はおばさんにあげられるものをとっておいて、物々交換みたいになったこともあったっけ。

寒い日だった。あのアパートでの最後の集金日だったろうか。「就職が決まったので引っ越しをするんです」と言うと、おばさんはとても喜んでくれた。どんな仕事かを聞かれて一通り話をして、自分が感じていた不安感なんかも、きっと話をしたんだと思う。

おばさんは、

「大丈夫よ、あなたなら」

と、最高の笑顔と自信満々の口調で言った。何度も、確信的に。

私はその「大丈夫よ、あなたなら」という言葉と、玄関の向こうに立っているおばさんの佇まいを、あれから何度も、ふとした時に思い出す。そして驚くことに、思い出す度にその言葉と光景に励まされてしまうのだ。

こんなことってあるのだろうか。

苦しみを一緒に背負ってくれた友人の言葉とか希望を与えてくれた恩師の言葉とか、そんなのと並んで、もう名前も忘れてしまった月に1度だけ事務的な理由で話をするそのおばさんのことを、20年以上たった今でもまだ思い出す。そして密やかに、心が温まってしまうのだ。

人を勇気づけているものの核心は、何でできているのだろう。あのおばさんが持っていたものは、あのおばさんが私に感じていたことは、いったい何だったのだろう。私はあの時、何を受け取ったのだろう。

何かを計算したり気負いすぎて発する言葉には、不純物のようなものが混ざるのかも知れない。心から何かを感じてそれをそのまま表現できた時、他の感情や思考が紛れ込む隙もないくらい純度が高いままの時、もしかしたらそれはすべてを飛び越えるのかも知れない。お互いの立場や距離や、そういう物理的なものはもちろん、時間までも。

私は、そんな瞬間をうまくつかむことができているだろうか。自分の立場を考えすぎたり、相手の求めるものをはかりすぎたり、状況を見渡してタイミングを逃したり、なんだかそういうことが多い気がする。今ここという時に、その人のこれからの時間をささやかに支えられるような言葉を、表情を、佇まいを・・・それこそ、ここでこんな風に思考でこねくり回したり固く決意したりする訳ではなく、いつの間にか、いつであっても、自然に選べるようになっていけるだろうか。

言葉のように聞こえても、言葉という枠にとらわれていない何か。もやもやしたものを、それはそれとして携えながら、むしろできるだけ言葉を手放しながら。自分が手がかりを得るために言葉にする必要があるところまでをそうすればいい。誰かと共有するために言葉を探す必要があればそうすればいい。それ以外の、自分が体現しようとするそれそのものになっていくための手段としては、きっと言葉は一番頼りにならない。


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