見出し画像

躓いても転ばなくなりました

と、母に話したら泣かれた。おそらく。

というのも、そこには少しの時間差があったので正直確証はない。私がこの発言をしたのはアッシジの修道院に向かう下り坂の途中で、彼女が泣いていることに私が気付いたのは修道院の中の小さな礼拝堂の中だったからだ。
或いは彼女が涙した理由は、その礼拝堂の角で息を引き取った聖キアラに想いを馳せたからかもしれない。私たちはお互いに感情的になることをあまり好まないので、「ママ、どうして泣いているの?」なんて、絶対に訊いたりしない。必死に泣いている母から顔を逸らして、気づかないふりをするしかなかった。

というわけで彼女がなぜ突然堰を切ったように泣き出したのかは永遠に謎のままである。あとになっていつか掘り起こして訊いてみようとも思わない。それが私たちだ。そしてそんな母娘関係が私たちが26年間の試行錯誤を重ねてやっと見つけた「心地よい距離感」なのだ。

発言の方に話を戻そう。
そもそもこの「最近躓いても転ばなくなったんだよね」という発言は、修道院に向かう道すがら、とんでもなく傾斜がきつい砂利道の下り坂を降りている時に、特に考えもせずふと口走ったものだった。
夏頃から始めた定期的なランニング、そして寒くなってからのジム通いと、すっかり運動習慣がついたことで、身体の中のバランス感覚のようなものが鋭くなった。相変わらず運動神経は壊滅的にないので、ちょっとした石なんかに躓くことはあるが、それでも身体が反射的にリカバーに回ることができる、だから躓きはするが転ぶことはない。そんなバランス感覚というか、どっしりとした安定感のようなものを得た。

元はといえばそういう、単なる身体的な意味合いで言った言葉だったのだが、その時の私は些か内省的であったため(中世ヨーロッパの街並みを歩くと人は往々にして内省的、または哲学的になるものだ)そこにこう付け加えたのだ。「精神的にもね」。半分冗談、半分本気で。

そう、私は精神的な意味でも「転ばなくなった」。2022年の3月の一時帰国以来、大きく「転んで」はいないように思う。心の重心のようなものがぐっと下がって、しっかり地に足をつけるようになったし、躓きかけたとしてもすぐに自分で自分の機嫌を取ってリカバリーできるようになったという自覚がある。
それは「強くなった」ということではない。強くなるというのは、きっと躓かなくなることだ。そうではない。しっかり躓いてよろける、それは側から見ていてもきっとわかるので、精神の強い、安定した人からは程遠い。でも転びはしない。絶対に。

そんな話を軽薄な語り口でしばらく話していたのだが、これが母にはジャグのようにじわじわと効いていたのだろう。もちろん、彼女の涙の理由が私の発言だとしたらの話だが。

思えば私は、幼い頃からよく転ぶ子供だった。学校の帰り道によく転んでは、膝を擦りむいて血をだらだらと流して帰宅したものだった。手を付くのが間に合わなくて顔に傷を作ったこともあった。
そんな私を見て母は決まって私のことを叱った。「どうして転ぶの」と激しく叱責された。通学路の途中に家がある同級生のお母さんは心配してくれるのに。

ティーンエイジャーになると、今度は精神的な意味でよく転んだ(依然として物理的にもよく転んだが)。そしてまた、そのことを母に怒られた。「どうしてあなたはそんなに心が弱いの」と。

そんなこと言われても困る、とよく思ったものだった。だったらどうやったら心が強くなるのかを教えて欲しかった。でも、どうしたら転ばなくなるのかは、もともと転ばない人、転んだことがない人にはわからないし、教えようもない。母は(身体的にも精神的にも)器用な人なので、そもそもなぜそんなに転ぶのかもわからなかったに違いない。それなのに突然怪我をしてボロボロになって帰ってくる私を見ているのが、彼女にとっては苦痛だったのだろう、だからどうしていいかわからず叱責した(というのが今のところの私の推測である)。

最後に「(精神的な意味で)転んだ」のは2022年だと思う。ウクライナ侵攻が始まってから、信念や価値観、さらには現実的な生活までもが脅かされ、一日のうち起きている時間のほとんどを何が悲しいのかもわからずに泣くか、放心状態で過ごしていた。このままではどうにかなってしまうと一時帰国したものの、帰ったら帰ったで罪悪感や焦りに苛まれた。
そんな中両親は腫れ物に触るように私に接し(実際に腫れ物だったので仕方がない)、最初の方は私も空元気を出していたものだが、ついにあまりの情けなさに母の前で泣き出してしまったことがあった。それは最も避けたいことであったし(冒頭にも書いた通り我々は本心を見せ合うことがあまり得意ではない)、こんな姿を見られてはもう二度とロシアにだって戻らせてもらえないんじゃないか、とまで思った。

結局その後ロシアに戻り今に至るわけだが、一時帰国をしていたあの3ヶ月間、悩み抜いて、考え抜いたことで、ある種の覚悟、というよりは諦めのようなものが生まれた。自分の人生には自分で責任を取る以外にないのだ。たとえ世界中で感染症が流行しようが、住んでいる国が突然戦争をはじめようが。

その考えがある種の私の「体幹」、「筋肉」のようなものになったのだと思う。わたしの人生はわたしだけのもの。だからちゃんと向き合う、持続可能な方法で。

もちろんそんなことを母は知らない。私はその手のことをわざわざ説明したりしないので、「昨日まで泣いてたくせに突然また戻っていく人騒がせな娘」くらいに思われていただろう。或いは人知れずものすごく心配させていたかもしれない。
そんな中久々に再会した母に、怒鳴り合いの喧嘩をするでもなく抱き合うでもなく、非常に私たちらしい穏やかで回りくどい形で以て、何かひとつ突き抜けることができたことを伝えることができたのであれば、それはきっと良いことなんじゃないかと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?