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近況について。2023.12.3

noteを書くのはお久しぶりです。皆さまこんにちは。ぼくは12月11日が誕生日でして、あと一週間ほどで25歳になります。ということで、24歳の締め括りと共に、もう少し広くみると20代前半の締め括りでもあって、なかなか大きな節目に立っています。実際、24歳は激変・激動の年となり、さまざまな巡り合わせや動きがありました。少しづつ、ゆっくりと振り返っていきたいと思います。

ぼくの人生は20歳の時に大きな転機を迎えました。広島大学で数学を学んでいたぼくの身に起こった「現代数学への拒絶」と云う事態。大学院へ進むことも自分の意思で辞め、親とも喧嘩をしました。親はぼくが研究者になる道を諦めたかのように見えたでしょうし、普通はそう思うでしょう。今の社会で、大学院へ行かずに研究者になる道など、とてもありそうに見えないからです。しかし、ぼくは決して研究者になることを諦めたわけではなく、実際は逆に、現代数学を根底からひっくり返すような研究者になんらかの仕方でなってやろう、そんな仕事を今世でやってやろう、と独り心に誓っていたのでした。

これを聞いてどう思うでしょうか?「そんなことは不可能に近い」と思うでしょうか。そんな声もありました。夢物語であり、君の妄想だろう、と。研究者になりたいぼくにとって、「大学院に行かない」という選択を積極的に行ったことは、ぼくが初めに取った大きなリスクでした。そんな新しい研究者の道はまだ全く確立されていないし、できるかどうか分からない・そんな道があるかも分からない、そんな『完全なる未知』になんの迷いもなく(根拠なき自信を持って)飛び込んでいくぼくの姿は、狂気の沙汰と周囲には見えたでしょう。第一、現代数学を根底からひっくり返すと云う計画そのものが荒唐無稽と思われても仕方がない。でも、ぼくは『岡潔を継承する』と自分自身に誓ったのだから、もう後には戻れない。ぼくはとにかく、もがき苦しみながらも「諦めてたまるものか」と云う信念と情熱のみにかろうじて支えられながら、20代前半を過ごしました。

皆さんには、ぼくの経験した「現代数学への拒絶」と云う事態が生んだ大きな苦しみが果たして伝わるでしょうか。この事態と経験が、ぼくの原点に在ります。これからも原点で在り続けるでしょう。ぼくが20歳の時に直感的に氣が付いた事と同じ内容を示す主張が数学者・角田秀一郎氏の論文「数学の脱構築」に書かれているので、その部分のみを抜粋して紹介させて頂きたい。

数学の場合にはやはり理解のプロセスの背後に論理的なバックボーンが想定されていて、理解ができないとしたらそれは頭が悪いからだとされていたわけですが、不定性に依拠する数学はそれが実はそうではなく、むしろ分る、理解するということは、「間違い」と言っても「矛盾」と言ってもいいですが、そういうものをまさに自分の中に内包してしまって、それに整合するように過去が変わってしまうことであるとする立場に立つわけです。その意味では数学は分らない方が正当で、分ってしまうというのは、これはちょっと言葉は悪いですが分りやすく言えば一種の数学教にはまるのと同じような感じです。つまり理解に必然性などはなく、ただ単に相転移のようなものが起って理解してしまう。矛盾を矛盾としてではなく正しいものとして認知し、そのことによってそれを整合させるように過去が変わってしまう、そのプロセスを繰り返しているわけです。

数学の脱構築

広島大学へ進学し、精一杯の力で数学の勉強に励んでいく中で、ぼくは段々と数学が「分らない」と思い始めた。頭が悪いからか?数学に向いてなかったのか?…「いや、そういう問題ではない。」とぼくは直感的に氣が付いていた。ここには、もっと大きな根深い問題が潜んでいると。20歳頃のぼくはこれを【闇】と呼んでいた。そして、この闇とは関わりたくないと思い、一旦は数学から距離を置いた。数学とは全く関係のない、やったことのない事にも色々と挑戦をしてみた。長野県にある養生園での半年間のインターン(農業・料理・大工・教室など色々やった)、京都の田舎で百姓のような生活、尊敬する陶芸家の方の手伝い、京都市内への引越しと雑貨・飲食のお店でのアルバイト、等々。そうして、ぼくは段々と再び現代数学と【闇】へ真正面から挑戦するエネルギーと準備を整えていき、遂に24歳を過ごす中で、数学へ復帰することができた。

重要なことは、数学教にはまることなく再び数学へ復帰することができたと云う点にある。ここが非常に重要なポイントなので、大切に覚えておいて欲しい。つまり《数学が「分らない」と思う感受性》を保ったまま、じゃあ数学とどう向き合っていくのか?と云う極めて特殊な態度を持ってして数学をやっていく、と云うこと。この感受性こそが重要で、これが日本民族が数学に接した際に自然に思う情操なのではないか、とぼくは考えている。こうした感受性を持ってしか研究できない新しい数学の世界が確かに存在するはずであり、その数学(哲理数学と呼ぶ)こそが現代数学を根底からひっくり返すほどの可能性を持っていると確信している。

岡潔は自身の不定域イデアル論が(極めて抽象的な)層コホモロジー論に置き換えられていく趨勢を目の前にして、たった独りで現代数学へと立ち向かい、そして賛同者も現れぬまま、絶望と共にきっぱりと「現代数学を捨てる」と晩年には言い放つようになり、岡潔もまたやはり明確な拒絶を示すに至った。岡潔には「主観的内容と客観的形式」と云う論考が残されており、その中で現代数学を「観念としての数学」と位置付け、それに対して新しく研究していくべき数学を『実在としての数学』と呼び、僅かに数学への微かな希望を心に描いていた様子が感知できる。その後、岡潔に実在としての数学を研究した形跡は見られないが、ぼくはこの数学を『哲理数学』と命名し、継承したいと考えている。

24歳に数学へ復帰する事になったきっかけは幾つもあるのだが、その中のひとつに四則和算との巡り合わせがある。つい3ヶ月前のことで、四則和算サマースクールという集中講義へ参加する機会があった。

このときに四則和算の生みの親である光吉俊二先生の講義を受け、大きなインスピレーションを沢山受け取った。ピンと来たのである。「これは使えそうだ!」と。何に?もちろん、現代数学の【闇】を払拭し、根底からひっくり返すための武器として使うのである。サマースクールをきっかけに、四則和算の京都学派が結束される事になり、これから本格的な研究がスタートしていく。今ぼくは、四則和算のうち、まずは切算と動算を数学的に基礎付ける仕事へ取り組んでいる。これには、一変数解析関数論が使えて、特にリーマンの思想と理論を使うことで、研究を進めていく計画を立てた。今まで書いた話を踏まえると、ここでも現代数学ではワイル流に複素(一次元)多様体として整備された抽象的な(=思想を抜きにした)理論を用いるのに対し、ぼくはワイル流のやり方は取らず、リーマンの思想と理論を直に用いるやり方を取る。岡潔の言葉を借りると、リーマンの理論の客観的形式ではなく主観的内容を用いるのである。思想と理論が分離した形ではなく、むしろ融和した形を用いて数学を研究していく。このような態度を持って研究していくことが、四則和算に於いても重要になってくると考えている。その意味でも、ぼくのやりたい事と四則和算は相性が良い。なるべく今年のうちに論文の草稿をまとめたいと思っているが、間に合うだろうか。頑張りたい。来年から数学者として良いスタートができるよう、今が踏ん張りどころ。

また、ぼくのnoteに「数学考究シリーズ」と云うものがあり、休止していたが、再稼働させる予定。公開型のYouTubeも撮り、noteとリンクを連携して、数学の講義動画を配信していきたいと思っています。

主に、数学史の話と、一変数解析関数論から始めて、多変数解析関数論へと進んだ発展的な話、をやりたいと考えている。お察しの通り、非常に専門的な話になる予定で、普通の人が聞いてもサッパリ意味不明かと思うが、大衆に合わせているとそれこそ大変なので、ご了承いただきたい。ただ、数学史の方はなるべく聞いて欲しいのが本望。思想と理論の美しい連携の様であったり、数学の成立過程を追う営みであったり、おもしろいテーマが幾つもあるので、多くの人に聞いていただけると嬉しい。関数論の話はガチなので、少数の人に伝われば良いと云う位の氣持ちで配信を行う。目標はひとまず岡潔の第一論文の解読。

それから、魂振師として行なっている宇宙施術の活動も、数学と相まって本格化のステージへ進んでいます。魂振は「たまふり」と読み、最近になって、魂振とは『お清め』であることが判明しました。この自覚により、ぼくのエネルギーの移行が完了し、新体制が整いました。

魂振師の仕事

重要なのは、最後の一文。

一人ひとりが魂という本源に帰る
お手伝いをしています。

お清めをすることで、その人が奥深くの場所へ潜在的に持つ因縁を浄化し、魂という本源へ帰るのに妨げていたものを取り去ります。ぼく個人のレベルを超えて、大宇宙大和神と共鳴を起こす作用により、お清めという大きな働きが生じることを可能とします。よって、魂振師の仕事は《人と神との共同創造》の一環と言ってよいかと思います。人力と神力が絶妙に調和したバランスを追求し、一人ひとりの身体を確実に浄化していくプロセスを着々と歩んでいます。対話の際には、感じたことをシェアしながら、魂の声に耳を澄ましていく作業を行なっています。あなたの魂はどんな魂でしょうか。ぜひ声を聴かせてください。

来年より、数学者としても、魂振師としても、本格的な幕開けとなります。20代前半という準備期間を満了し、いよいよ20代後半という本番のステージへ。現代数学への拒絶を原点としながらも、次なる新しい数学の建設を目指して論文や配信を積んでいくと共に、一人ひとりを『お清め』して、魂という本源へ帰るお手伝い(導き)を実践していく。大切な仕事をしぶとく、着々と進めていけるよう、信念と情熱を保ちながら、謙虚さを忘れず取り組んでいきたい。これから巻き起こるであろう展開をどうか楽しみにしていただきたい。

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