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数学考究.その1

数学は単なる道具ではない。千利休が茶碗から侘び寂びという感受性を取り込んだように、道具の便利性を超えて、そこには《文化》の感受性が秘められている。数学をそのように位置付けし、日本に文化として根付く事ができるかどうか、がいま深く問われているのではないかと私は思う。西欧では数学を道具としか思っていない。が、私たち日本人は茶碗と同様に、数学に対して文化を観る感受性を持っているはずであると、私は強く信じている。

質問:お茶が文化になったように、数学が文化になる時、数学はどういう位置付けになるか?なんとなく、そこまでいくには高二ぐらいまでの数学を余裕でできる人がたくさんいる状態になっているような気はしますが・・・。

回答:もちろん、今ある数学について詳しい人が増えてくれるに越した事はない(特に現状のような研究段階では)が、それよりもぼくの考えとしては、茶碗に対する「侘び寂び」に相当するような感受性を日本人はまだ数学に対して『発見』できていないから、こんなにも日本人に数学がわかりにくいもの(と言うより、馴染みにくいもの)になっているのではないだろうか?というのが、ぼくの思っている仮説である。それをはっきりと見つけることが、ぼくの研究(のひとつ)。

茶碗には侘び寂びだったが、数学にはもちろん侘び寂びそのものではない。だから《侘び寂び型》と名付けておく。
ぼくが追い求めている、その侘び寂び型の感受性を「概念として」取り出すことができれば、大発見になると思う。

長い間とまったままになっていた日本文化そのものに、根本から革命を起こすほどの事になるとぼくは踏んでいる。というか、そういう事を目指している。

目標は、日本文化に革命を起こす事。日本人の感受性に新しいものを(数学という方面から)発見し、根本から更新したい。

それさえできれば、いま高校数学と言われているような水準のレベルの数学であっても、今よりも遥かに多くの人が「数学ってそういうことね!」と《腑に落ちる》ような世の中が来るのではないか?と予想している。

つまり、人々や世間を変えようとするより、数学そのものを馴染みやすいものへ変えてしまうような、感受性を発見して、概念として取り出し、それを皆んなに提唱してわかってもらおうと。ぼくの考えはそういう戦略である。

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