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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】第34回のシロシビン・セッションの振り返り(12783-12789)2024年6月3日(月)

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タイトル一覧

12783. 第34回シロシビン・セッションの振り返り(その1)

12784. 第34回シロシビン・セッションの振り返り(その2)

12785. 第34回シロシビン・セッションの振り返り(その3)

12786. 第34回シロシビン・セッションの振り返り(その4)

12787. 少年のような気持ちと少年のような夢、そして希望

12788. 良遍を取り上げた博士論文について/唯識学の適用範囲についての補足

12789. シロシビン・セッション翌日のトレーニングを終えて

12783. 第34回シロシビン・セッションの振り返り(その1)

時刻は間もなく午前5時を迎えようとしている。今、空が明るくなり始めており、1羽の小鳥の清澄な鳴き声が辺りに響いている。今日はその小鳥の鳴き声で目覚める形となった。昨日に引き続き、今日も朝から大変な冷え込みである。2階の室温も随分と下がり、自動で暖房が入りそうな温度になっている。以前に少しばかり暑い日があった時に暖房の設定温度を下げたのだが、今朝はまた設定温度を上げた。室温としてもう少し高い方が過ごしやすく、おそらく今朝はどこかのタイミングで暖房が入るだろう。6月を迎えたのに暖房にお世話になるというのは例年とは少し異なるかもしれない。明後日からは最低気温が10度を下回ってくるので、きっと深夜や朝方には暖房が自動で入ることになるだろうと思う。

昨日は第34回のシロシビン・セッションを行った。昨日のセッションもまた有意義なものであった。昨日は、冷蔵庫に保存している残りのシロシビン・マッシュルームを全て使い切る形となり、残っていたものが3.4gしかなかったので、それを全て摂取することにした。それを通じて分かったのは、ある程度の数のセッションを積んできた今の自分にとってはもう3.4gだとさほど深い意識状態とはならないということである。仮に深い意識状態に入っていくことを望むのであれば、テレンス・マッケナが提唱した「英雄の服用量」である5.0g以上が必要になるかと思う。とは言え、3.0gを越えればそれなりの体験を積むことはできる。5.0g以上になるともうこちらの手には負えないような途轍もなく深い意識状態に誘われるが、4.0g以下だと今の自分にとっては比較的穏やかな体験となる。前回も3.9gの摂取量で、その時は穏やかながらもある程度の深い体験となり、幾つもの洞察を得ていた。わずか0.5gほど摂取量が変わるだけでも体験の質に大きな違いをもたらすことを今回のセッションを通じて理解することになった。

昨日のセッションの中で最も印象に残っているのは、意識とは詰まるところエネルギーの運動体のようなものであり、それは言葉の衣を身に纏いながらも、実際には言葉に覆われていない非常に生々しく、荒々しく、力強いものなのであるということだった。「アニマルスピリッツ」などという言葉を聞くが、まさに私たちに人間も動物なのであり、言葉にならず、言葉では抗い難い動物的な内在エネルギーを私たちは内に抱えている。というよりも、私たちはそれで構成されていると述べても過言ではないだろう。肉体はそのエネルギーを留める器なのであり、言葉はそれを理性的に抑えたり、それをうまく活用するためのものなのである。しかし忘れてはならないのは、とにかく私たちには言葉にならず、言葉を逃れた非常に生々しく膨大な力を持ったエネルギーを保持しているということである。繰り返しになるが、私たちがそれを保持しているというよりも、私たちはそれで構成されているのであり、むしろ私たちはそれに保持されているということである。この気づきはとても大きなものであった。フローニンゲン:2024/6/3(月)05:12

12784. 第34回シロシビン・セッションの振り返り(その2)

6月を迎えて冬に逆戻りしたかのような気候状態だが、むしろこの肌寒さに感謝をし、大いに歓迎するべきだろう。こうした肌寒さのおかげで探究活動も実践活動も大いに捗る。暑さはそうした活動の阻害要因となる。そのようなことを考えていると、自動で暖房が入り始めた。早朝にあまりの寒さから自動で入る暖房の設定温度を変更したことに伴い、今日からまたしばらくは暖房にお世話になる形となる。少なくとも今週1週間は暖房が朝夕にはずっと入っているのではないかと思う。それぐらいに寒い。

昨日のシロシビン・セッションの振り返りをまた続けていこう。私たちに内在し、私たちを構成する生々しく、荒々しく、力強いエネルギーの他に、それに付随して、全ては運動体なのであるという気づきもあった。生命とはそうしたエネルギーの運動体なのである。その運動体が動くことを止めた時、命は尽きる。昨日も命が大事なテーマとなっていた。不思議なことに、やはり命で言うと私たちの腸に生命の根幹が宿っていると言えそうなのだ。脳よりも腸であること。それが改めてありありと知覚される体験があった。よくよく考えてみると、私たちは腸に最も腸内細菌という生命を宿しているのではないかと思う。人体については明るくないが、少なくとも「脳内細菌」など聞いたことがないし、他の器官についても細菌がいるという話は聞かない。仮に存在していたとしても、腸が持つおよそ1000種類かつ100兆個には遠く及ばないだろう。私たちの肉体は確かに細胞で構成されており、それもまた生命である。だが驚いたことに、細胞の数は60兆個ほどと言われていて、私たちは自らを構成する細胞以上に多くの細菌を内側に抱えているのである。それらの細菌は生命に他ならず、私たちは細菌という生命と共存しながら命を維持しているのである。やはりここからも腸内細菌とどのように良好な関係を築いていくのかの重要さが窺える。そして、腸内細菌は生命であるがゆえに栄養を必要とし、彼らに何を与えるかということが決定的に重要になる。昨日はセッションの都合、昼食と夕食を摂取することはなく、1日ファスティングをする形となった。2週間に1度のセッションと合わせてファスティングをすることは、自分の身体を健全に保つ上でも非常に効果的である。何よりも胃腸が休み、細胞の修復に取り掛かる活動に大いに従事してくれているし、腸内では栄養の吸収ではなく腸内のゴミを除去する活動に腸内細菌たちが働いてくれている。それによって肉体的にも生まれ変わることが実現されているのが隔週で実践するシロシビン・セッションなのである。各種の真理を知覚し、深い洞察を得るためだけではなく、肉体の浄化にもこのセッションは本当に大きな寄与を果たしてくれている。もはや今の自分にとってそれは無くてはならない重要な瑜伽行となっている。フローニンゲン:2024/6/3(月)05:28

12785. 第34回シロシビン・セッションの振り返り(その3)

早朝から入り始めた暖房がせっせと働いてくれている。暖房の音の背後には小鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。小鳥たちもきっとこの肌寒さには少々驚いているかもしれない。あるいは、彼らにとってみればそれはなんともないことなのかもしれない。

昨日のシロシビン・セッションを終えて眠りの世界に入った時に、うっすらと記憶に残る夢を見ていた。セッションの後の夢には大抵2つのパターンがあって、記憶にほぼ残らないような夢をうっすらと見るか、逆に非常に鮮明な記憶として残る夢を見るかのどちらかである。昨夜の場合は前者であった。セッション後に見ていた夢としては、現実世界で毎週土曜日に行なっているゼミナールの受講者のある方が現れる内容だった。夢の雰囲気は至って穏やかで、その方との会話も至って穏やかだった。そこでは今のお互いの関心について共有しており、私はその方の話にじっくりと耳を傾けていた。会話が終わりに差し掛かる頃、その方が満面の笑みを浮かべて、何かとてもスッキリしたかのような表情をしていたのがとても印象に残っている。

この夢以外にも小中学校時代の2人の親友(YU & NK)と話をしている場面があった。そこでもまた穏やかな雰囲気の中で2人と会話を楽しんでいる自分がいた。話をしていた場所は地元で、穏やかな瀬戸内海を背後にカフェでゆったりとした時間を味わいながら会話をしていた。それはとても味わい深く、豊かな時間であり、人生にこうした時間が存在し、それを体験できるだけでも生きた価値があったと思わせる時間であった。人生の値打ちとはきっとこうした時間をどれだけ味わえるかにかかっているように思う。何かを成し遂げるとか、地位や名誉を得るとか、お金を得るとかではなく、友や愛する人と穏やかに語り合い、穏やかで豊かな時を味わうことがきっと人生の最大の値打ちなのだろう。そのようなことを思わずにはいられない夢だった。

このように、昨日の夢は総じて穏やかなものだった。まろやかな時の感覚質が夢の世界を満たしていた。夢が穏やかさと豊かさで構成されていたのである。そんな夢の中に浮かぶ自分はとても幸せそうだった。それを受けて、現実世界においても穏やかさと豊かさに浮かされて生きればいいのだという在り方が見えてくる。自分のこの人生は穏やかさと豊かさを持ってしてその値打ちを測る。友や愛する人、そして知人を含めた人との関係性に最大の価値を見出すのが自分の生き方なのである。そのようなことを改めて考えさせてくれる夢だった。フローニンゲン:2024/6/3(月)06:22

12786. 第34回シロシビン・セッションの振り返り(その4)     

昨日のセッションでさらに印象的だったこととして、セッションの後半においてセッション中に英語脳に切り替わり、流暢な英語で独り言を脳内でひたすらに呟いている自分がいたことである。それは独り言というよりも脳内の思考だと言ってもいいだろうが、結果的にそれは脳内の独り言であることに変わりはない。いずれにせよ、シロシビンの働きとして興味深いのは、脳内をリセットし、心身のリセットが促されるだけではなく、言語学習上の跳躍台としての機能も果たしているかのようなのだ。昨日は実験的に、セッションの入りが日本語脳だったので、後半において体験が落ち着いてきた時に英語脳に切り替えてみた。するとその切り替えが覚醒時における切り替えよりも遥かにスムーズで、何の移行障壁もない形で速やかにサッと英語脳に切り替わった。そこで気づいたのは、少しずつ確実に日本語脳と英語脳の境界線が溶解し、どちらの言語においても即座に対応できるような言語脳が自分の内側に構築されつつあるということだった。そこからまるで普段の英語学習をするかのようにして、英語でずっと考え事をしていた。その中での考え事として、ここからの人生をどのように生きていくのかという大切なテーマがあった。そもそも今の自分は何を仕事にしているのだろうかという問いもあった。現在の仕事は人間発達に関するコンサルタントというよりもむしろ、心についての智慧を共有するような教師としての役割に近いのだろうかと思った。教師であり、同時に生徒でもあるということが今の自分をよく映しており、仕事としては唯識学を教える教師にこれからなっていくのではないかという展望が開かれていた。それに付随して、やはり欧米の大学院で本腰を入れて唯識学の研究をしたいという思いも沸々と湧き上がっていた。研究の仕事を形とするためにも博士論文の執筆には是非とも取り掛かりたいし、それを元にした書籍も欧米社会で出版したい。唯識学に関する博士号を取得することができれば、欧米の大学院で教鞭をとる門戸が必ずや開かれる。そこで自分は生徒や他の研究者との交流を心底望んでいるようなのだ。今毎日全力を掛けて取り組んでいる英語のスピーキング能力の向上実践と唯識学の探究は、その実現に不可欠なものなのである。スピーキングに関して言えば、唯識学を含めた仏教に領域を絞り、その領域固有の英語表現には十分に習熟しよう。そして領域全般的には、欧米の学者や生徒たちとの日常会話をより楽しめるように、彼らと気軽に話をするであろうテーマやトピックを想定し、より円滑かつ深い言葉のキャッチボールができるように発話力をさらに高めていく。今の自分はもう英語の学術書や論文を読む力については完全に高原状態に辿り着いているのであるから、そこに力を注ぐのではなく、まだまだ伸び代のある発話力に絞って、とにかくその力を極限まで高めていきたいと思う。日々がこうして希望に満ちたこれからの人生に向かって明確な取り組み事項に従事する形でゆっくりと着時に進行していることに深い感謝の念が自ずから生まれる。フローニンゲン:2024/6/3(月)06:36

12787. 少年のような気持ちと少年のような夢、そして希望    

少年のような気持ち。少年のような夢。いつも自分はそんな気持ちと夢を持ち続けている。気が付けば社会的に見て自分も良い塩梅の年齢となり、世間一般的には脂が乗ってくる年齢になっているが、今でも少年のような気持ちと夢を持ち続けている。それは持とうとして持っているようなものではなく、自然と常に自分の内側にあるものであり、自然と滲み出てくるものなのだ。それは素朴であり、未熟であると言われるかもしれないが、純粋な気持ちと夢を抱き続けていることは自分の日々の活動を間違いなく根底から支えてくれている。それらこそが自分の活動の源になっているのである。

仏教が自分の中の少年のような気持ちに火をつけ、新たな夢を抱かせてくれた。とりわけ唯識学との出会いがまた新たな希望の扉を開いたのである。人はきっと希望があるから毎日をより良く生きていけるのだろう。逆に希望を奪うようなことはあってはならないし、人々が希望を持てない社会はあってはならない。そのような社会の変革に向けて乗り出していくことも唯識学徒として必ず行わなければならないことである。それに向けての取り組みを今少しずつできるところから行っているが、ここからは利他行を完遂させるための力が必要となる。それは歪んだ権力とは違うものであり、智慧と慈悲の力に集約される。自分がこれから最大限に育み、獲得していくべき力はそのような力のことを指す。そうした力を存分に涵養した時、きっと自分なりの社会への貢献が徐々にできてくるだろう。そこに向かう過程においても今の自分にできることを行っていきながら、智慧と慈悲の力を磨いていく。唯識学の日々の研究も英語のスピーキング能力の向上実践も、果てには筋力トレーニングも全てそこに繋がるものなのだ。今の自分の全ての取り組みは、誰もが希望を持って命を輝かせることのできるより良い社会の実現に向けたものなのだ。

ここ最近は家事や雑務をしている最中にはずっとWisdom Publicationsのポッドキャストを聴いている。このポッドキャストを聴きながら、いつか自分がそのポッドキャストに招かれて、ホストの方とと対談をしている姿をいつも想像している。その実現がいつになるかはわからないが、唯識学の探究を進めていき、無事に博士号を取得することができた頃にはきっと声が掛かるのではないかと密かな期待を寄せている。このポッドキャストは、隔週で世界の様々な仏教研究者・実践者を呼んでホストとの対話をする内容である。ゲストに呼ばれた人たちの経歴や人生の歩みは大変興味深く、毎回彼らの話から大いなる啓発を受けている。彼から受けた啓発をいつか自分も他者を啓発する形で返礼していきたいと思う。受けた啓発は啓発として恩返しするのである。啓発の連鎖を途切れさせないためにも、自分がその繋ぎ役の1人にいつかなれれば望外の幸せである。今日の英語のスピーキング能力の向上実践も唯識学の探究もその日に向かって伸びているものなのだ。そう思うと内から自然と力が湧いてくる。06:50

12788. 良遍を取り上げた博士論文について/唯識学の適用範囲についての補足

時刻は間もなく正午を迎える。今日もここまでのところとても充実した時間が流れていた。今日の昼食には蕎麦を食べ、蕎麦湯に蜂蜜を加えたものを今日の午後のワークアウト中のドリンクとして持参しようと思う。シロシビン・セッション翌日の今日のトレーニングで体がどれだけ動くかまた観察するのが楽しみである。

昨日のシロシビン・セッションについてはもう早朝に随分と振り返っていたが、そう言えばセッションの佳境で良遍に想いを馳せていたことを思い出す。鎌倉時代に法相宗の伝統を守り、育むことに尽力していた彼の生き様に想いを馳せていたのである。そしてそこから、彼の思想を通じて生きることと彼の思想として生きることについて考えていた。法相宗の僧侶には偉大な人がたくさんいるが、その中でも今の自分の心を最も打つ人物は良遍である。欧米の大学院でいつか執筆することを検討している博士論文では是非とも良遍を取り上げたい。英語空間における龍樹や空海に焦点を当てた博士論文や学術書を参考に、博士論文の構成を練っていくことをこれから行っていく。世親の7冊の作品を収めた“Seven Works of Vasubandhu”の書籍のように、良遍のいくつかの代表的な作品を翻訳解説していくような形で博士論文を執筆していくのは1つの案である。良遍の生い立ちに関する情報はそれほど多くないが、それでもいくつかの和書や日本語の論文にその記述があるものを発見しており、それを参考にしながら、良遍の訓読文の作品が収められた文献を題材にすれば、博士論文に仕立て上げていくことのできる論文が書けそうである。欧米の仏教研究において法相宗はおろか良遍はほとんど知られていない存在であるから、自らの博士論文を皮切りにして、良遍の思想を伝え、日本の法相宗の教えを世界に発信していく研究に尽力したい。そのようなことを考えていた。

それに加えて、昨日考えていた唯識学の適用範囲についての補足として、そもそもの目的を考えるべきということについても思うことがあった。唯識学の枠組みを無理に全ての事柄に適用する必要ない点についてはすでに昨日述べた通りであるが、仮にその対象や現象を通じて自己発見をし、心を磨きたいと思っているのであれば唯識学は適用に値する。逆にそれを望んでいないのであれば無理に適用する必要は当面はない。仮に自分が自己の新たな側面を発見することを望み、その対象や出来事を通じて心を磨きたいと思っている場合には唯識学の枠組みを適用すればいいし、そうでなければ無理に適用する必要はない。とにかくそうした目的を今一度明確にする必要性について考えていた。フローニンゲン:2024/6/3(月)11:52

12789. シロシビン・セッション翌日のトレーニングを終えて 

甲高い小鳥の鳴き声が夕方の世界に響き渡った。時刻はゆっくりと午後5時に近づいている。先ほどジムから帰ってきて、シャワーを浴びて今に至る。今日はシロシビン・セッションの翌日の筋力トレーニングという形なったが、ここ最近はセッションの影響を感じさせないほどに普段通りに体を動かすことができている。セッションの日は午後からゆったりとベッドで仰向けになってゆっくりとしていることもあり、体が少し鈍るかとも思うのだが、逆にそれが良い休息になっているようである。2週間に1度、身も心もゆっくりとする無為の時間を過ごすのはいいものだと改めて思う。瑜伽行としてのシロシビン・セッションは死と再生の後押しに加えて、深い休息をもたらすものとしての価値を帯びている。

今日のジムでのトレーニングは珍しく途中から男性がいなくなり、女性しかいなかった。8人ぐらいの女性の中で男性は自分1人だけとなった。トレーニングを終えて受付に座っていたエリーザに話を聞くと、確かに今日は珍しいとのことで、男性は夕方から夜にかけての時間に最もよくやってくるとのことだった。いつも自分は混雑する時間を避けて、大抵の人が働いている午後3時からジムに行って体を鍛えるようにしている。この点においても時間的に自由の身であることの恩恵を感じる。さて今日のトレーニングであるが、今日もまた全身を満遍なく鍛えていった。とは言え、明日の夕方には前腕、上腕三頭筋、上腕二頭筋、ふくらはぎを鍛えていく予定で、それらの部位以外の筋肉を鍛えていった形となる。ここ最近は、ダンベルを使ったフリーウェイトトレーニングも随分と板についてきており、パーソナルトレーナーのエリーザの指導の成果が現れている。ブルガリアンスクワットでは、バランスボードに片足を乗せて細かな筋肉を刺激しながら大臀筋を追い込んでいった。それはとてもうまく行き、今後も少し違う刺激を入れたい際にはこのメニューを取り入れたい。ダンベルを用いたルーマニアンデッドリフトを行ったが、ハムストリングの筋肉が随分と強靭になっているためか、10kgのダンベルを両手に持って行って連続して30回を超えても疲労感がやって来ず、50回を2セットほど行う形となった。次回からはダンベルの重量をもう少し増やすか、バーベルを用いたルーマニアンデッドリフトを試してみようと思う。今週の木曜日に早速それを試してみよう。それと肩の筋肉は比較的小さな筋肉群とのことで、週に2回から3回ほど鍛えることが好ましいとされているようだ。木曜日にもまた鍛えて、土曜日には自宅で肩の筋肉を鍛えようと思う。トレーニング後のこれからの夕食はさぞかし美味であろう。フローニンゲン:2024/6/3(月)17:01

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