推しを推せなくなった日

また「推しが嫌いになる時期」がやってきてしまった。
今回は、長い時期になりそうで、
もしかしたら本当に嫌いになってしまったのかもしれない。

一定期間、誰かを好きになると、反動で嫌いになることがわりとある。

盲目にならないよう「冷静になろう」と思うからなのか、
好きになったときになんらかの「理想」を相手に押し付けていて、その理想と違ったことへの落胆なのか、
単に飽きたからなのか、

または、相手がなんらかの成長を遂げたが、その方向性が、自分の求めるものと違ってしまったからなのか。

または、その人のこと自身は好きだけれど、リスナー(ファン)とのやりとりが苦手だからなのか。
これは少なくともある。
私は配信者に「は?」とコメントする人の気持ちが全く分からない。
※「草」は「www」や「(笑)」の意味なので不快ではない。

でも、そういうコメントもエンタメにしていく文化であることも理解している。だから単に、私がその文化に馴染めなかった。というだけなのである。

「配信みるのがしんどいな…」と思うようになり、アーカイブ勢になった。
やがて全編みられなくなり、ツイッターが見られなくなり、フォローを解除して、今は気が向いたときにアーカイブをチラ見するに留まっている。

しばらくすれば、一歩引いた目で推しを応援できるようになる。
いつもはそうだった。

でも、数か月経っても、その気配は見せてくれない。
それどころか、不快に感じるようにすらなってしまった。

「アンチはなぜ、普通のリスナーより詳しいのか」
と言われることがよくあるが、アンチはもともとファンだったのかもしれない。そして今まさに自分も、そうなろうとしている。

推していたころに戻りたいと再生ボタンを押しては、落胆とともに停止ボタンを押す。そして憤る。相手に、そして何より、自分自身に。

不幸中の幸いなのは、推していたころのアーカイブは、そのときの気持ちのままで見られることだ。
でもそうやって、過去に閉じこもることが、果たして正しいのか。
そうやって時間を止めるから、厄介オタクが生まれてしまうのではないか。
自分の中に留めておければ問題ないのか、相手の迷惑にならなければ、自分が後退していくだけで、問題ないのか。

そこの判断すら、今の自分には難しい。
だからしばらく、ふたを閉めてここにしまっておくことにする。
タイムカプセルのように。
いつかこの文章を、笑って読める日がくるように。


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