奇噺

その日は珍しく定時前には全ての業務が終わり、世間で言う帰宅ラッシュ時に電車に乗った。
車内は倦み疲れた顔の男女が犇きあっていて、まるで葬列の様であったと記憶している。
私もまたそのうちの一人であったのだろう。
ただ私は定時に退社できたこともあり、彼らよりは幾分か表情は明るかったのではないかと思う。
これは私の気持ちの問題で実際はやはり彼らと同じく疲弊していたに違いない。
普段は定時に帰れることなど滅多にない。
終電に間に合えば御の字なのだ。
そういう理由で私はその日、車中では比較的まだ元気だった。
暗くなりきる前の薄ぼんやりとした半端な時間が新鮮に見える。
あと二駅で私は降車する、はずだった。
もう少しで帰宅できるという安心感。
ふと窓ガラスに目をやったのが全ての間違いであった。
外は仄暗くなっているため車内の様子が鏡のようにガラスに映っている。
私のすぐ後ろに男が立っているのが見えた。
それだけなら普通だ。この車両にも多くの家路へ急ぐ人々が乗っている。
だが、私の後ろに立っている男はどうやら私のことを覗き込んでいるらしかった。
私はその時、新聞も本も携帯電話も見ておらず覗き込まれる謂れはなかったのだ。気味が悪い。
仮に新聞や本、携帯電話を私が見ていたとしても覗き込むなんて不躾である。
だんだんと腹が立ってきた。私は人から気が優しいと言われることが多い。怒ったことがあまりない。
そんな私がこの男に腹を立てたのは恐らく空腹のためだったのだろう。
空腹は人を苛立たせるものだ。だから私は外食をする際は行列のない店を選ぶ。
それで失敗することもあるが、腹を満たせれば良いので別に構わない。食事は生命維持のための行為であって、食事を楽しむという行為は私には不要なのである。
つまりはその男に八つ当たりのように空腹による苛立ちをぶつけていた。その時は。

気分が悪かった。誰だってそうだと思う。
見知らぬ人に後ろから覗き込まれるなんて嫌だ。
だが私は生来小心者だ。文句の一つでも言ってやろうという気にはならなかった。
ただお前のことは気付いているぞ、という牽制くらいはしようと思ったのだ。
小心者の私にできることといえば睨むことくらいだ。それだってかなりの勇気がいる。
ほんの少し首を動かし横目で睨もうとした。だが不思議なことに私を覗き込んでいた男は居なかった。
はて、色々とどうしようかと考えているうちに移動でもしたのだろうか。それなら別に構わない。
そう思って前に視線を戻した。目の前のガラスにもあの男は映っていない。
駅に着き、何人かが降りていく。
ほんの僅か足元を見ていただけなのだが、驚いたことに私の前にあの男が座っていた。
確か私が乗ったときには女が座っていたはずだ。途中で降りたとしても私が少し避けなければ席から立てない。
私は女が指を忙しなく動かしてスマートフォンを操作しているのを見ている。長い爪で画面に傷がつかないものか、などと思ったのだ。
そもそもこの席に座るには私が邪魔なはずだし、もし女が降りたなら私は座っているだろう。
靴擦れで足が痛いのだ。買ったばかりの靴をおろしたのだ。
それにしてもこの男はいつの間に座ったのだろうか。
あと一駅だ。そんなことは気にしないでおこう。そう思いまた視線を戻すと私の後ろにあの男がいた。
馬鹿な。では私の目の前に座っているこの男は何なのだ。
気のせいかと思ったが確認のため座っている男を見た。座っている。間違いない。
だがガラスに映っている私の後ろの男がまた覗き込んでいる。
今度こそ睨みつけてやろうと首を動かしたが誰もいない。目の前にはあの男がニヤニヤと私を見上げている。
ガラスに映る男は私を覗き込みながらニヤニヤしている。
背中に冷たい汗が流れるのを感じた。そして私は閉まりかけたドアから飛び出した。

電車が走り出し、私は安堵した。
一体何だったのか、あの男は何者なのか。
私は次の電車が来るまで落ち着こうと自販機に近付いた。何を飲もうか。
選んでいると私の後ろに誰か立っているのに気が付いた。ならば先を譲った方がいいかと振り向いた。
誰もいない。いや、いるのだがそれは電車を待つ人達であって自販機の順番を待っているのではなかった。
とりあえずコーヒーを買った。本当はベンチにでも座りたかったのだが近くにはなかった。
仕方がないので柱にもたれながらコーヒーを飲む。微糖と書いてあるが十分に甘い。どこが「微か」なのだろう。
電車はすぐに来た。都会は本数が多い。待ち時間が少ないのはいい。
私は待つことが苦手だ。何をしていればいいのかわからない。手持ち無沙汰になるのが嫌なのだ。
先程乗っていた電車よりも乗客が多い。あと一駅なのだからそんなことは気にしない。
若者のグループが楽しそうに喋っている。そういえば最近笑った覚えがないことに気付き少し自分が嫌になった。
間もなく駅に着くので私はドアの近くに移動した。
その時サラリーマンらしき男が横に避けてくれたので会釈くらいしておこうと男の方を見た。
あの男だ。さっきと同じニヤニヤした顔で私を見ている。
早く降りたい。ドアの前まで移動した。ドアの両脇にカップルらしき男女と運動部らしい学生がいる。
カップルが私を見ているようだ。私は早くここから出たかった。
ドアが開き私は弾かれたように電車から降りた。
止せばいいのに私は振り返ってしまった。
その車両に乗っていたのは全員あの男の顔をしていた。
楽しそうにしていた若者たちもドアの近くにいたカップルも学生も皆あの顔をしている。ニヤニヤと不気味に笑っている。
怖い。恐い。畏怖い。私は怯えた。
走って改札を抜けた。暑くもないのに汗が流れる。
私はどうしてしまったのだろう。このところ寝つきが悪く疲れが取れていないからだろうか。
兎も角、早く家に帰らなければ。私には家で待っている家族はいない。
家は安心できる場所だ。私のテリトリーなのだ。
コンビニで適当な弁当でも買おうと立ち寄った。週に何回かはコンビニ弁当で済ませている。満腹になりさえすれば良い。
いつもの気怠い「いらっしゃいませ」を聞いて少しほっとした。ああ、日常だ。
普段より早い時間だからか弁当の種類が多い。私はハンバーグ弁当を手に取った。
レジ横のホットドリンクの棚からお茶を取り、弁当だけでは足りないので肉まんを注文した。
いつものアルバイトの人だ。テキパキとしているが気怠そうな喋り方なのだ。
手早く弁当をレンジに入れ、肉まんを包み紙に入れ会計を済ませてくれる。
私は棚に並べられたタバコを眺めていた。種類が多いだとか凝ったパッケージだとかそういうことを思っていた。
温められた弁当を受け取る。ふと視線が気になりレジの人に目を向けた。
あの男の顔だった。無愛想なあのアルバイトの人ではない。ニヤついたあの男だ。
私は痛む踵のことも気にせず全力で走った。
何が起きているのか。私は頭がおかしくなってしまったのか。
交差点で信号に引っかかってしまった。久しぶりに走ったため息は上がり、動悸も激しくなっている。
赤から青に変わるや否や私は安心できるテリトリーに向けて走り出した。
少し古いがその代わり家賃の安いマンションが我が家だ。一階のエントランス脇に管理人室があり、管理人夫婦が住んでいる。
奥さんは陽気な人で若い頃はそこそこモテただろう可愛らしい印象だ。
管理人のおじさんは愛想がいいとは言えないが真面目な人で、廊下の蛍光灯が切れかけていると聞けばすぐに取り替えてくれる。
この二人を見ると私は安心する。帰ってきた、という気になるのだ。
もうすぐあの奥さんの明るい笑い声が聞こえるはずだ。
管理人室の前を走り抜ける。奥さんが「おかえり」と声をかけてくれた。
「今日は早かったのねえ。どうしたの顔色が悪いわ。具合でも悪い?」と心配してくれた。
私はテリトリー目前ということもあって、奥さんにこの日の出来事を話した。
「私は頭がおかしくなってしまったのでしょうか。」
奥さんはきっと疲れてるだけだと言って、早く休みなさいと母のようなことを言い私を部屋に送ってくれた。
管理人のおじさんも付いてきてくれた。
私の部屋に着き、二人にお礼を言って別れた。
管理人のおじさんは軽く頭を下げて帰って行ったが奥さんは心配そうにしていた。
そしてドアを閉めようとした私に向かって言った。
「あなたさっきからずっとニヤニヤしてるわね」

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