さあ「遊び」はもう終わり

なにか自分の中で「これをやる」 = 「思い」を形
にする  ― そのような思いが浮かんだとき、
同時に・・・
「あー…あれはできないなー・・・」
「これは難しい」
「できないなー・・・」
「これはきっと実現しないだろうなー・・・なぜなら、・・・・」等々
思うときがあるかもしれない。

それを知識の言葉で「否定的な想念」という。
もっとおおもとのところでは「不純な印象」という。

否定的な想念が出ているとき、その裏には必ず純粋な思いがある。
純粋な思い 
真の願望
― 要はその人の内側にあるハッキリとした肯定的な、永遠な、絶対的なものが「ある」ということ
それがあるからこそ、否定的な想念が、「そのうえで」出てくる
大きな大きな肯定的な、ハッキリとした、永遠の思いがあるからこそ「そのうえで」否定的な (= それを制限するような) その手の平の上で「できない」と思うようなそういう思いがあらわれることができる

―要は、自分の内側にあるハッキリとした思いや、ハッキリとした願望はとても大きい ―ということ
どのくらい大きいかというと、本当は「大きい」という言葉で表現することができないような大きさ
その大きなものがあるから私たちはそのうえで
いたずらをする とか、遊ぶように否定的な想念をポロポロ出してその否定的な想念と遊んでいる
↓ しかし、
なにか真剣に「やる」と決めたときには、そのように遊ぶことから離れてそのような「いたずら = (遊び)」に時間を使うことを離れて、大きな自分の内側の思いに立ち返って、それを確認しながらそれを具現化することが必要である

そのとき、自分が今まで遊んでいた“遊び道具”が「ちっぽけなもんだったなぁ」とか、「昔は面白かったけど、今は必要ないかな」という風に思えてくる
自分の内側にある「思い」「願望」「真の願望」―その大きさ、広さ、深さ、どれだけハッキリしているものであるか―・・・そういったことを信じる
そして、感じる
そして、それを具現化していく    
 / 2021 / 10 / 01



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