わかの浦孤舟メモ

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 さる演芸関係者との話題の中で、浪曲師「わかの浦孤舟」の名前が出、彼の経歴が知りたいというご所望あり。備忘録も兼ねて、ここに彼の一代記……とまで行かないが、簡単な経歴や逸話を記す事にする。

 まず、彼の経歴は、テイチク『テイチク浪曲特撰盤 わかの浦孤舟』の解説に詳しい。幸いそのレコードを持っていたので、ちゃんと明記があるよ、という意味を込めて画像を挙げておく。当然、見づらいので、下に補足説明を書いておきます。

 解説者は浪曲研究の第一人者、芝先生。まず信用はおける所。

画像1

「わかの浦孤舟」について 芝清之
   本名 梶原 勇 明治三十六年一月一日生
 狐舟師は、福岡県田川郡上野村の出身で、男二人兄弟の次男として育った。父親は興行に関係のある仕事をしていたが、縁あって、当時関西浪界で"新談読み”として鳴らした、京山恭為師(此の人は、本名を野手為楠と言い二代京山恭安斉門下で、小円、若丸、玉大教などと同門)の許に、7才の時に養子としてもらわれたが、実親恋しく、郷里に戻ってしまった。
 年期に至って、レコードで桃中軒雲右衛門を聴くに及んで、浪花節に興味を持ち出し、24才の時に、改めて恭為師を訪れ師弟の関係を結んだ。「京山恭高」と名乗り、27才 (昭和四年)で女流の吉田千代と知り合って結婚した。(一千代は、吉田一若後の三代奈良丸門下で活躍していた人で、17才から浪界に入っていた)
 そして、 何んとか一旗上げんと、昭和十年に上京し、芸能事務所に所属する事なく、以来四十年、独立して今日まで浪花節一筋に励んでいる。妻の一千代は上京後も女流団に加わって活躍していたが、昭和十六年に演者をやめて、孤舟師の合三味線として、これまた夫婦仲良く今日に及んでいる。
「恭高」を、 「わかの浦孤舟」と改名したのは、朝鮮へ巡業した頃 (京山円玉一座) 何か新談向きの新しい名前をと思い立ち、師の恭為が和歌山出身なので亭号とし、独り浪界の荒波を出するという意味をこめて、 「わかの浦孤舟」と命名した。孤舟師の芸は、師の恭為の芸風と同じ様に、新談読みを得意としている。

 大体の経歴はここで言い尽くされているといえる。しかし、これでおしまい、というのも流石に味気ないので、補足をつけていく。

 まずは師匠の京山恭為について。

 恭為は、1881年5月17日、和歌山出身。本名・野手為楠——と『日本浪曲大全集』にある。

 京山の中興の祖と呼ばれる二代目京山恭安齋の弟子で、桃中軒雲右衛門と鎬を削った京山若丸・京山小円とは兄弟弟子にあたる。「恭為」の芸名は、本名の「為楠」と「恭安斎」を掛け合わせたものであろう

 経歴とご尊顔は国会図書館所蔵の『浪花節名鑑』で見る事が出来る。

 ただ、この名鑑は如何にも寄せ集めというもので、出身地等は間違っているので注意。元養子の孤舟が、恭為の出身を和歌山と書いているので間違いないだろう。

ただ、ズボラは本当で、借金は返さない、酒で興行をすっぽかす、などの常習犯で、「ズボラの為」と陰口を叩かれるほどであった。また酒が好きで、酒の上での失敗も数知れず、という酒豪でもあった。

 これだけ見ると、奇人変人のたぐいであるが、芸の方は一流で、若丸・小円に劣らぬだけの技芸と人気を持っていたという。

 京山派には珍しく、忠臣蔵や古典作品という様なモノよりも「新講談」——「探偵物」「事件物」と呼ばれる作品を得意としており、「日本ジゴマ」「河内十人斬り」「三人書生」「強盗士官」「乃木将軍」などといった独自の読物を開拓。

 京山の出でありながら、修行先は東京。多くの名人上手やうるさい客と同座して、独自の芸を磨いた。中でも、春日亭清吉と人気を競い合った仲。そのため、人気が先に出たのは東京で、本拠地・関西へ東京から凱旋公演をする、という逆さまな成功を収めた。

 伝承によると、節は兎に角まずく、話にならなかったそうで、岡本文弥も『文弥芸談』の中で、「これもふしは淡々と、むしろぶっきら棒なくらい。関西ぶしとて三味線はピシャピシャという水調子……」と、その節の拙さを指摘しているが、一度啖呵や科白になると、その情景描写といい、人物の演じ分けといい、身震いするほどの出来だったそうである。一種の啖呵読みの芸人だったといえようか。

 岡本文弥の父も文弥もこの恭為の贔屓だったそうで、芸談や「これちよまくら」の中で「大好きだった」と繰り返し語っている。

 また同業者からの評価も高く、正岡容は『雲右衛門以後』の中で、

新聞小説その他、専らこの人は新作許り採上げたが、節は少しもおもしろくなく、只管、啖呵が喝采を博した。しかも、関西浪曲史を通じての藝上手であると云はれてゐる。

 と、その芸の長短を指摘し、若き日の梅中軒鶯童は、凱旋した恭為の姿を『浪曲旅芸人』の中で、「東京へ出て破天荒の人気を博していた」恭為の帰省に当り、会を催したが、余りの人気で他の芸人が出ても引きずりおろされてしまう程であったという。鶯童はこの時、恭為の芸を見たそうであるが、

 恭為師の浪花節はこの時初めて聴いたのであったが、人物描写の妙、巧みな会話運びで、うわさに聞くより以上だと思った。後年は私の一座に永らくく加入して貰って、芸道の極意をよく見聞する事が出来たが、最初にうけた印象は、よくも一本調子のこの声でこれだけの魅力を生むものであると、芸の恐ろしさを感じた。

 と、そのすごさを語っている。後年は関西の寄席を中心に活躍。八丁荒しとして売れに売れた。1941年7月13日没。

 余談であるが、この人の末弟子が(しかし、実際は孫弟子らしい)、「これは素敵なちょいとイカス~」で売れに売れた暁伸その人である。

 さて、わかの浦孤舟は、京山恭為の養子になったものの、離縁して、実家に戻った。

 尋常小学校卒業後、普通に働いていたが(『浪曲辞典』)、浪曲を志し、売れに売れていた元養父に弟子入り。「京山恭高」と名乗る。因みに「恭高」は、二代目恭安斎の門下にいたらしく、この孤舟は「二代目」にあたるらしい。

 長らく師匠について、全国を巡業。この辺りは全国の新聞を追わなければならないだろうが、目下はできていない。仕方ない。

 1930年に吉田一千代と結婚。以来、夫婦で活躍。

 この頃、「わかの浦孤舟」と改名。由来は「師の恭為が和歌山出身なので亭号とし、独り浪界の荒波を出するという意味をこめて」。

 余談であるが、「ちぬの浦孤舟」はそっくりな名前であるが、別人。わかの浦よりも大先輩である。「浪曲大和軍歌」なる忠君愛国的な浪曲を生み出し、独自の節調や演出で人気を集めた人。俗名・井上九郎市。

 この人は、滋賀県の生れで、同地で盛んな江州音頭の音頭取り、櫻川文治の倅。但し、実家は農家であったという。

 幼い頃から歌好きで、家元の一派・真鍮家好文に入門。父・文治の弟子が喜劇役者として売れた志賀廼家淡海——という名門の一族であったが、浪曲へ転向。その後も、淡海との交友はあったらしく、京山幸玉・淡海・ちぬの浦の三人は兄弟分として契りを交わした。

 明治末から頭角を現し、独立独歩で独自の節まわしを生み出した。『浪曲ファン85号』の回顧録によると「薬屋のオイチニイ」という掛け声から節を生み出したという。若き日の米若がこの人の節に感化を受けた――という伝説があるが、詳細不明。

 大正時代には新富座などの大劇場にも出演し、八面六臂の活躍。「小説家ともなり、通俗教育講師ともなり、今は浪界革命を叫びて、浪花節を転曲した大和軍歌創始者」(『都新聞』1917年12月6日号)とあるのがすごい。

 戦後は「浪曲大和軍歌」として軍国浪曲で売った反省から引退したらしく、『浪曲旅芸人』によると、1964年にひっそり息を引き取ったとの由。

 さて、改名後も「新講談」の演者として一座を転々とした。

 1932年頃、第一次上海事変の戦果を記念して、東武蔵たちと共に「満州・上海事変新浪曲公演」を持って全国を巡業した――と『萩市史』にある。この時には既に「わかの浦孤舟」名義だったようである。

 1935年、上京。以来、東京の浪曲師として活躍する事となる。ただ、京山の出だけあって、関西節であったそうである。

 以来、師匠同様に「新講談」で活躍。「日本ジゴマ」など、珍しいネタを演じた。

 1941年には妻の一千代が浪曲師を引退し、曲師に転向。以来、夫婦浪曲で堅実な歩みを進める事となる。

 敗戦後、NHKの専属となり、演芸番組に出演。当時の放送局事情などから、凄まじく出演数が多いというわけではないが、中堅株として活躍した模様。

 1947年、新日本学院に転校していた(素行不良のため)、石渡栄太郎少年と出会い、彼の美声と舞台度胸に感心し、入門を勧める。同年9月、栄太郎少年を弟子にして「わかの浦小太郎」と名付けた。

 この栄太郎少年は、「わかの浦桜丸」の名で修業をしていたが、1948年、二代目玉川勝太郎門下へ移り、「福太郎」——今日活躍する玉川奈々福氏や太福氏の大師匠にあたる三代目玉川勝太郎その人である。

 戦後しばらくNHKの専属(『読売新聞』1956年11月26日号ラジオ欄)だったが、1956年に民放に参加。11月26日に、寄席読みの名人、春日清鶴と共演している。

 以降は浅草の木馬館や松竹演芸場を根城に活躍。新講談の姿勢を崩す事はなく、独自の新作や「乃木大将」などを得意とした。

 また高度経済成長期に「靖国神社を守った男」なる演題を発表し(東家楽浦が脚色。今もイエス玉川がやる)、ちょっとした話題となった。

 舞台は熱演型で、時には感極まって泣きながら浪曲をやる事もあったという。十八番を挙げれば「小村寿太郎と魚竹」「将軍と太平」「乃木将軍」などだろうか。吹き込まれたLPは今も時折ヤフオク!などで見かけたりする。

 1967年、「わかの浦孤舟道場」を設立。アマチュアの浪曲道場として厳しく接した。「節真似御法度・怠け者除名」と厳しいものであったが、自分自身で好きなように節が出来るために、熱狂的な好事家はよく集ったとの由(『浪曲ファン53号』)。

 1975年10月19日、木馬浪曲友の会三周年を記念して「懐かしの名浪曲を聞く会」に出席。瓢右衛門、重正、華千代、楽浦。当日、特別ゲストとして篠田実が列席している。

 大入満員を記録し、その技芸は実に見事だったらしいが、観客が年寄りばかりで若手の浪曲不信を『読売新聞』(10月25日号)の『あんぐる』の中で触れられている。

 1976年11月7日、妻で曲師の一千代こと、梶原タカエが67歳で死去(『浪曲ファン58号』)。

 1980年9月28日、国立演芸場で行われた『第26回特別企画公演 浪花節名曲撰』に出演し、「小村寿太郎と魚竹」を披露。老練な芸で喜ばせたという。この時の映像・音源は録音され、国立劇場に所蔵されている。

 しかし、この出演の直後、俄に病を得、急性肺炎で入院。1980年10月25日、急性肺炎のために息を引き取った。享年77歳。

 喜寿すぎてもなお、朗々と唸る姿にオールドファンを喜ばせ、関係者からも期待されていたが、その急逝は人々に衝撃を与えたという。事実、11月11日にも木馬亭の仕事が入っており、出演予定であった。

 わかの浦孤舟伝、一巻の終わり。

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