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東国の出雲族、中氷川神社〜荒川まで

これと、

これで、

東国の出雲族について取り上げてきました。

奥多摩町史によれば、

"牟邪志(後の武蔵)最初の国造は出雲臣伊佐知直ですが考証によれば、この出雲臣は当初多摩川下流に拠点をもち、、、

宇奈根氷川神社、ここエリアにはここの他に、喜多見氷川神社、大蔵氷川神社と3つの氷川様が鎮座しています。2020/8撮影

、、、その上流奥多摩氷川の愛宕山の地形を祖国出雲で祖神を祀る日御碕神社の神岳と見、、、

正面の独特の形をした山が愛宕山、2020/11撮影

、、、ここへ祖神の氷川神を勧請したのが武蔵に数多い氷川神社の起源で、牟邪志、知々夫両国の合一によって本拠の国衙を府中に移して氷川神を中氷川へ、さらに大宮へ移したのだろうといわれるのです。"

奥氷川神社、2020/11撮影
三ヶ島中氷川神社、2022/2撮影

ということで今回は、中氷川神社から大宮氷川神社に、出雲族の痕跡を探っていきたいと思います。

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田無を経由して所沢街道で秋津に向かいます。

秋津には秋津氷川神社が鎮座しています。

秋津氷川神社

818年頃には、同じ秋津村にあった竜泉寺の守護神として祀られていたと言います。

奥氷川神社を中氷川神社に移したのが700年〜で、その後、暫くしてから大宮氷川神社ですから、年代的には整合してますね。

先を行きましょう、、、

柳瀬川と柳瀬川の河岸段丘が最も迫る、アカバッケの辺

、、、本郷の東福寺です。

東福寺

勿論氷川神社ではないんですが、このお寺は749年、行基が創建との伝承があり、だとすると出雲族の移動時には既にあったということになります。

先を行きましょう、大和田の普光明寺です。

亨保年間(1716〜36)建立の山門
本堂
頼家が収めた千体地蔵がある地蔵堂

この寺も勿論氷川神社ではないんですが、806年開山の寺伝が残り、出雲族もここを通ったでしょう。

ここ普光明寺の前の道は鎌倉街道羽根倉道の伝承があります。

新座市による説明板と鎌倉街道羽根倉道

鎌倉街道羽根倉道とは、鎌倉街道中道と上道を連絡する間道で、大宮氷川神社と府中とを行き来する道でもありました。

鎌倉街道中道は奥州道、上道は東山道武蔵路ですから、鎌倉時代以前から成立していました。よって、鎌倉街道羽根倉道も同時期に成立していたと思われます。

つまり、出雲族は、この道を進んでいったのだと思われます。

先を行きましょう、直ぐ近くに大和田氷川神社があります。

大和田氷川神社

802年の創建です。ピッタリですね、時代的には。

ということで大和田は800年頃から普光明寺と大和田氷川神社を中心としたエリアで栄えたんですが、1457年に太田道灌が川越城築城後、川越街道が成立すると、その後は、川越街道沿いが発展していきます。

川越街道沿いには大和田宿が出来ます。その名残でしょう、大きな旧家が残っていました。恐らく青い屋根の下は茅葺きです。屋根中央の屋根の上の屋根は養蚕用の換気口ですね。養蚕もやってた豪農だったのだと思います。

先を行きましょう、舘氷川神社です。

舘氷川神社

貞観年間(859〜877)の創建です。大宮に近付くに連れ、年代も進むという、出来過ぎ感もありますが。

さて次は島根氷川神社なんですが、荒川を越えるので次回に譲りここで折り返しましょう。

宿通りと袋橋通りが交差する交差点が、これまで通ってきた鎌倉街道羽根倉道柳瀬川右岸ルートと左岸ルートが交わる所です。ここで折り返します。

水子の三又は一番左を入り、2つ目を左に行くと河岸段丘の崖ですが、ここを右に行くと、

鎌倉街道発見

藪の中にシングルトラックが残ってました。

その先、石井坂を下らずに右に入り畑の中の道が鎌倉街道です。

右は家の屋根でお分かりの通り崖
先に進む

この先、弁財天と大井戸、性蓮寺(崖下), 八幡神社(崖上)と縫うように行く道が鎌倉街道です。

弁財天と大井戸

竹間沢通りに進み竹間沢こぶしの里にも鎌倉街道伝承道が残っています。

ここから入り
ここに出ます

ここは以前武蔵七党村山氏大井氏・難波氏の痕跡を訪ねた時にも来ていました。

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如何でしたでしょうか。

大宮氷川神社は927年の延喜式神名帳には記載されていますので、927年には進出・移住が完結していたということになります。

武蔵国が成立し、府中に国府が出来た後、200年と少し掛けて、奥氷川神社→中氷川神社→大宮氷川神社と、この鎌倉街道羽根倉道を東進していったということになりますね。

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