多様性について私が思うこと
「多様性」は個人の選択の自由を互いに尊重すること良い風潮を作ってきたとは思う。一方で思うことは、「多様性」は結局恵まれた人のものではないかということだ。
自由と平等は基本的に両立は難しい。代表例は資本主義と共産主義じゃないだろうか。人の自由とは誰かの不平等であり、平等はある程度の制限の下でしかあり得ない。
多様性は〇〇らしさ、という制限から自由にしてくれる。社会から押し付けられた役割からの解放は、喜ばしいことだと思う。しかし私は、ある程度の制限も必要ではないかと思う。
多様性という言葉によって、制服廃止の動きがある。現状、制服は高価であり学校によって指定がある。服を自由に複数枚買えて、常に清潔に保つことができる家庭にとっては煩わしいものだろう。しかし全ての家庭が、衣食住に問題がないわけではない。穴だらけで汚れていて、サイズの合わない服しかない子、お下がりのみを着ている子、服の数がそれほど多くない子。そういう子たちも同じ教室で同じように勉強をする。例えサイズが異なってしまっていても、それでも制服はそういう子たちの家庭の事情をある程度覆い隠すことができる。学舎で生徒たちが互いにどこのどんな家庭かを意識することなく、あくまで同じように学問に励む平等な仲間として接することが、少なくとも私服登校よりはできるのではないだろうか。また制服は冠婚葬祭、試験、面接にも着用することができる。冠婚葬祭のそれぞれの儀式に出席するための衣服の金額を考えれば、制服一枚の方がありがたいと言えるのではないだろうか(とはいえ制服は高い。そこは同意する)制服と同様のことがメイクや髪色にも言える。メイク道具や染髪にお金を自分の意思で自由に使える子は、少なくとも食べるものには困っていないだろう。
日本において学術的に貧困と言える家庭の割合は非常に低い。また日本はセーフティネットが多い国ではある。きちんと活用できていれば、最低限の生活はできる。しかしそれは知識のある「大人」ができる選択である。義務教育が終わるまで(あるいはもっと長く)、子どもは家庭の強い影響下で生きていく。子どもは親の選択で、それこそ身なりも大きく変わるだろう。子どもに服を買えるお金があっても、全ての親が子どもに服を買うわけではない。毎日違う清潔な服を着ている子どももいれば、そうではない子どももいる。多様性は前者には十分に優しいだろう。しかし本当に立場が弱い人に、差別やいじめを受ける、わかりやすい理由を渡してしまうかもしれない。
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