見出し画像

カフカ『雑種』で比べる版と訳のちがい その2

マックス・ブロート版の加筆

『雑種』では、大きな違いがいくつかあります。
語り手は、日曜の午前(集英社版は午後)に限って子供たちに羊猫を見せている。その際、子供たちからさまざまな質問が飛んできます。

どうしてたった一匹だけこんな動物がいるのか、どうして私だけがこれを持っているのか、以前にもこういう動物がいたのかどうか、これが死んだあとはどうなるか、これはひとりで淋しくないか、どうして子供がいないのか、何という名前か、等々である。
 私は返答の労をとらない、その代り、

『カフカ傑作短編集(タイトル:変種)』長谷部四郎 訳 福武文庫(1988年)

どうしてこんな変てこりんな動物がいるのか、どうしておじさんとこにいるのか、前にもこんな動物がいたのか、死んだらどうなるのか、さびしがらないか、どうして赤ちゃんを生まないのか、名前はなんていうのか、といった調子である。
 私はいちいち答えない。

『カフカ短篇集』池内紀 訳 岩波文庫(1987年)

批判版では質問の描写はありませんでした。

すると口々に、誰にも答えられないような実に珍奇な質問をする。私もわざわざ答えはせずに、あれこれの説明は抜きにして、手許の現物そのものを見せてやることで満足している。

『カフカセレクションⅢ』浅井健二郎 訳 ちくま文庫(2008年)

すると、誰も答えられないような珍妙きわまりない質問が次々に飛び出してくる。私も面倒なことはせず、あれこれと説明を重ねるかわりに、自分が持っているものを見せるだけにとどめる。

『カフカ』竹峰義和 訳 集英社文庫(2015年)

ところが史的批判版には質問が飛び交っています。

子どもたちは返事にこまるような質問をする。
「どうしてこんな動物がいるの?」
「どうしておじさんのところにいるの?」
「前からこういう動物がいたのかなあ?」
「死んだらどうなるんだろう?」
「一匹でさびしいことはないのかな?」
「なんで赤ちゃんをうまないのかな?」
「名前はなんていうの?」
などなど。

『雑種』酒寄進一 訳 理論社(2018年)

犬にもなろうとしている羊猫

マックス・ブロート版はさらに長い加筆がされています。
話は進み、半分羊と半分猫である動物は、さらに犬にもなろうとしている描写されています。

羊と猫であることだけで満足せず、彼はさらに犬にもなろうとしている。 --あるとき、誰にでもよくあることだが、私は自分の事業と、そしてそれに関連のある一切のことで、途方にくれ、すべてをなりゆきにまかせようと思ったことがある、そのとき、私は家で揺り椅子腰かけその動物を膝にのせていたが、ふと眼をおとしてみると、彼の巨大な髯から涙がしたたり落ちるのを見たのである。---私の涙だったか、彼の涙だったか? ---羊の魂をもつこの猫は、また人間の功名欲を持っているのか?

『カフカ傑作短編集(タイトル:変種)』長谷部四郎 訳 福武文庫(1988年)

さらに犬にもなりたがっている具合なのだ----そういえば、あるとき、こんなことがあった、誰にも身に覚えがあるだろう、商売がはかばかしくなく、やることなすこと手詰りの状態というやつだ、私はすっかり投げやりな気持ちになって、家の揺り椅子で寝そべっていた。膝には例のやつをのせていた。ふと見ると、むやみに長いそのひげをつたって涙が光っている。私の涙なのか、それともこいつの涙なのか。この猫ときたら、羊のやさしさに加えて人間の心までも持っているのか---

『カフカ短篇集』池内紀 訳 岩波文庫(1987年)

批判版、史的批判版にもこの描写はありません。

ほとんど、さらに犬にでもありたいといった感じなのだ。そんな風に感じるのは、それに似たことを私に本気で信じているからである。

『カフカセレクションⅢ』浅井健二郎 訳 ちくま文庫(2008年)

さらに犬にもなりたがっているようなのだ。というのも、私が本気で信じているからである。

『カフカ』竹峰義和 訳 集英社文庫(2015年)

今度はイヌになりたがっているようだ。そんなきざしがあるように思えてならないんだ。

『雑種』酒寄進一 訳 理論社(2018年)

こまかい描写の違いはもっと探せばあると思いますが、ドイツ語がわからないので、比較できません。
とはいえ、これだけ違うと、なにを基盤にしていいのかというのは、難しく、実際にさまざまな議論があります。
たとえば、国会図書館デジタルコレクションに一部所蔵されている、「批判版カフカ全集」の意義と限界 : フランツ・カフカの遺稿をめぐる編集文献学的考察 なども参考になります。

参考:カフカの『変身』を読めば性格診断ができる? 村上春樹も影響された不思議な世界