4月26日[本願寺の歴史1]三浦真証先生ご講義の感想です
三浦先生、いつも貴重な講義をありがとうございます。今回もなかなかに難しく、理解するのに反復が必要な講義でしたが、とても深い学びになりました。あとは自分の理解をどこまで深くするかですが、三浦先生も言っておられたように、アウトプットは大切ですよね。先生に感想を書くことで学びを深くしたいと思い、今回の感想を書いてみました。
講義前日にいただいた資料を眺めて、スライドNO7の「これガチで真宗文脈で言ってたら、相当やばいです。」の何がやばいか、スライドだけではよくわかりませんでした。三浦先生の講義で、西吟の考えは浄土真宗的に異端だというのがよくわかりましたが、学寮トップの立場にいる西吟が、なぜ他宗の顔色を窺うようなことをしたのか、とても謎すぎます。それにしても、その当時で浄土真宗開宗から400年、その宗義の蓄積はされていたはず。そう考えると、西吟は何を学んできたのだろうかと思ってしまいます。多分から浄土真宗以外の学びもしていたのでしょうね。他派の宗教とも色々と学びすぎて、とっ散らかってしまったのかもしれません。もしくは親鸞聖人ももとは比叡山で学んだ方です、浄土真宗の僧侶は他宗を学ぶという追体験をして初めて浄土真宗のありがたさを知ることができるとでも考えたのでしょうか。色々と空想が暴走してしまいます。
月感も月感だと思いました。学寮トップへの激怒、西吟の異端な考えから学寮の生徒を守りたいというのはよく分かるのですが、普通は様子を見ながら周りから固めていきそうなものを、後先考えずに真正面から切り込むだなんて、正気の沙汰とは思えません。すでにバックに准秀がいたから西吟に噛み付くことができたのか、それとも興正寺の勢力拡大のために准秀が仕組んだ出来レースなのか、西吟だけでなく月感の事も色々と勘繰ってしまいます。もちろんもっと複雑だとは思うのですが、喧嘩の仕方がちょっと幼すぎると思いました。
ところで私の浄土真宗の学びですが、この世知辛い現世という苦海をどう生き抜くか、この世の中に真の幸せはあるのだろうか、といったところから始まり、この世で生き切ることこそ修行かな、って思うようになりました。ですから自らの力ではどうする事もできない現実への向き合いに、浄土教がうまくはまったように思います。幸い家が浄土真宗だということと、親鸞聖人のことをよく書いておられる五木寛之や吉本孝明の本を読んでいたというのも相まって、浄土真宗の教えが違和感なく入ったようにも思います。そして今は自分の力ではどうしようもないこの世界を生き切るための最強の伴走者が阿弥陀様ただお一人と思うに至っています。自らの修行で悟りを掴み取ることができるスーパー人間ならともかく、私のような煩悩の塊のような衆生がどれだけ学び尽くそうが修行し尽くそうが、到達する場はたかが知れています。こういった考えが新鮮で、浄土真宗を学ぶようになり本当に楽になりました。もちろんだからと言って人の道を外すわけがなく、むしろ正しく生き切りたいと願うようになったのは、ひとえに浄土真宗に教えてもらってからのように思っております。
とりあえず、やはり言葉の意味がまだ咀嚼されていないので、それを学ぶ必要がありそうです。例えば「浄土真宗は機の深信が基本」というところ、「機」と「深信」を別々に調べていたら」「機の深信」と「法の深信」の二種深信に辿り着きました。「機」とは自分自身のことで、私には迷いの生死を抜け出す手立てが無いということを意味するのだと初めて知りました。これらの文字へのイメージができ、字面だけですっと心に入るようになれば、学びはもう少し深くなりそうです。そのような感じでゆるゆると学んでいきたいと思っております。三浦先生、今後ともよろしくお願いします。
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