ライブにつまらんプレイを「持たず つくらず 持ち込ませず」が理想

4年前くらいに、当時大好きだった音楽メディアの一般公募企画の中で「ライブハウスについて」的なテーマに応募した時の自分の文章が今でも馬鹿みたいに好きなんです。

そのメディアが気付いたらクローズしていたので、自分のブログで弔います。

これからもいつまでも輝いて。

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ライブにつまらんプレイを「持たず つくらず 持ち込ませず」が理想

 ライブハウスやライブ会場に通うようになって、なんだかんだで10年以上のアラサー♀である。高校2年生頃から始まったこの趣味、当初は同じ高校や他校の友人とせっせとライブハウス通いに励んだもの。

ライブ仲間は次第にデキ婚や結婚で戦線離脱。気づけばひとりでライブ戦線に向かい続ける無頼派のアラサー♀に。

今回の「優勝賞金たった1万円!MUSIC REVIEW AWARD開催のお知らせ」の機会を借りて、常々感じていたライブでの振る舞いについて一言モノ申したい。どうせBASEMENT-TIMESの読者は若いパリピ。失うものなんて何一つないんだから、まあ最後まで読んでみて頂戴。

1.ライブハウスに知り合いも友達もいらない。

 音楽は個人的なものだ。自分の中にある感性に触れた音楽を好きになる。イヤホンをつければどこでも音楽を聴けるのに、ライブ会場に足を運んでまで音楽を聴きたいと思うのはなぜだろう。
 この最高な音楽は生演奏で聴いたらどれほど素敵か、この音楽を作った人間がどんなライブパフォーマンスをするのか?
そんな好奇心と希望から、ライブ会場に足を運ぶのではないだろうか。はじめは挙動不審ながらに通ったライブハウスも、定期的にライブ鑑賞に行くバンドが片手の指の数を超える頃には、ちらほらと顔見知りの人間ができていたりする。

「新曲どうだった?」
「カッコヨカッタです~!」

よほどハートの強い人間か、コミュニケーションに難がある人間でなければ、「こんな曲はクソだ」と心の底で感じていても、クソだったと当人に直接伝えることは避けてしまうだろう。大して仲良くもない友人が行うFacebookでの結婚報告に「失せろ。」などと書き込めないことと同じだ。

 ライブハウスに下手に知り合いが増えると「その音楽を良いと感じたかどうか」を素直に語りづらくなる。気まずさの回避と相手への配慮で、大抵は、自分の本心を欺いて良いと思わない音楽を褒めてしまったりする。

ライブハウスに商売をしに来ているわけでもないのに、人間関係にがんじがらめになって自分を欺き、良いと思わない音楽を「カッコヨカッタ」などと口にしなければいけなくなったら終わりだ。資本主義社会の人間関係から解放されたいと思ってホームレスになったのに、結局ホームレス社会の人間関係に埋没する矛盾と似ている。

 音楽は個人的なものだ。自分が音楽を楽しむための目と耳を濁らせるような知人友人などを作って自分の人生の何になるだろうか。

ライブハウスに知人を作りたいなどという愚かな考えは痰と一緒にライブハウスの汚い床に吐き捨てて、歯茎を出すことなく血がにじむまで唇を噛みしめよう。ちっとも良いと思わない音楽をカッコヨイなどとぬるい笑顔で口にし、お茶を濁す。私達はそんなことのために生きているわけじゃない。

2.シンバルを叩くお猿さんかな?


 みんなで何かをする、という行為をひどく好むのは日本人的特徴だ。“みんな”で“楽しそう”な雰囲気を演出するために、ステージ上から手拍子を求められることは少なくない。気まぐれに入れられたスイッチひとつで無表情にシンバルを鳴らすお猿さんの気分だ。もしくは、セックス相手に手拍子を求められるような不穏。興醒め。
 バンドへの敬愛の表れとでも言いたいのか、客席から手拍子が自然発生することもある。自らの意思で手拍子を始めたはずなのに、あれほど心許ないリズムなのはなぜだろうか。好きなバンドに、素人らが打つまばらな手拍子に合わせて演奏をさせる狂気。おもちゃの猿が鳴らすシンバルのリズムに合わせて演奏するバンド。溢れるスマイル。地獄絵図だ。

原始的であれ


 再三言うが、音楽は個人的なものだ。なぜなら、音楽を聴いたときに抱く良し悪しの感覚は、自分の体験や経験に結びついて発生する。
好きな人に振られてしまった夜/誰にも理解されないと絶望した夜/大好きなあの人が、おもしろくもないなんともない人間と付き合っていることに憤った夜/幸せそう人間を見て世の中を呪った夜――。そんな経験を幾度も繰り返しながら今ここで呼吸する人間は自分しかいない。音楽を聴くひとりひとりの人間には、なにひとつ共通点がない。

それでも、音楽が、他人と自分をつなぐ“強烈な糸”となる瞬間がある。

まるで“ひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて”くるような、微かで儚い、強大な希望の糸だ。誰ともない声に生命を救われる。

しかしそれは、たとえば、ライブハウスにいる知人、友人に合わせて自分の価値観を曖昧にした瞬間。バンドや客席がゆるりと強要する振る舞いに合わせて、手を叩いたりダンスをしてみたり、なんとなく楽しい空間に身をゆだねた瞬間。そんなときには見つけられない、微かな糸だ。
音楽のもたらす彩りが最も鮮明に感じられるときは、人間の原始的で根源的な孤独と真正面から対峙しているときである。ミミズのように地を這い、土を喰らい、奥深くへと潜る。誰に気遣うこともなく、自分の感性にのみ目を凝らして、自分の感性に響く音楽と語らう。

自分がごく原始的な生物になったときにはじめて、音楽がより強烈な糸となって他人と自分を結び付けるだろう。

ライブでの振る舞いには思想が大きく反映される


 無思想で無邪気な客と、偏屈で強情な客の乖離は進むばかりだ。ノリが良いバカとノリが悪いバカ。同じバカとして背中を合わせた後、互いに真逆の方向へ突っ走った両者が集う、ライブハウスやライブ会場。

アーティストが音楽で平和を叫ぶそのすぐ足元に争いの温床がある。平和的解決を願うあまり、ライブにつまらんプレイを「持たず つくらず 持ち込ませず」が理想、などという思想が湧き上がってくる。

ひとりでそんなことを考えているうちに、あっという間に婚期を逃す。 若くて懸命な読者は、今夜もパーティで隣にいる知らない誰かとスマイルで手拍子に励み、そう遠くない未来にデキ婚、ライブ戦線を早急に離脱するほうが賢明だろう。

いろいろ述べたが、ライブではしゃぐバカもはしゃがないバカも、結局はわたしの人生に一切の関係もないので「好きにしろ」と思っている。

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