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一筋の光

子ができてからというもの、勝手ながら、親として子にどう生きてほしいかを考えることが増えた。
どう生きてほしいかというのと、そのために親として何をしておいたら良いのだろう、ということ。

子どもにはあまり苦労してほしくないと感じる一方で、恐らくそんな訳にはいかないし、苦労させないようにすることは子どもをうっすらと不幸にしたり、とてつもなく不幸にすることなのではないかとも思う。

子に苦労させないことが、子を不幸にするのはなぜか。

そもそもの前提として、絡め取られるようにあまりの不運や不幸に晒されるのが人の人生だと、私は考える。人生で遭遇する不幸や不運の総量は平等なのではないか、と。

ごく稀に、幸せすぎる人や、不幸すぎる人も出てしまうのが世界の残酷さで、しかし大半の人はうっすらと不幸だったり不運だったりを生きるのではないか。

そのときに、あまりに苦労している人はこの世の中に語るべきものを禍々しくありありと持つ人となり、その声に深く聞き入って心を打たれる人も多いだろう。

一方で、幸せすぎる人は語るべきことが少なく軽薄で、その声を聞いて心の底から真に癒される人は少ないのではないか(これは痛みを知らない人は誰かを真に感動させることなどできない、という私の願望に過ぎないが)。

昔見かけたノンフィクションで、声優を目指す若者を追う回があった。
声優を夢見る一人娘を地方から東京に送り、母親はいつでも帰っておいでと明らかに心配そうに声をかけ、父親は平静を装って次のように語った。

苦しい思いをしなかったということは、語るべきことがない人生を歩むことになる(だから、帰って来いとは言うつもりはない)、と。

まだ独身子なしだった当時の状況でも父親が心底娘を心配しているだろうことは私にも見てとれたが、しかし娘の苦労する権利を奪わない父親に深い愛情を感じた。

まだ半人前なのだからと、つい介入したくなるのが親心ではないか。

しかし、とことん打ちのめされる可能性がかなり高い挑戦をする我が子を見守ってやるのだ、それは彼女がこの先も長い人生で「語るべきもの」の伸び代を作るために。

立派な父親だと思う。

では、私はどんな親になれるだろう。

基本的に、子が失敗する権利は奪わずにいたいと思う。本人や他人の命に関わることは、年齢に合わせて積極的に介入する必要があるだろう。

一番気をつけたいのは、私の手を離れて生きなければいけない年齢に子がなったときに、子が自分や他人の命を傷つけたり奪ったりする、そういう気分や場所から離れるための、一筋の光を作っておきたい。
その光が本人の内部に紡がれるように、祈る心で接していきたいと思っている。

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