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「狭い門」を求め、捜し、叩きなさい。そうすれば与えられる マタイ7:7,8の考察

(この記事は 『「狭い門」とは』 と第する記事の続編という位置づけになります。)

聖書に関心のある方々ならば、必ず耳にしたことがあるであろう言葉に「反キリスト」という単語があります。
原語をカタカナ表記すると「アンティ クリストス」ですが、アンチと聞くと「反対」という意味に取られる方がほとんどでしょう。古くから「アンチ・ジャイアンツ」なんてのもありますが、ネットで検索すると「アンチとは、英語の「anti」を語源とする、「反対・対抗・排斥」などの意味を表す言葉です。 アンチウイルスソフト、アンチエイジングといった使われ方をします。」などと出てきます。
英語の[anti]はたしかにそういう意味かも知れませんが、その語源となったギリシャ語は、必ずしもその意味に限定されません。

ギリシヤ語の [anti] という言葉は、反対するという意味も、もちろんありますが、実際にはこの語は様々な単語に訳されています。
instead of~ の代わりに、 in return for 見返り、 over against に対して、などが主な意味であるとされています。

アンティ クリストスはすでに西暦1世紀から登場しています。
この語は聖書中に4箇所見いだされます。

《子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリスト(単数形)が来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリスト(複数形)が現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。》ヨハネの手紙一 2:18

《イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリスト(単数形)の霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。》ヨハネの手紙一 4:3

後の2箇所:  ヨハネの手紙一 2:22、 ヨハネの手紙二 1:7

歴史上の「反キリストたち」は、同様の霊(精神)を持った者たちで、あからさまな反対や対抗心をむき出しにした者たちもいたかも知れません。
しかしヨハネは「反キリスト」についてずっと述べてきた理由を最後にこう付け加えています。

《以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。》1ヨハネ2:26

「反キリスト」に決して「惑わされない」ようにということです。

《こういう者は人を惑わす者、反キリストです。 気をつけて・・》2ヨハネ1:7,8

あからさまに、キリストに反抗している者たちに、「惑われされる」ことなどを、ヨハネはなぜ危惧したのだろうと不思議に思われませんか。
それは、「反キリスト」の生みの親がサタンであり、その手法は極めて狡猾だということです。ですから彼らは、誰から見ても「敬虔なクリスチャン」のように見えたはずだからです。だからこそ、心配して、口を酸っぱくして何度も警告しているヨハネの親心が伺えます。

一例ですが、「アンチ」が「代わり」と訳されている聖句を一つご紹介しておきましょう。
「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わり【アンチ】に蛇を与える父親がいるだろうか。」ルカ11:11
つまり「アンチ魚」:「蛇」です。 

考えてみて下さい。「偽キリスト」「似非キリスト」である本物の反キリストは(ややこしい表現ですが) 少なくとも当初は決してキリストに反対、対抗、排斥などはしないはずです。
実際キリストを真っ向から否定する人物に誰が惑わされるでしょうか。
キリストに価値を見出している人間を敵に廻したら自分の目論見は潰えます。つまり、見事に失敗に終わるのは目に見えていますから、悪賢いサタンの化身がそんなことをするわけがありません。

「反キリスト」は「反対する者」と思い込んでいる人は、表面上決してそうは見えないから、この人が「反キリスト」であるはずがないと思い込んでしまう危険があります。
むしろその勢力は間違いなく「盛り上げ派」でしょう。そしてここぞとばかりに手のひらを返し、本性を剥き出しにすると考えられます。
そのように散々持ち上げ、称賛し、意気を高揚したのち「我こそは」という段取りになっているということです。
そのタイミングは終末期の後半の3時半の始まり、大艱難が勃発します。

従って、「反キリスト」という訳語より「代替キリスト」と訳すのが本来の意味をもっともよく伝える訳と言えると思います。
だいたい、そう意味ではなく、まさしくそういう意味の言葉なのです。

さて、ヨハネは「反キリストは既に現れている」と述べていますが、パウロも同様のことを述べています。

《わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。 また、あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが起るであろう。》使徒 20:29,30

《しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊との教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており》、テモテ第一 4:1,2

「後の時代になると」という表現ですが、いつのことなのかは明確に分かりませんが、パウロは「私が去った後」と述べていますから、少なくとも西暦2世紀にはこれらは起き、急速に広まっていったのでしょう。

その直接の影響が、毒麦の存在です。
「敵」すなわち悪魔が毒麦の種を蒔いたと書かれていますが、どこか「クリスチャンとは全く無関係な別のところから連れてきたわけではなく、「あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って」とありますから、いわゆる教会内部での腐敗、堕落ということでしょう。
ちょっと歴史を振り返るだけでそれは分かります。

小麦と毒麦、どちらが多いのでしょう。 狭い門の記述を思い出してください。「広い門」を入る人の方が「多い」と言われています。
その人達、つまり毒麦組の人とは、キリストから拒絶された時の反応、苦情申立の言葉から明らかなように、当然クリスチャンを自認する人々です。

《その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。》マタイ7:22

《『ご主人様、どうぞあけてください』、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』》ルカ13:25,26

狭い門、広い門に関する話にはクリスチャンしか関わっておりません。
「多い、少ない」という表現がどれくらいの割合なのかは分かりませんが、6:4では僅差でしょう。7:3くらいなら7の方が「多い」と表現するかもしれません。

「狭い門」に関してそれを見出す人は「」という表現から考えると「クリスチャンを自認する人々の圧倒的大多数は、明確な聖書敵根拠をもって「毒麦」だと考えられますが、ただ「見分けが付きにくい」ゆえにキリストが臨在されて、小麦が天に収穫されるまで、そのままにされているということです。

そうした中でも「小麦」は「狭い門」を探し出し、そこを入ることができた人々です。
まさに「狭い門」の話の少し前に話された訓話をその通りに実行した人々でしょう。

《求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。》マタイ7:7,8

肝要なことは、本当のキリストのメッセージ、神のご意思を、自分の聖書から、ひたすら「求める」こと、そして「狭い門」と表現されている、命に至る道を「捜し」続けること、そしてその見つけ出した、目立たない門を「たたく」ことです。

「反キリスト」改め「代替キリスト」の影響を被った教えが大々的に広まって今日に至る「キリスト教」の歴史は、実際は「代替キリスト教」もしくは「似非キリスト教」であることを、ちゃんと認識できなければ、「狭い門」を見出すことは決してできないでしょう。
知らず識らずに、あるいは教わるがままに受け入れているのが、「似非キリスト」であって、それを本物のキリストだと思い込んでいる可能性は、予想以上に、予想外に、思ってもいない確率で高いのです。
アンチ・キリストを安置キリストしてしまっているのです。

さて、ついでにというか、「小麦と毒麦」についてもう少し触れておきましょう。

《イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。》マタイ16:37-43

「御国の子ら」「正しい人々」すなわち、真のクリスチャンは「世の終わり」に集められる、すなわち天の御国に収穫されるということです。
「世の終わり」のどのタイミングでしょうか。それはキリストが臨在されたときです。

このことが起きるときの時系列ですが、その最、収穫に先立って先行する出来事があります。
《刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」》マタイ13:30
《「つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせる」》
。マタイ13:41

つまり、キリストが臨在された時に真っ先に行われるのが、この「毒麦」の招集と焼却処分です。
それは個々に人知れず行われるのではなく「毒麦を集め、焼くために束にし」と敢えて言われているように、(しかも2度も繰り返されています)わざわざ「集め」1束に纏めた上で焼却するということですから、誰にでも、それと分かる具体的な事象が全世界的に生じるということでしょう。

さて、小麦と毒麦は1世紀以降、歴史の初期から存在しますが、厳密に言うとこの2者の対象的な結果は、「世の終わりの時」だけに当てはまりますので、不用意にキリストの臨在に気づかなかった人々も、この全世界の毒麦が「集められ」ることは否応なく知ることとなるでしょう。

患難の前に「携挙に与る」と信じている人は少なくないようですが、真のクリスチャンが集められるより前に、毒麦を「ひとまとめ」する世界的大イベントが生じなければなりません。
つまり患難前携挙があるとして話しますと、それが、真のクリスチャンを集めるタイミングだとすると、聖書が明確に述べていることからいえば、そのの前に、「偽クリスチャン」であることが白日の下にさらされる人々がいるということです。
自分は突然の携挙から取り残されのではないかとヒヤヒヤしている人もいるそうですが、その心配には及びません。
不適格者かどうかは、それ以前にしっかりと自覚させられます。

このことは、同じ章の「地引網」の例えからも確認できます。
《この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、》13:49
悪い者たちから、正しい物を選り分けるのではなく、その逆です。
「連れてゆかれる」のは似非クリスチャンであり、真のクリスチャンはその時点でまだ「取り残さた」人々の中にいます。
この一連の喩えから分かるのは、主な注目点が「正しい者」ではなく、まず、「悪い者」に注目しているということです。

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