見出し画像

「キリストに味方しない者は敵対する者、集めない者は散らす者」とは?

ひとつ前の記事 「あなたは、費用を計算しましたか? -ルカ14章の例えの真意」 の中でキリストの弟子になるということは「絶対要求」ではなく、いわゆる「天国かさもなくば地獄」という教えが間違いである聖書的根拠というのを示しましたが、今回の記事で はさらにその点を掘り下げてみたいと思います。

キリスト教は基本的に二元論というか、いわゆる「信仰か、不信仰か」「救いか、滅びか」「天国か、地獄か」というように常に「二者択一」を迫られているようなイメージがあります。 事実、キリスト教関連のどのサイトを見ても、ほぼ例外なくそのような展開になっているように感じます。
それでまず次の聖句を採り上げて検討してみましょう。

「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」ーマタイ 12:30

「散らす」とは、まとまっているもの、すでに集まっているものをバラバラにすることです。 キリストと一緒になって集めることを敢えてしようとしないことは、「集めた」ものをわざとバラバラにする行為、つまり明らかに「妨害者」とみなす。ということです。

集めない=何もしない=散らす=妨害行為 なぜ?

この言葉が、どういう場面で語られたのかを見てみましょう。
これが語られた背景として、マタイ12:22以降を見ますと、イエスが悪霊につかれた人を癒やされた時、パリサイ人が「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」と言ったことに呼応して話されたことの一部です。

パリサイ人のこうした発言はこれが初めてではありません。 マタイ9章の記述の中にも、それは見られます。

「悪霊が追い出されると、そのおしはものを言った。群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない。」と言った。しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言った。」- マタイ 9:34

このときは、イエスは彼らを無視して何も反応されていません。

度重なるこうした発言にイエスは例えを使って、彼らの言葉を否定し、これは「神の聖霊によるものだ」と述べられます。その後、唐突に上記の言葉(味方しない=逆らう、集めない=散らす)を述べられます。 そして続けて話された部分を次に引用します。

「だから、わたしはあなたがた(パリサイ人)に言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。
・・・まむしのすえたち。 おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すの です。」ーマタイ 12:31-34

文脈を見ますと、30節だけがとても唐突な感じがしてなりません。

冒頭の接続詞に注目してください。
「わたしに味方しない者はわたしに敵対するもの」(30節)、「だから(このゆえに)…」人はどんな罪も冒涜も赦されるが、聖霊に逆らう冒涜は赦されない」とはどういう意味でしょうか。

当然この「だから」は「許されない」かかっています。
わかりやすく順を変えると、
「人はどんな罪も冒涜も赦されるが、味方しない者は敵対するものとみなされる故に、聖霊に逆らう冒涜は赦されない」ということになるのでしょう。

まず、「どんな罪も冒涜も」赦される。というのは赦される余地、可能性がある、ということでしょう。
しかし本気で聖霊に言い逆らうものが赦される余地はいつどんなときでもあり得ない。ということです。

キリストに対して、「逆らう、散らす」ものだったとしても、それは赦されるということでしょうか。それとも、キリストに味方しない、ともに集めない者は、聖霊を冒涜しているということでしょうか。

どう考えても「味方しない、集めない」=何もしない人が「聖霊冒涜者」と断定されるというのは、他の聖句を整合性が取れないでしょう。

改めて30節の主語に注目してください。
「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」12:30
「人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は…」12:32
「わたし」から「人の子」に変わっています。この変化には何らかの意味があるのでしょうか。
「わたしに」の方は、ややプライベートな感覚があるように感じます。
あるいはイエスご自身の個人的、主観的な発想と言えるかもしれません。
しかし「人の子に」の方はメシアに対して、神に遣わされた者に対して、という意味が強いように思われます。

つまり、30節の唐突に思える挿入は、これから述べること、つまりパリサイ人の罪のゆゆしさを明確にする目的があり、比較対象する役目があるのでしょう。

すなわち「私に、私と共に・・」という表現は、一般論や教えの原則というより、進んで味方しないなら、逆らっていると(私は)見做す、あるいは(私は)そう受け止めるという、(おそらく、それほど)誇張した表現さえ厭わないほどに、この上なく最重要な、メシアとしての遣わされた役割を果たすプロジェクトが進行する中で、あからさまに「人の子」に「逆らうことばを口にする」(イエスをののしる、冒涜する)などは論外、以ての外と言えるはずですが、しかし、意外なこ とにそれは「赦される」というのです。

つまり、神の寛容さとはそれほどまでのものだということを踏まえてさえ、「聖霊に逆らう」ことだけは毅然と断罪されるということです。ですから、パリサイ人の、神の業を悪魔サタンによるものとした言葉が、いかに許しがたいものなのかを強調するために、先ず逆に、どこまで赦されるかという最大限の比較させるために、唐突に思える「味方でない者は逆らう者、ともに集めない者は散らす者」という一言を初めに挿入されたのだと思われます。

つまり「味方でない者は逆らう者、ともに集めない者は散らす」という表現は、原則や掟でなく、誇張表現だということです。

さて、このことが実際に適用されるのは、いつの時点での事でしょうか。 数節後の部分に次の表現があります。

「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだ(ギ語:アルゴス 軽率、無益、無意味)なことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」 ーマタイ 12:36;37

「裁きの日」つまり終末のキリスト再臨の際に、各人は自分の言動について弁明が求められることになります。
人が「聖霊に対する冒涜」を犯し得るのは、キリストが滞在された一世紀当時と、「二人の証人」の神の聖霊に基づく証の業がなされる終末期以外にはありません。※

(※「二人の証人」の活動に関する詳細は「134「二本のオリーブの木」と「二人の証人」に関する考察」などの記事をご覧ください)

ヨエルの預言が示しているように、聖霊の働きは未信者を含めすべての人に明確に識別できる仕方で表明されます。
それは、クリスチャン会衆(教会)が発足した一世紀のペンテコステの一世代、そして本格的には終末期に見られます。
その間はパウロがⅠコリント 13章で述べているように、預言や異言(奇跡的な癒やし等)など聖霊の働きは「止む」ことになっています。
言い換えれば、それまでの歴史の期間、人の罪はどのようなものであれ、赦され得る性質のものと言うことができます。

ころで、冒頭で考慮したマタイ12:30の「味方でない者は逆らう者であり、ともに集めない者は散らす者」という聖句に関する一般の解説の殆どは、キリスト教において「中間の立場はない」つまり、救われるクリスチャンか、滅ぼされるその他の人々かのどちらかに全人類は類別されると言われているようです。
本当にそうなのでしょうか。

次にこれと似た聖句をマルコの書から考慮してみましょう。
「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」ーマルコ 9:40
マタイ 12:30 と比べると逆説的な言い回しです。 これも背景を知るためにもう少し前から引用してみます。

「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。
ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間(ギ語:アコルーセオ 同行、フォロー、随行)ではないので、やめさせました。
しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。
「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」ーマルコ 9:37-40

「わたしたち」とはキリストとその弟子たちです。
ここでは「反対」するのでない限り「味方」とみなされます。
ここで先程のマタイ 12:30の「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者」という言葉を合わせて考慮しますと、キリストに追随しないが反対しないゆえに「味方」とみなされ「逆らうもの」ではないとみなされるということになります。
少なくともここまででに三様の立場が読み取れます。

1 キリストの追随者(クリスチャン)
 2 「仲間、追随者」ではないが「味方」とみなされる人(非クリスチャン)
3 結果的に聖霊冒涜者(反 [アンチ] クリスチャン)
そしてイエスは、この2番めの非クリスチャンについてこう付け加えておられます。

「あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。」ーマルコ 9:41 
この確約された「報い」とはどのようなものでしょうか。
いつ、それは与えられるのでしょうか。それは間違いなく次の描写に匹敵するものと考えら れます。

「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光 の位に着きます。
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。 世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。…
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。… すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたの です。』
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。…
王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」 - マタイ 25:31-46(一部省略)

「裁きの日」とは「人の子がその栄光を帯びて来るとき」ですから、それまでの二人の証人による証の業は終了しており、その際に過去に例を見ない規模の尋常ではない聖霊の働きが全人類に示されることになります。
この最中、獣の像を拝もうとしないゆえに、売り買いができない状態に置かれる人々に対して、実際的な援助を惜しまない「羊」のような人々は、王国の臣民として千年王国での命へと導かれるでしょう。

一方、窮状を見てなんら手助けをしなかった「山羊」のような人々が、単に無関心だったで済まされないのは、先のパリサイ人と同様、明らかに示される聖霊の働きを目の当たりしてなお頑なに、それらに対する冒涜的な言動をやめないゆえに、「永遠の刑罰」に値するものとなるということでしょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?