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預言の成就とされている聖書解釈を斬る-1 成就か否かの見極め方

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当然のことながら、聖書に書き記された預言や、その成就には「目的」があります。
では、ある事象が預言の成就と思えた場合、それを検証する上で欠かせない大切なことは何でしようか。

陥りがちな間違いは、預言の成就とみなせる出来事を歴史上に探索したりして、これこそがその成就に違いないと思った時、その仮定した特定の事象に合わせて、聖書の記述の方を都合の良い、つじつま合わせの解釈にしてしまうことです。

聖書預言とその成就に関して、思いに留めておきたい点を幾つか挙げたいと思います。「預言」と「予言」の違いをまず明確に理解しておく必要があるでしよう。
ここで、その両者の言葉の意味の違いを、一般的な辞書の大雑把な説明を載せておきましよう。

【予言】:未来を予測して言うこと
【預言】:ユダヤ教・キリスト教で、神から受けた啓示を人々に伝えること。
「預言」とは預かるという文字が表わすように、神や天使からの言葉を預かることである。
その超常的な存在から言葉を受け取った人間が「預言者」として表現される。つまり未来の出来事を暗示することを預言というのではなく、あくまで神の代弁者の発言を預言という。
「予言」とは超常的存在とは無関係で、経験則や現状から未来の出来事を予想するもので、例えば天気予報やシンクタンクの予想などは最も身近な予言といえる。

ですから、預言は、遠い将来の出来事を予め伝えるということだけでなく、モーセやエリヤなど当時の預言者を通して語られた神からの警告や激励の言葉なども「預言」と言えます。
そしてもちろん「預言」の中には、将来「必ずこうなる」という神の約束の言葉つまり、予言も含まれます。
そして一口に「預言(予言的な意味を含む)」といっても更に種類があるといえます。

一つは「神の先見(「単なる予想」でも「運命予定」というものでもない)」と言えるものです。
然るべき時節に、ある特定の事象がみられる。その時その場所にいる人々の行動や傾向などが、必ずこう「なる」という類のものです。言い換えればその事象(言動)そのものはすべて「人為的」なもので、神の意にそぐわない、あるいは反するものも多く含まれることになります。

もうーつは「神の約束/宣告/裁き」などです。それは神ご自身が果たされます。実際の行使者はみ使いであったり、特定の人間であったりしますが、そこに人々が介在する場合、それは神の導きや啓発、援助によってこそ果たされるものです。それは決して「人為的」なものではなく、神が将来必ずそう「なさる」という類のものです。

しかし実際には、「神の先見」に基づいて語られた事柄に神が介入され、その目的に沿った「神の約束や裁き」が成し遂げられるというような、双方が入り交じったような預言も少なくないと思います。

これらのことを踏まえて、聖書預言を考察してゆくなら、その成就とされるものについて、より的確な判断を下すことができるでしよう。

さて、冒頭で「預言には目的がある」と言いましたが、「預言させた目的」と「預言を成就させる目的」(基本的には違いはないのですが)という別の観点から捉えてみることも一考に値すると思います。
「預言させた目的」は例えば、警告や勧告、目覚めていて神の救いに預かるための励ましなどがあります。
「預言を成就させる目的」は、実際にそれが実現することそのものだけでなく、付随的な目的もあります。
この表現では分かりにくいので、実例をあげて説明しましよう。
エゼキエル38,39章に記されているマゴグのゴグに関連した預言です。
「ゴグ」とは、簡単に言えば、神に反逆する悪の勢力です。回復の恩寵が与えられて安住していた神の民イスラエルとその地は突然に攻撃されます。

「わたしはあなたを引き回し、あなたを押しやり、北の果てから上らせ、イスラエルの山々に連れて来る。あなたの左手から弓をたたき落とし、右手から矢を落とす。あなたと、あなたのすべての部隊、あなたの率いる国々の民は、イスラエルの山々に倒れ、わたしはあなたをあらゆる種類の猛禽や野獣のえじきとする。あなたは野に倒れる。・・」(エゼキエル39:2-5)

39章全体を見ますと、まず前半(1-20)はゴグに対する神の裁きが記され、その中で「一 神である主の御告げ」というフレーズが度々繰り返されます。

この、預言を成就させる目的は、神とその民に敵対する者たちを、彼らの腹の中にある策謀を実行に移すチャンスを与えることにより、現行犯で滅ぼすという、囲捜査的な感じもする作戦ですが、これによりそうした勢力を断裁するという目的が達成されます。

しかし、成し遂げられるのはそれだけではありません。
続く21,22節には「わたしが諸国の民の間にわたしの栄光を現わすとき、諸国の民はみな、わたしが行なうわたしのさばきと、わたしが彼らに置くわたしの手とを見る。その日の後、イスラエルの家は、わたしが彼らの神、主であることを知ろう。」と語られ、この行動により、異邦諸国民は神の栄光、裁き、み手の働きを見、神を知る。と記されています。
そして後半は、度々語られる、哀れみによるエルサレムの回復が綴られています。

これと同様のパターンは、モーセの時代、エジプトのフアラオがイスラエルを去らせる際に、仕方なく許可したものの、やっぱりそれを後悔し、結局自分の本心を成し遂げようとして最終的にはその後を追ったため、紅海に没してしまう。という出来事などに見られます。
これにより「敵対する勢力の抹消」が成し遂げられますが、同時にその背後にあった目的が成し遂げられます。
その付加的な目的というのはつまり、下記の一例の聖句が示すように、神の栄光の表明と主権の証明です。

「パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現わし、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。…見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとからはいって来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現わそう。
パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現わすとき、エジプトはわたしが主であることを知るのだ。イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもベモーセを信じた。」(出エジプト14:4,17,18,14:31)

このように、預言された出来事が、現実に生じたかという点の検証とともに、その背後にある、それによって明らかになる、神の目論見や願いがどのように実現しているかに注目するなら、聖書研究者による専門家の解釈とされるものを鵜呑みにすることもなく、まことしやかに解説する人たちに頼らずとも、自分自身で確認、確証できるはずです。


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